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人物伝・河井継之助「再遊学(久敬舎時代1)」



安政6年正月7日、河井継之助は33歳にして再度の遊学を果たし久敬舎へ再入学します。この頃は後年”安政の大獄”と呼ばれる弾圧が行われている最中で憂国の志士の魁となった男達が政治犯として処刑・投獄・流罪などになり、それまで開明派の秀才であった若者が”何か”に目覚めざるを得ない時期でした。この後数えきれない若者達が政治活動に加わり、あるいは命を落とし、あるいは将来国家の舵取りをするための経験を積んでいきます。

さて、この時期に江戸にて遊学をしていた継之助はどうだったのでしょう?彼は政治活動に当たるものを行っておりません。ペリー来航時には私費を投じて調査員を浦賀へ派遣したり自ら出府、建白書を出すなど雪国の小藩長岡藩においては際立った活動を行った男が、です。

この時期における継之助を語り残してくれた人物がいます。苅谷無隠と言う男で下野で生まれ、久敬舎〜昌平黌で学び天狗党筑波山挙兵に参加、維新後は裁判所判事・師範学校教員として生き、大坂陽明学会に尽力しました。ここからは彼が残した逸話を幾つか紹介したいと思います。

(其一)
ある日、16歳の三郎(苅谷無隠)に継之助が塾の課題である詩を代わって作ってくれと言いました。それに対して三郎は「私はまだ16の小僧で作るには作りますがあなたの顔を汚すようなものだからお断り申します。」と言うと、継之助は「詩や文章が上手であろうが下手であろうが自分を軽重しない。焼芋を16文ばかり奢るからどうか作ってくれ」と言ったそうです。当時は詩と文章が上手ければ立派に学者が勤まった時代なので三郎は「妙な人がいるものだ」と思ったそうです。

(其二)
ある日、三郎が三国志を読んでいると、継之助が「おまえはよく勉強をするが、なんで退屈もせずにそんなに勉強ができる?」と聞くので、三郎は「ただ面白いから退屈せずに勉強しております。」と答えると、継之助に「面白いだけの事で本を読むのであればいっそ本を読まずに芝居か寄席へでも行くが良い」と言われました。

学問の目的が何であるかがわかっている男だからこその言葉ですね。

(其三)
継之助の股に大きな腫物ができた時がありました。とても不自由そうだったそうですが、少しも苦しいの疲れたのと言わなかったそうです。そこで三郎が「少し休んで治療をされた方が良いのでは?」と言った所「人の世は苦しい事も嬉しい事も色々あるものだ。その苦しい時に堪えなかれば節義だの忠誠だのが成し遂げられない。苦しい時を堪えるのは普段から練磨しておかなければできないものだからちょうど今やっているのだ」と言われました。

これが継之助の学問(の一つ)なんでしょうね。

(其四)
当時、久敬舎における食事は沢庵と飯のみの質素なもので、殆どの学生は副食物として豆腐な豆の煮物などを用意していました。ところが、継之助はそうした事は一切せず沢庵をぼりぼり食っていたそうです。ですが、月に一度か二度は柳橋へ行って芸者を揚げて飲んでいたそうです。粗食に対しての対処方が他人と全然違っていた訳ですね。

継之助の気質がよく現れていると思います。

当時における継之助の逸話は多くて今回だけではおさまりきれません。次回も逸話を紹介したいと思います。

(この項つづく/Mr.Valley)




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