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人物伝・河井継之助「再出仕・牧野家について」



安政4年に家督を相続した河井継之助は翌年秋に外様吟味役になり再度出仕する事になりました。この「外様吟味役」なる役職について補足をしますと、通常藩の体制として刑事は専門奉行、民事は代官・郡奉行の管轄だったのですが、重大事件が起こった際に平侍を抜擢しその任に当たらせる制度があり、その役職が「外様吟味役」だったのです。継之助のような「はみだし書生」にとってはめったに訪れる事のないチャンスでした。担当は宮地村における庄屋と農民の争いでした。継之助はすぐさま現地へ足を運び、調査を行い約半年で領内における懸案事項であった問題を解決しました。継之助の解決方は支配階級(この場合は庄屋)の非を認めさせ、被支配階級には訴訟を取り下げさせる、と言うもので今後何度か同じような訴訟を扱いましたがいつも同じような結末で治めています。彼は異端児として藩内で認識されていまいますが、官僚としては秩序を好み支配階級に大きな痛手を負わせないような処理をし、被支配階級の憤懣をうまく抑えるバランスの良い実務官僚である事がうかがえます。

ここで継之助は官僚として華々しい経歴を重ねる筈だった..のですが..継之助はここでも普通はしない事をするのです。彼は再度の遊学を希望し、役職を投げ捨て江戸に向かうのです、それも私費で。普通、江戸遊学は若い頃行い帰国後役職に就く、その際学問畑に進んだ場合はその後何度か公用にて学問を深める、と言う場合が多く、継之助は書生の頃遊学し帰国後官僚として実務に就きまずまずの結果を収めつつあった訳で、再度の遊学は普通ありません。それを、職を辞して私費にて行くのですから....今の感覚だとなかなか就職できなかった男がやっと職に就いてあっと驚く昇進で係長になった途端に辞職して大学に再入学するようなものですね。安政5年12月28日、藩の御用仕舞の日に許可を得て江戸に向かって出発したのです。ちなみに、司馬遼太郎先生著『峠』の始まりはこの辺りでした。冬のある日に河井継之助が筆頭家老稲垣平助宅に押しかけ遊学を許可させるべく議論をふっかけていた、あのくだりです。

12月28日の許可であれば普通正月位は地元で過ごしてゆっくり出発すれば良いものを継之助はその日のうちに出発しています。当時の行動家によくある生き急ぎと言うか、絶え間無い情熱の炎のために一時ものんびりできなかったのでしょう。

再度の江戸遊学については次回に譲るとして、長岡藩牧野家について少し語りたいと思います。牧野家は元々武内宿禰(『古事記』『日本書紀』に登場する名臣、伝説上の人物とも言われる)を祖とし、その八代目が大和国高市郡田口村に住み推古女帝に仕え田口姓を賜り、その後15代後に阿波に住み、重能の代に平家に属し従四位に叙せられ民部大輔となるも平家滅亡と共に家領を失い一家離散するも重能の孫成朝が三河国宝飯郡牧野村に住み牧野氏と称しました。長年勢力を伸ばし成朝の九代成種・貞成に至って牛久保を本拠とし戦国時代には今川氏の勢力下にありました。当時松平家(後の徳川家)とは同格ですね。

戦国時代の七不思議とも言える?桶狭間の戦いによって今川家は弱体化、三河における今川勢力は雪崩をうったが如く織田・松平陣営に帰属したのですが牧野家は今川家の防波堤として戦うも氏真からは一切援軍は来ない、そこで当時の当主成貞は桶狭間の戦いから5年後の永録8年に徳川家へ帰属しました。そこからは”三河衆”として武功を挙げ”徳川十七将”の一人に数えられるようになりました。徳川家康が関東へ移る際に上州大胡2万石の大名となり、元和4年に長岡移封となりました(元和2年に越後長峰へ移る筈だったのですが、移る前に長岡へと再度移封を命じられて移ったので実質は大胡から長岡です)。

それ以来約250年長岡を領地として質実剛健を貴ぶ藩風を守ってきたのです。

そうした地味かつ譜代名家であった長岡藩牧野家は幕末期において好むと好まざるに関係なく国政の表舞台に立ってしまいました。その藩にいる有能な若手藩士は悩み・苦しみ・身悶えながら行動していくのです。河井継之助はその中の代表格として今後藩のリーダーとなって舵取りを行うのです。

(この項つづく/Mr.Valley)




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