河井継之助は長い長い西国遊学をそろそろ終えて、江戸に戻ることとなります。
西国(九州、四国等)から松山に戻ったのは安政5(1859)年11月、後に”安政の大獄”と呼ばれる粛正の嵐が吹き荒れていた頃でした。この年10月7日には橋本左内同月27日には吉田松陰が処刑され、後の世から見れば暗黒の時代と呼ばれる頃でした。継之助は松山にしばらく逗留、翌年3月に江戸に向かって立つこととなります。
なぜこの時期に戻ることになったかの大きなポイントはこれでしょう。「桜田門外の変」
安政7年(1860年、変後万延元年)3月3日、水戸浪士を中心とした集団に大老井伊直弼は暗殺されました。この事件は江戸幕府の権威におよぼした影響などの話もさることながら国政の一大転換を迎えることとなりました。
変後に反井伊の久世広周及び安藤信正の政権となり従来の強硬姿勢に若干の修正が加えられ、後の坂下門外の変(文久2年、1862年)によって幕政が安政の大獄によって処罰を受けた側に移る流れの突端となったのです。継之助が松山を立ったのは万延元年3月29日、桜田門外の変から26日後でした。公表の遅れ及び当時の通信手段、要職以外の人物への情報の遅れから考えると、継之助の耳に入ってから1週間もしないうちに松山を立ったのではないかと思います。
継之助としては、時代が大きく動くであろう予感の部分と、具体的には長岡藩のことがあったと思います。先代藩主の牧野忠雅が老中を辞職(安政4年、1857年)し、養子忠恭が牧野家を継ぎ(安政6年、1859年)、そろそろ藩主忠恭が幕閣で何かしら大きな役割を担わなければいけなくなるであろう時期です。松山藩主板倉勝静のもとで活躍する山田方谷のように自分もやらなければいけないとでも考えたのでしょう。
江戸に戻ってから両親に宛てて出した手紙の中で帰路について書かれていまして、その部分を参考に江戸までの旅を追っていきます。
3月29日(雨) 新見泊
松山を出立、備中新見(関家1万8千石)宿泊
閏3月朔日(晴) 新見泊
油野村の鉄山にいる木下万作のもとへ参り、製鉄の仕方を見学する。
閏3月2日(晴) 多里泊
三国山を越え(備中、備後、伯耆の国境)山陰道へ出る。多里に泊まる。
閏3月3日(雨) 木次泊
横田に出る。木次の宿に泊まる。
閏3月4日(晴) 杵築泊
今市より杵築へ行き、則大社に参詣。
閏3月5日(晴) 松江泊
松江に行く。松江城下は綺麗で感心。湖水に大橋あり、そこから大山を東に見ると(江戸の)永代橋から富士山を見るが如き好風景。
閏3月6日(雨) 米子泊
閏3月7日(雨) 赤崎泊
後醍醐帝隠岐より御着船の所、御来家を通り赤崎に泊まる。
閏3月8日(雨のち晴曇) 青屋泊
橋津の宿を通り青屋に泊まる。
閏3月9日(雨のち曇) 鳥取泊
閏3月10日(雨) 浜坂泊
鳥取城下を立つ。四里あまりで但馬路に入る。浜坂に泊まる。
この間に七坂八峠というところあり。五十丁道にて山ばかり険道なり。#この後、継之助は京都に向かっていきます。
※出雲;島根県東部、松江があります
伯耆;鳥取県西部、米子があります。
因幡;鳥取県東部、鳥取があります。
但馬;兵庫県北部