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人物伝・河井継之助「西国遊学25(番外)」



今回は番外として河井継之助と山田方谷をいくつかの角度から見ていこうと思います。
まず、この2人は後世から見て似た部分があります。人生哲学を語る本でありがちな(^^;;手法て書いていきますと

・譜代藩において異例の抜擢を受け、藩政を司る地位まで登った
・陽明学の影響を強く受けた(であろう)
・藩政改革を行い後世の人から特筆される結果を残した

細かく書けば沢山あるでしょうが、まずはこのあたりでしょうね。

次に、2人を明確に分ける点を一つ挙げてみます

・戊申戦争において西軍(官軍)に対して

河井継之助;結果として抗戦、長期にわたり多大なる死傷者を出した
山田方谷 ;降伏、藩内において戦争を起こさなかった

これが後世の印象を大きく変えたところでしょう。

この異なる結果をもたらした要素について少し考えてみましょうか。

まず、河井継之助・山田方谷の違う点をとりあえずいくつか挙げていくと

・出身(身分);河井 武士(馬廻役格、上士といえるでしょう)
       ;山田 農民(製油業)
・学問;河井 あまり頭角を顕わさず(藩校崇徳館、齋藤拙堂、古賀茶渓、
                  佐久間象山)
    山田 学問で頭角を顕わした(丸川松隠、寺島白鹿、春日潜庵、
                  佐藤一斎)
・藩政参加までの畑;河井 行政一本(評定方随役目付同格、外様吟味役、
                  物頭格御用人勤向公用人兼帯、郡奉行、
                  町奉行、御年寄(中老)、家老、家老上席)
         ;山田 当初は学問畑(藩校会頭、藩校学頭、郡奉行、顧問)
・戊申戦争時(慶応4年)年齢;河井 42歳
              ;山田 64歳
・戊申戦争時の藩主の居場所 ;河井(長岡藩) 藩内(長岡)
              ;山田(松山藩) 藩外(江戸〜宇都宮〜会津〜箱館)
・藩の規模;河井 7万4千石
     ;山田 5万石
・藩のある場所;河井 越後長岡
       ;山田 備中松山(現在の高梁市)

まずはここらへんから考えていきましょう。

身分についてですが、元々士分だった河井とそうではなかった山田の間にどの程度 違いがあったかをどう考えるかでしょう。

道筋としては武士あがり→藩、幕府を重く考える。観念論的
      農民あがり→上記よりも地域住民を考える。現実的

を軸として2人の行動の違いに結びつけることができるかと思いますが、私はこの部分についてさほどに重要視していません。戊辰戦争時に多くの(というよりほとんどの)藩は戦闘に及ぶことなく降伏しています。その藩の多くは門閥家老が藩政を司っており、降伏は士分出身ではない人物の特徴的行動ではありません。この点に関しては、河井も珍しいパターンですが、山田がいかに特殊な栄達を遂げたかを示すものになるでしょう。

学問については、多少影響があるように思います。
結果的に抗戦した長岡藩において抗戦・恭順(つまりは降伏)2つの意見が飛び交いぎりぎりまで混乱していたようです。そうした時に藩校の教授方方面は皆恭順派であったようです。山田方谷は勿論学問畑出身です。そうした事や一般社会の動き?からすると、学問を深く行った人物は保守的というか、大勢追従を行う傾向があるように思います。そうした事から考えますと、河井が長い学問修行歴があるのに関わらず、あまり学者的な考えに陥らない人間であった事が推測できます。

年齢についてですが、確かに22歳の年齢差はありますが、河井も42歳、決して若気の至りで無茶な事をしてしまう年齢ではありません。単純に年齢では比較要素になりにくいでしょう。
ただ、河井はしっかり実務についてから5年あまりで家老上席まで上りつめています。この5年あまりという期間は考慮に価する点かと思います。5年だと、普通の社会では、けっこう勢いで判断してしまう人が多いようにも思います..

藩主がどこにいたか、という点はどうでしょう..河井の決断要素として藩主の意向(幕府側)が強かったのでは?というのがあります。これはあるでしょう。しかし、山田は藩主の意向を直接聴く環境になかったとはいえ、藩主が東軍側の中心人物として行動しています。近い例は桑名藩でしょう。桑名藩は藩主の意向に応える形で東軍に参陣し数々の戦績を残しています。
そうした点から、”河井は藩主が近くにあって、その意向に従うしかなかった、山田はそうしないで済む環境にあった”とは言いにくいように思います。あくまでも判断のしどころで河井・山田がどう考えたかがポイントでしょう。

石高については、この2藩はともに決して大きな藩ではなく、行動を決める上での差として考えるほどのものではないと思います。5万石ではしかたなく降伏、7万4千石だと抗戦する力あり、とはならないと思います。確かに長岡藩は当時かなりの財力を持っていたために過激な行動に出るだけの準備ができるってのはあったと思いますが、同様の経済的余裕は松山藩にもあったはずです。長岡藩よりも経済状況は良かったでしょう。

地理的状況ですが、これは大きいと思います。

越後長岡は完全に東日本側で、当時の勢力図(東西軍)ではちょうどぎりぎりのとこ ろでしょう。
西は大勢に流され気味の勢力がどうやら西軍につきそうな気配(高田藩など)で、近隣では小藩が長岡藩の動き次第、近隣の一部は天領ながら会津藩預かりとなっていて実質東軍勢力範囲、東側は基本的には東軍勢力となる様子。まさに”判断のしどころ”な地域かと思います。

備中松山藩はどうでしょう。ここは判断で悩むような地域ではないと思います。まわりじゅうが時代の流れに順応する形で西軍となり、少し離れたところには長州・芸州藩など西軍の中心勢力がいた訳です。桑名藩軍のように地元を捨てて東日本で活動する以外に東軍として行動する事は無理だったでしょう。

このようにだらだらとですが(^^;;各種相違点から行動の違いを考えると

・実務歴(河井が短すぎる)
・地理的要因(越後長岡はとても微妙な位置にある)

この2項目がまず浮かび上がってくるかと思います。こうした項目が要因となって長 岡藩・河井が普通と違う行動に出たと考えるのが妥当なのかな?と思います。

それでは、歴史ではタブー?である”たられば”を一つやってみます。

”山田方谷が42歳の年齢で実務歴が浅い状況で長岡藩家老上席にいたら同様の行動をしたか?”

これを考えてみましょう。

実は、この文章を書きながら、私はずっとこの点を考えていました。今までの文章はここに至るまでのフリでした(^^;;。

フリの中で、河井と山田の個人的及び環境的相違点を並べ、そこからポイントをさぐり、その違いから”あの時期”の行動にどう影響したかを考えました。そうして最後の”たられば”の問いを設け、それに対する私の判断は

”山田方谷だと同様の行動はとらなかった。”と考えます。そこに河井継之助の”特殊性”が感じられるのです。その”特殊性”が何なのか、それがこの「幕末歴史館」を書いていく上での最大のテーマです。


これから「幕末歴史館」に多くの人物が登場します。松平容保、佐川官兵衛、秋月悌次郎、松平定敬、立見尚文、千坂高雅、雲井龍雄、山本帯刀、川島億次郎、古屋佐久左衛門、大村益次郎、山県有朋、時山直八、西郷隆盛、岩村精一郎、etc.こうした人物を鑑にして”河井継之助”がいったいどんな人物なのかを考えていこうとおもっています。

次回からは、松山から江戸へ戻る旅に話を戻します。

(この項つづく/Mr.Valley)




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