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人物伝・河井継之助「西国遊学23(豊前、長門、備後、備中)」



継之助にとってこの西国遊学はどのような記憶として残ったのかを少し考えてみました。
まず、河井継之助は”最後の武士”として認識される事が多く、どちらかといえば古くさい頑固なイメージで捉えている方が多いと思います。ですが、彼の足跡をたどると、そこには進歩的・開明的スタンスを常にとりつづけ旧弊勢力との戦いであったように見えます。ただ、政治家としての最終局面で倒れゆく旧勢力側の一員として戦ったために古臭いイメージがついたんでしょう。
そんな継之助にとって、西国の強い日差しや長崎の賑わい・佐賀の様子などはみな新鮮で興味惹かれるものだったと思います。そこで長岡を考えた時のもどかしさは並大抵のものではなかったでしょう。継之助の脳裏に浮かんだのは横浜かはたまた新潟か。いずれにしても彼の頭の中には何かしらのプランがこの段階であったと思います。それを整理したのは案外この項にある船旅だったかもしれません。

10月27日  晴  船中泊

これから船に乗るために宿を昼過ぎに出る。下関へ渡る。下関で船宿である米屋吉兵衛宅へあがり、しばらく休んだ。それからあちこち見物し硯等を買う。女郎町、安徳帝の社(赤間神社)へは行っても良いかと思うも日が暮れてきたので行かなかった。夜四ツ(10時)頃船に乗る。間もなく船が出る。全一日の逗留となる。
この旅は長崎から天草へ渡り、薩摩に行って、帰路下関から萩へ出て、山陰道を通って松山へ戻るつもりだったが、果たせなかった事も色々あった。金の不足のため思うようにいかなかったが長崎は勿論、佐賀にも逗留したかった。

何方も替りなき事。
父母に遠く離れる事。
是等の情により長崎にて買物の事。
終に金不足の事。

10月28日 晴 船中泊

船中にて九州・四国・中国その他の島の風景で良い所数々あるも名を聞いたのと聞いてないのがあり、一々覚えていないために略す。乗り合いの者から御本丸(江戸城本丸)焼失の話を聞く。下関では余程早く知っていた模様。初めて聞いた時には嘆息するのみ。今夕までに三十里、今晩で二十里進み御手洗へ至る予定。

#江戸城本丸焼失は10月17日の事件。当時の交通手段や情報公開の程度から考えると、この時期の下関は情報が早く、さらに大衆レベルにまで話が広がる状況にあったと考えられる。後に倒幕の主役となる長州は政治的には別としても、この時期に時代の中心となるだけの素地(情報収集能力、大衆の意識)が整っていたと考えられます。

10月29日 晴 船中泊

乗り合いに江戸修行へ向かう薩摩の剣士がいた。島津義弘、万里朝鮮征伐より帰国の節の歌を歌う。尤も奇なり。また、豊後の刀を見せる。美事なる品なり。その質朴さ、実に戦士なり。我れ蘭画の話をすると、乞われたので見せた。細川(熊本藩)の人もあり、彼は通人。その他江戸の者、大阪の者、柳川の者、豊後の出家4名、中国の者数名もいた。余りに大勢で、猥雑な話も多く、風景を楽しむより外にする事もなかった。

この時期に江戸修行へ向かっている薩摩藩士が誰かってわからないでしょうかね? 薩摩に詳しい方からの情報お待ちしています。

11月1日 昼過不天気 福山泊

昼頃に備後の鞆へ着く。船代一分、飯代二朱、布団代四百、しめて一分二朱であった。大阪まで(一分二朱程度)よりも割高なれど陸よりは安い。餅を食い、入浴し保命酒を飲む。
海に添う小山を越えて福山へ出る道は好風景なり。小山を越えると城下が見えた。七ツ(午後4時)前より風雨となる。そのなかに霰(あられ)ふり、あまりに寒く困る。
程なく福山へ着く。城も良い。中程に川あり、大船ではないものの数艇あり、十一万石(福山藩は十一万石)には過ぎたるところなり。船中で菓子の話が出る。福山の名産は油餅、その他の菓子の名をこの辺りの者誇る。油餅を食べたところなるほどうまい。菓子は良いところだが人は悪いところのようだ(ことさらに誇ったりするのはよくない)。宿は文武宿へ行く。

11月2日 曇 七日市泊

朝四ツ(10時)頃まであちこち徘徊し、福山を出る。程なく中国街道で、このあたり随分に開けている。備中備後は山上に民家、寺社の綺麗なるものありて遠くより望むに風景の宜しいところ数々あり。理由は地の狭さと地の良さと雪が降らない事か。
山多い故に終日寒く、風強く冬になって一番の寒さになった。一橋領の七日市に泊まる。七日市は一橋陣屋の他学校などもあり、家数も相応にあり随分宜しいところなり。

続く

(この項つづく/Mr.Valley)




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