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人物伝・河井継之助「西国遊学22(筑前)」



ここで河井継之助の年齢等についてふれようかと思います。何度か年齢に関する事を書いていますが、読まれている多くの方がこの時期の継之助の年齢を忘れているかな?と思いまして。

河井継之助はこの頃33歳(数え)、決して若くはないですね。以前に2度役職に就きましたが共にやめています。役職につかずに(要は無職)ぶらぶらしている訳です。この継之助は復職するのが文久3年(1863)、継之助が37歳の時です。そこから継之助は形式的に一度辞職をしますが、藩官僚として頭角を顕わし42歳の時(慶応4年、1868年)には家老上席(筆頭家老)、軍事総裁として長岡藩の大黒柱として激動期の中長岡藩の命運を左右する立場に立つ訳です。

後から見ると、この時期の継之助は無職ながら組織(長岡藩)の実質トップに立つ9年前となります。彼は家老上席・軍事総裁となった慶応4年に人生を終えるので、これは彼の残り人生ともなる数字です。これから9年間、いかに彼が生きていくかを一緒に追っていきましょう。

繰り返し書きます。(明治維新、戊辰戦争、継之助死亡まで)あと9年です。

10月25日  晴  飯塚泊

久留米も元は甚だ勝手(経済状況)が悪かったとの事。当君からの倹約で持ち直した模様。
松崎を立ち、山家へ出る。この道では黄櫨(ハゼ)多し。宝満山に向かって進む。天拝山も遠くに見える。
それより段々山にかかる。冷水峠は険しいと思うも、このあたりの道としては険しいだけで越後で長岡から越後へ行く道などとは比べものにならない。甚だ行き易い。ただ、九州路に入ってからは一番の峠道である。しかしながら石は少なく、かえって諫早より長崎へ出る道の方が難き様に思う。
村々も絶えずあり、山上十町手前に太閤の赤飯あり。小さき茶碗一杯で十六文、高い。九州征伐の時に通ったのであろうか。
山を下り、平野部に出る。峠を越える時は天気が悪かったが晴れた。還り馬あり、我に勧めるも、我江戸を出てより一度も馬・駕籠に乗らず、荷物を持たせる事もなく来たので、断る。彼、強いず道連になって話をする。そのうち「明日は小倉までの道が遠い、荷物も重そうだし余り我慢しない方が宜しいのでは?」と言う。我、三里の道百文にて飯塚まで乗る。
このあたり、田畑へ出る者、裸形の者、数々あり。余程暖かきところなり。鋤にて地をおこすのをよく見る。筑後だと大概鋤3枚なり。松山では2枚。我が国(越後)ではどうだろう?

26日 晴 小倉泊

暁七ツ(午前4時)頃、飯塚を立ち、川に沿って数里進む。このあたり、一面の平地にて広大なり。福岡の平地と、ただ宝満他諸山が中にあるのみ。筑後は余りに平面が多く、或いは山が少なく不自由なところもあるかもしれないが川多くあり、如何にも上国と思われる。筑前は平面も多いが間々に山もあり山海の利を兼ねる。鎮守府がこの国にあるのはよい。木屋瀬へ出て、小山少々通って黒崎へ出る。飯塚よりこれまでの道は平面にて石もなく、席上の如き所多く、実に感心の所なり。これに加え善政を行い国を富まし兵を強くしたら善の善なり。
小倉へ七ツ半(午後5時)頃着く。この度は出羽人(行きの際案内してもらった酒田の本間という人)の案内がないため本道を通って城下に入る。城下から大橋(船着場)へ行く。ここはこのあたり一番の賑やかさがある。近くの宿に泊まる。
長崎の者二名と同宿となる。今まで長崎の者に外国交易の品を度々聞くも、何れも行く(あらゆる商品が輸出される)とのみ申す者が多かったが、今回聞けた品物は

昆布、大豆、小豆、醤油、麦、干海老、木ブシ、鑞、ブクリウ、青貝細工、椎茸、銅六十万(この数は確かとの事)、葛、かつお、串貝、シュロ箒木、伊丹・灘の酒、シャクナウ(樟脳)、五日市織物、絹類、木綿類、塗り物、薄画物、茶碗類、瀬戸焼物

この者も、ざっと話すのみにて「何もいかぬものなし」とやはり言う。

#次回は船で福山へ向かいます。

(この項つづく/Mr.Valley)




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