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人物伝・河井継之助「藩校時代」



河井継之助の生家は家格120石と言う”まさに”能力が問われる立場でした。

江戸幕府がその基盤を盤石のものにしてからは”藩”において藩主は勿論門閥家老もその能力を発揮する機会を失いました。戦国時代には一軍の将として暴れまわった男達の末裔は子孫を残す事以外にそれほど仕事がなくなってしまったのです。(勿論上杉鷹山等の例もあります)
それに比べて戦国時代に侍大将程度の男達の末裔は藩において中級武士として実務に携わる官僚となり貨幣経済化が進む社会で必死に藩を支えてきました。その階級から多くの藩政改革者が現れました(代表格としては長門藩の村田清風(50石、父は郡代官でした))。

幕末期の長岡藩においても中級藩士の子弟に優秀な人材が多く輩出しました。河井継之助の他に小林虎三郎(100石)、川島億次郎(生家25石)、花輪求馬(200石)、村松忠治右衛門(生家130石)、鵜殿春風(150石)その他幕末の藩政を担う人物の殆どがいわゆる”中級藩士”でした。(列挙した藩士はこれからどんどん登場します)

その優秀な仲間達の中にあって河井は藩校でどうだったのでしょう?.....
実はそれほど優秀ではなかったようです。彼のまわりにいた男達は藩校崇徳館で優秀な成績を収め助教となり江戸へ留学していきました。成績を重視する(ある意味で実力主義)崇徳館において河井は一歩も二歩も出遅れてしまいました。嘉永2年には川島億次郎が、嘉永3年には小林虎三郎が江戸に向かいました。ちなみに川島は河井より2歳年長ですが小林は1つ年下です。河井が江戸に向かうのは嘉永5年で年下の小林よりも2年後でした。

これは河井が学問において劣っていたのでしょうか?それとも陽明学に傾斜したため正規の道において多少遅れがでたのでしょうか?正直言って私はわかりません。ただ、勝手に推測すると河井継之助には最初から四書五経の学問は肌が合わなかったのでしょう。それでもまぁまぁやってはみるもの昔からの友人である川島や小林に敵わない、そこで陽明学に出会ってのめり込んでいったのではないか、と思います。

当時崇徳館の都講(校長)であった高野松陰は当時一流の儒学者であり陽明学者であった佐藤一斎のもとで学び(佐久間象山、山田方谷等は後輩にあたる)長岡に陽明学を持ち込みました。それによって河井継之助が陽明学に傾斜していったのです。

若い頃の情熱も実を結ぶことなく終わりかけていた継之助が一念発起したのは嘉永4年、25歳の時でした。川島、小林が江戸に向かって長岡に残された継之助は師匠(高野松陰)の師匠である佐藤一斎が著した『言志録』の筆写を始めました。この時期に継之助は何かを得たのでしょう、翌年にやっと江戸留学となりました。

長岡しか知らない田舎者がやっと江戸デビューです。ちなみにこの年はペリーが来航する一年前、正に”激動”の時代がすぐ手前まで来ていた頃でした。

なかなか話が進みませんが(^^;;次回で江戸の話に入ります。

(この項つづく/Mr.Valley)




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