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人物伝・河井継之助「西国遊学18(肥前(天草2))」



しばらくの間肥前(佐賀〜長崎)にいた継之助ですが、肥後へ向かう事となりました。

10月20日 朝晴 学料泊

朝七ツ半(五時)頃、船を出す。夜明ければ雲仙、天草、肥後山連なり風景甚だ良し。予思うに、今日は天気にもなく、雨ともつかず、船には甚だ悪うからんと思う。船頭はこのような話を嫌う者なれど「今日の天気定まらず、強風起きそうな日」と申すと彼(船頭)は何も言わず。五ツ(午前八時)頃より西北のの風強く、船走る矢の如し。船頭言う「此の分ならば、一日に六七十里も住く可し。「左もあらば誠に幸運、只、風の変わるのを罹る」と予は言いけるところ、程無く風も弱りけり。
船頭は二人、老人は十蔵、若者は八蔵。叔父甥の由。十郎は老いぼれて何の役にも立たず。十蔵は口をきくのみ、八蔵独りにて働き、何も言わず。
風は弱く、船は遅れ、雲霧四方に起り、雲仙・天草のみならず肥後山も見えず。風変わり、東風(逆風)となる。やむを得ず艪をおして行くも、風いよいよ強くなり、八蔵精力を尽き、十蔵「今日は全体、船を出す日にあらず。甚だ無理なり」などと言うのみ。八蔵、やむを得ず碇をおろし様子を見る。船の中には水が入り出す。八蔵はその水を独りで汲み出す。独りにての骨折りは感心す可しなり。
又々風強くなり船は左右に傾く。八蔵「この分にては島原へ帰るの他なし、ここにじっとしている事は出来ず」と言うも「此の如き天気は風変わるものなり。何卒肥後の方へは行きたい」としきりに西風を願う。
増子(二本松の画工、同乗)はただ経を読み琴平を念じ、おかしくあるも、予も酔って難儀をし、笑われもせず、手足も不自由、精力も乏しき様にあり。憂いても詮無き事。「寝るに如かず」と考え臥しければ、果たして常に復しける。
兼ねて思う、君命とか、父母の命とか、戦は勿論、その名正しくてやむを得ざるに出ずるならば、如何なる暴風大波にも、気、此にあらずして彼にあり。波にて全く腹のもめるのみにあらず、諸国の遊歴も一己の慰みのみにあらざれ共、やむを得ざる訳には固よりなく、畢竟、私に属するの心あれば、自然、心も快からず、それ故、胸中も流通せず、腹は言うまでもなく、手足に至る訳と思いけり。往年の出羽行は、則ち是なり。彼時は天気は晴、船さえ好くば罹るる日にあらず。此の日は湾内故、波は彼時に格別の勝りはなけれども、船は更に小にして悪しく、風雨の荒れたる故、別して案じける。渡海はところによりては注意する必要あり。
暫らくすると、八蔵の言うとおりに風向きが変わり、船を肥後に向けて走らせだした。予は臥したままで船の出るを知らず、此の如く寝入りしは、よくよく思い切りし故ならん。船は昼前に三艘見けれども、昼後は一艘もなく、実に危機と甚だ罹れけり。
全体、熊本の川筋か船着場へ入るべきなれ共、南風なりても亦強風故、わずかのところなれとも、その川筋へ入る事ができて数百間ある石垣の脇へ着いたのは夜五ツ(八時)前ならん。
増子、我を起こし「着きたり々々」と喜びの声。予、ウツウツとして余り眠りし心もなけれど出るも知らず、着くも知らず、日の暮れるのも知らざれば、余程の間眠っていたようである。此の石垣も湊口も、碇おろせし所より、雲霧の中、かすかに見え、平面に高くあるは何ならんと怪しみけれども此の石垣であった。
増子、予に向かって「かかる危きに、如何なる心にて、此の如く寝らるるものや。おそろしき人なり」と言う故、「あなたのお経のおかげならん」とたわむれば、彼言う「然る訳にはあらず、実に如何なる心にて寝られしや」と尋ねる故、「御承知の通り予は却ってあなたより酔えり、然れど寝りし」と答える。彼、予の大胆さに恥じ入るが如く恐れ入る。しかし、予も十分恐れたり。
八蔵、予に言う「今朝のお言葉、素人の口上にあらず、なぜに然るや」と。予は「生ものしり一番悪し」と言うと八蔵ハ「然らず。船中にては、天気遠近は言うを忌めども、仰せの事、皆、其の理に当たる故、感心いたしたり。それ故、お咎めも申し上げず、実に船も恐ろしきものに御座候」と。
それより芋飯を炊き、皆々食しけり。夜も時々雨降り風ある故、隙間より吹き込む。此の夜は火を焚きて皆々休みける。

#多少鼻につく自慢文章ではありますが、継之助の強さが出ている場面ではないかと思います。

次回からは肥後(熊本県)の旅となります。

(この項つづく/Mr.Valley)




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