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人物伝・河井継之助「西国遊学17(肥前(天草))」



継之助は長崎での逗留を終らせ先へ進む事にしました。彼にとって長崎逗留中に見聞きしたものは全くの新知識ではなかったでしょうが、間近で接する事によって実感する事ができたでしょう。継之助は足を肥後(現在の熊本県)に向けて進みだします。

10月18日 晴 南串村

朝、石崎(通詞)へ暇乞いに行く。その後五ツ(午前9時)頃、宿を立つ。秋月、送りに出る。達て辞しけれども町はずれ、山の余程上まで送る。弱一里もあらん。玉子2つと酒1合にて別れる。おかしな男なれど親切なろころ あり。
それから、日見峠を超え、網場村より船に乗る。此迄来し道にて行李(荷物)を落とす。九ツ半(午後1時)頃船出る。船賃二百文。天気は良し、雲仙を左前に見、右前は天草島、右西の方は唐まで何もなきところ。廻り山々まさに絶景なり。夜五ツ(午後8時)頃、島原領、南串村に着き、船頭の宿に泊まる。婦人は釜にてカラ芋(サツマイモ)を焼く。米の少なき処にて芋を食う由。予、取敢えず望みて食う、甘み薄し。
これよりは諫早へも十里、島原城下へも十里、温泉越、近道すれば八里の由。老夫あり、予、思うに見かけよりは若からんと。六十六ならんと問いしところ、不思議がって段々話をする。みかけと違い、網場・南串などの字はこの者より聞きたり。

19日 晴 船中泊

南串を立つ、雲仙越をせんと思えども、道は不案内、且つ島原候(松平氏)死去にて渡海など厳なる由。長崎者はは大江より渡るという。予もその道へ行きしなり。直に山へかかり、山上四方の風好し。
予、道は早し。彼(長崎者)は女を連れし故、先に行きしところ、道を間違え、山の中を通り、畑を踏み、暫らく本道へ出ず。此の道も甚だ細く、予、広き道を行きし故、間違えしなり。しかし、既に彼等は先に通りし由。予、彼等に倍する道を後になり、余程の目に逢いたり。歎息して、あやしき茶屋に息う。宿より持来りし芋を食いいるところへ長崎にて同宿していいた二本松の画工、増子泰助が来る。よくよく縁ありと話し、同行する。暫らく行くと彼等に追いつく。大江までは四五里計りあり。大概山のみ。
島原は雲仙の山、その裾の小山にて、地面の大半は塞がる様のものなり。この往来、尤も山ばかりなれど、芋畑多し。稲麦植るところもあるが、甚だ少なく悪き地なり。城下は見ざれども、格別に広きところはあるまじく思われる。大江は余り好きところにてはなく、在村なり。海辺に松原あり。その中に社あり。馬場の如き境内、又、砂地に小岩山あり。天草は甚だ近く、遥かに青山あり。所の者に「薩摩山か」と問えば、然りと。「鹿児島は」と問いし処、「それはあれより余程遠し。あの山は薩摩の島なり」という。後から渡海中に聞けば、此処に板倉重正の墓あり、松原の脇の由、石碑あり、「あれか」と問えば「然らず」と、残念なり。
此の松原は舟待ちの時に行きしなり。既に夕陽にて、好風景なり。天草は中々大なるものなり。彼等は叔父の方へ行き、予は増子と別家へ行く。夜四ツ(10時)頃、船頭迎えに来る。乗船す。少し深所に出て、その夜は此に 居宿す。

#次回は継之助が遭難?に出くわしてしまった天草沖渡海となります。

(この項つづく/Mr.Valley)




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