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人物伝・河井継之助「西国遊学10(備後・安芸)」



安政の大獄が吹き荒れる最中の安政6年9月、河井継之助は西国遊学を行い備中松山藩の宰相かつ著名な陽明学者である山田方谷に学び、更に西国へ向かいました。日記だけを見ていると何やらただの旅のようですが、この頃は今ほど情報伝達がなされていない頃なので、この旅における諸藩の行政等を眺める事が大きな経験となりました。この遊学によって時代を先取りしていた西国諸藩を知り、当時東国諸藩にあって革新的な行政を行い、慶応4年の戊辰戦争時にはたったの7万4千石の長岡藩が西軍にとって大きな壁となって立ちはだかる事となるのです。その改革を一手に行った河井継之助の充電期間である西国遊学を今しばらく追っていこうと思います。

9月18日に松山を出た継之助は、まず讃岐へ向かい、金毘羅・円通寺・善通寺に足を運び、備後へ向かいます。

9月21日 晴 鞆津

昼七ッ(午前四時)頃、鞆津に着く。船から上がり諸方を見物する。ここは福山候(阿部氏、11万石。ペリー来航時の主席老中であった阿部正弘が藩主を勤めていた土地)の領分にて宜しき所なり。海岸の山上に寺あり、そこの海を眺める座敷「対潮楼」は名高き所なり。前に泉水山なる面白い山あり。
この山の左右より湊に入る。この楼は絶景なり。「対潮楼」の額は朝鮮人の筆なり。堂の額、海岸山の字は唐人の書なり。また、祇園の社へ登る。ここも好風景なり。余り広くはないが好き湊なり。確か「祇園社」に楠の大木あり。日暮まで遊覧し、また船に入る。これより福山へ行く志ありけれ共、後戻りのため延引す。夜半過ぎ迄、風・潮時が悪いと申し(尾道行きの)船出ず。九ッ(午前零時)過ぎ出る。

「対潮楼」:鞆駅の南約3キロ、元禄年間に建築された寺。徳川将軍の襲職叙慶に韓使が来朝する毎に」、ここに投宿して眺望を楽しみにしたといわれている。額は正徳元年(1711)に韓使・李邦彦の筆「日東第一形勝」である。

「祇園社」:沼名前(ヌナクマ)神社。現在、鞆駅の西南約1キロにあり、祭神は綿津見神・素盞鳴尊。社域は鞆港の後丘にあり、眼下に弁天島・仙酔島を望む景勝の地である。

22日 晴 本郷泊

朝五ッ(八時)頃、尾道へ着く。ここは芸州候(浅野氏、37.6万石)の領分なり。湊ではないが、家数も多く船の通行が賑やかなり。四ッ(十時)過ぎ頃、小船に乗りて三原に向かう。山陽往来の並木・糸崎の八幡社・左の 島々、風景の好きには楽しみける。
八ッ(正午)時分、三原に着く。ここは芸州の家老、浅野雅楽(3万石)の居城との由。城といい町といい、中々小大名の及ぶ所にあらず。城の堀に海魚多く遊び、鯉鮒の類とこなり、更に面白く覚ゆ。城下外れて広平の野、綿多くあり、ここは海を新開せし所の由。その他近来新たに開いた塩浜等、沢山あり。夕方、本郷に着く。庄屋の案内にて宿を取る。この夜、文八なる者と備中の碁打ち・俊治の話をする。

23日 晴 四日市泊

昨夜は、夜半過より雨強く、案じける所、今朝は晴天。本郷を立ち、山にかかる。総じて芸州領、道に松の並木ありて道も好けれども、一里を五十町、七十二町と言い路がすこぶる遠く、往来はさみしく、山道ゆえ「安芸はあき たり」(駄洒落)。結髪のため出立が遅れるも七ッ半(午後五時)頃に四日市に着き、宿す。本郷の前に小早川の城郭あり。その他十五六町のところに寺ありて、小早川(隆景)の朝鮮より持ちし鐘ある由、これも見ようと思うも日惜しまれて見物せず。四日市辺りは、余程地開けあり。所の者、峠多しと言う。我余り身軽の支度を見る故か、この辺りの者、「三原より広島への御飛脚か」など尋ねる者あり。おかしく思いける。

#継之助が飛脚に間違えられる所は興味があります。当時の武家と飛脚の格好がそれほど変わらないものだったのか、継之助が特に軽装だったため飛脚と間違えられたのか、それとも町衆が武家にそうした冗談を軽く言うような雰囲気だったのか..どうなんでしょう?

24日 晴 広島

朝、四日市を立ち、長山を越え、原を通りて、広島(浅野家、37.6万石の城下町)に七ッ(午後四時)頃着く。所々見物。御笹川とて相応の川あり。
これを七つに掘り分けて城の左右へ廻す、これを安芸の七川という由。城市共、広大にして賑やかなれど余り綺麗には之れ無き様なり。城の外郭など、甚だ不手入れなり。広大の領地なれ共、余り富国にはあらざる由、貧富は実に仕方に限りし事なり。しかし、河の掘り方といい、戸口の多く、繁華なるは、三都を見ざれば驚く程なり。
夜四ッ(十時)時分、船宿より宮島へ渡るため船に乗りけれ共、九ッ(午前零時)過迄、潮満たずとて、船出さず。しかたなく小船を雇い、一里乗り草津に着くも、その頃夜が空ける。寒い上に寝もせず、今宵は馬鹿らしい目に合う。
広島へ向かう途中、商人と道連れとなり話をする。備前札(岡山藩)につついて「五両の札が一文になる時もあり」との事。呆れる。それでは全く通用しないのと同じである。あと、安芸は人が多い。これは近国と違い、マビかざる故なりと。万一、マビきが知れると重罪に問われるとの事。これは善政なり。

#備前札はこの頃評判が悪かったようです。直接は関係ありませんが、幕末の動乱期に大藩(31.5万石)でありながら時代に対してたいした役割も果たす事がありませんでした。藩経済がうまくいってなければ思ったような活動もできない訳ですね。

次回、継之助は宮島〜長州路と進んでいきます。

(この項つづく/Mr.Valley)




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