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人物伝・河井継之助「西国遊学8(松山5)」



山田方谷が江戸へ出張する事を聞いて、これからどうするか考えていた河井継之助は一つの結論を出す事になります。引き続き日記『塵壷』からです。

9月3日 晴

山田(高瀬)にて

4日 晴

同上

5日 晴

「水車」へ帰る。

6日 晴

7日 曇 昼大雨 晴

城の東2里程のところにある野山へ行く。一昨年より(藩)士を遣わし稽古を行っている学校である。感心する。夕方「水車」へ帰る。

8日 曇

夜、山田先生来る。

9日 雨

(山田)先生逗留。朝四ッ(10時)頃地震あり。夜明方又震う。この日の話を書き留め置く。

「改革は古い者が老いて死に、若者が成長し、15年位たってはじめてできる事なり。急にすると朋党の憂などがあり、出来ざる事なり。」

#この話は藩侯(板倉勝静)から山田方谷へ”楽翁公(松平定信)の話”としてあったものだそうで、10ケ条あればやり易いものから始め、段々に行うのが良いとも言ってたそうです。

10日 朝雨 曇

朝、(山田)先生帰る。

11日 曇 時々雨

昼時に時々地震。昨日昼頃より始まった腹痛が続く。松茸の暴食が原因と思われる。江戸にて豚の暴食により中って懲りてはいたが油断なり。心の緩みよりおこった事にて他日のために記し置く。

#けっこう笑える話ですね。当時松茸は高級品だったのでしょうか?あと、豚の食べ過ぎで腹痛をおこした話ってこのくだり以外には記録が無いんです。いったいどこで食べ過ぎたんでしょうね?まだ珍しい食べ物だったとは思いますが、新しモノ好き(反面頑固な保守性も兼ね備えていますが)の継之助ですから自ら食べたのではないかと思われます。

12日 曇

人間の腹は24時にて1回するとか。奇妙なるかな。一昨昼夜の腹痛、今日に至って本快。この日「花屋」へ三匁、机・行燈の礼に遣わす。夜、また地震あり。

13日 晴 風強し

夜、天に雲なく、風もやむ。月、愛す可し。

14日 晴

今朝、郷状(長岡の父へ宛てた手紙)を封ず。

15日

夕刻、暇乞いのため進邸へ行く。山田先生も同席。初めて郷状(家郷からの手紙)を見る。水変(長岡における大洪水)を知り夜眠れず。

#この日、

16日 晴

(山田)先生逗留。朝より人来る。先生一寸外出。又、昼後より人来る。絶えず酒ありて話す暇なし。夕方、三島来る。この時は(山田)先生も余程酒を飲む。三島帰るも又人来、夜七ッ(午前4時)迄酒あり。この夜地震あり。

#大宴会だったようですね。

17日 晴

(山田)先生、朝五ッ(9時)前「水車」を立つ。先生を送って飛石まで行く。昼後「水車」へ帰る。掃除をして「花屋」へ移る。夜、進暇乞いに来る。扇子に詩を書いて送られる。進帰った後、栄太郎来る。夜四ッ(10時)頃まで談じ帰る。昼、三島来て「花屋」に宿す。

#この次の日から西国への遊学が始まります。秋月との再開、佐賀・長崎における先進技術との出会い等河井継之助にとって貴重な経験をする事となるのです。

(この項つづく/Mr.Valley)




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