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人物伝・河井継之助「西国遊学5(松山2)」



安政6年7月17日、何かを探しに備中高松まで来て山田方谷に会いました。
その松山で継之助は山田方谷以外の有為な人物に出会いました。その中でも河井継之助の人生を大きく変えてしまう男として、”秋月悌次郎”が挙げられます。この稿でその秋月が登場します。引き続き『塵壷』を基にして継之助の行動を追っていきます。

(7月)28日 晴

会津藩士秋月悌次郎来る。土佐の話などを聞く。土佐では、足軽は高歯の足駄(高下駄)成らざるとの事。その他話あれど忘れる。

#秋月悌次郎:会津藩士。諱は胤永。字は子錫。号は葦軒。天保13年に江戸に出、弘化3年に昌平坂学問所に入る。文久2年に藩主松平容保が京都守護職になると、その股肱となり薩会同盟の立役者となる。慶応1年蝦夷地の代官として一線から退くも戊辰戦争時には副軍事奉行となり作戦指導を行う。
維新後は官員(左院少議

生)・教職(東京大学等)に就く。明治33年病没。

29日 晴

今治の人秀之助、来る。

#今治の人で秀之助(苗字不明)なる人物についての情報がありません。もしおわかりの方がいましたらメイル等で教えていただきたいと思います。

8月1日 晴

秋月帰る。三島貞一郎来る。召し出されに付き引移りのためなり。

2日 晴

3日 晴

夕方、これまで逗留していた「花屋」から「水車」へ移る。夜、進昌一郎来る。

#水車:松山藩侯の旧別荘。かつて水車があったので「水車」と呼ばれていた。山田方谷は月の半ばは城下に来てここに泊まったので、継之助はここで方谷と接する事となった。

4日 晴

5日 晴

6日 終日小雨 時々晴 時々雷

暑い!

7日 晴

角兵衛に土居の書遣わす。進昌一郎より味噌送られる。夕食は進邸にて。

#備中松山において秋月と河井はほんの数日しか会っていませんが、この後に共に旅を行い、友好を深める事になります。この関係が後年の戊辰戦争に大きな影響を与える事になるのです。次回も引き続き松山での生活になります。

(この項つづく/Mr.Valley)




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