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人物伝・河井継之助「西国遊学2」



河井継之助は強烈な個性と共に北国の人間が持つ無邪気な地方性を持っていたようで、富士山に対してまるで初恋の如き可愛らしい行動をとっています。
それが旅日記だと6月13日から14日までの動きとなります。

(6月)13日 蒲原泊

朝、宿の裏から富士が見える。意を決して村山まで登って(2里程度)更に登るも雨が降ってくる。様子を見て、晴れて登ろうとするとまた天気が悪くなる。
登山を諦め蒲原へ戻るも途中で登山同行を勧められまた登るも先が見えなくなってまた断念。富士のための不決断に自ら歎息。蒲原まで戻って村山を見るとかなり登った処にあり、村山から見ても先に富士あり、『富士は実に聖人の如し』。

14日 鞠子泊

富士を気にしつつも(^^;;足を西に向ける。伊豆の諸山・田子ノ浦を見る、良い景色なり。「清見寺」に詣でる、風景愛すべし。
また富士を見て「山中にいれば」と思ったりする。登らずに帰る事、実に終身誤りの一つなり。
久能山に登る。3代将軍ご寄進の五重塔他結構なものあり。
遊覧して阿部川を渡り銭をむさぼられ、鞠子に宿泊。


河井継之助は明確な判断を下し、下した判断に対しては何があってもやりぬくイメージが一般にありますがけっこう右往左往しているんですよね、ここでは。この点は後(戊辰北越戦争)の際におけるある種不可解な行動を考える上での参考になるかもしれません。

15日 雨風 島田泊

大井川にとめられる。川渡しで銭をむさぼる東海道は不景気なり、心ある者ならば悟らんか。島田に泊まるも逗留者多く蕎麦屋のあやしき所に宿泊。

16日 晴 浜松泊

大井川の端まで行く、群集数百人なり。舟にて渡れば易き事、実に馬鹿らしき事。天竜川を渡り浜松にて宿泊。

17日 晴 御油泊

朝、浜松を立ち高塚を通る。ここは蓮の多い所だった。舞坂〜今切りの渡り〜新井に到着、好風景なり。鰻が多く、江戸へはここから廻っているとの事。吉田(豊橋)にて豊橋を渡る。城は川に添って、橋は長大にして美しく、吉田は浜松よりも良い所と思われる。御油にて宿泊。

追記 江戸の梵炭屋と逢って『熊野より出る炭が最も良い』と聞く。
(紀州の備長炭(漢字あってるかな?)の事でしょうね)

18日 晴 池鯉鮒(ちりふ)泊

男川の橋を渡り岡崎を通る。矢作川を渡る。橋は大概落ちて未だ普請もできず舟渡りなり。この地(岡崎)を見て地勢を見るに神君(家康公)業を創るのに岡崎を離れたのには故あると思う。岡崎〜浜松〜駿府へと移るのは愚なる者(継之助)にも感じる所あり。池鯉鮒(現在の知立)宿泊。

19日 晴 名古屋泊

桶狭間にて今川義元の墓に詣でる。墓の在る所は狭く山の凹みなり。信長、山に添って襲いしは思いやられたり。地形を見ると格別感じる所あり。熱田神宮へ参拝する。名古屋城天守閣を見る。しゃちホコ見る。日に映じて輝き渡り、美事なり、尾張の名物は是であろう。城市盛んにて小江戸の様なり、夜も賑やかなり。

20日 晴 桑名泊

桑名へ渡る。舟にて桑名の城際を通る。その際伊勢諸山を遥かに見る。好風景なり。桑名宿泊。


21日から23日までの間、河井継之助が江戸遊学の際最初に学んだ斎藤拙堂のもとへ訪れています。

21日 晴 津泊

追分より津に入る。宿を取り、直ちに書状を書き、斎藤拙堂に遣わせる。早速用助(斎藤拙堂のもとにいる男、継之助が斎藤塾にいる頃から付き従っている)参る。夜九ツ(12時)頃まで話す。

22日 晴 逗留

朝、先生(斎藤拙堂)に会う。それから直ちに山荘へ行き終日四方山話をする。小原鉄心(大垣藩家老)、土居幾之助(津藩士、儒学者)その他いろいろあり。先生相変わらず壮気あれど少し老衰の様に見える。夕方帰る。

23日 晴 逗留

昼食後、又先生の所へ行き書画等を見せられる。数刻話をし、帰る。藩校(有造館)を見る。次に土居を訪れる。奇人なり。

24日 久保倉泊

朝、津を立ち松坂を通る。津に勝ると思う程なり。三井の家元、その構え格別の事なり。久保倉にて宿泊。

25日 小俣泊

山間を過ぎて古市に至る。繁華なり。内宮へ参詣。二見の浦へ行く。鳥羽に行き舟にて大坂へ行こうと思うが、この頃風悪く引き返す。小俣宿泊。


彼の日記は現在以外な所で活躍しています。その"以外な所"とは江戸時代における経済の勉強です。彼の日記は侍が書いたものなのに土地土地の経済の賑わいとか交通網についての記述などが多く、当時の日本経済がどうであったかを考えるための優れた史料と認められています。本当に、もう少し自らの思想とか書いてもよさそうなものですが..

(この項つづく/Mr.Valley)




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