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人物伝・河井継之助「少年時代」



さて、今回は話を前に進めずに河井継之助の少年時代の逸話や家族についてお話したいと思います。

後に異例の抜擢を受けて藩政を預かり戊辰戦争においては後世賛否両論渦巻く危険な外交方針をとり結果として官軍と戦ってしまった河井継之助と言う男は少年の頃から変わっていたようです。
腕白者で引く事を知らない少年だった彼は年長の少年との喧嘩もよくしていたようで一度喧嘩で頭に傷をつけられれて鮮血をたらたらさせて帰ってきた事があったようです。
その時に彼は知らぬ顔をして平然としていたようです。
本当に気がつかなかったのであれば豪傑、気がついていたのであればよっぽどの気の強さを持っていたのでしょう。
いたずらもよくやったそうです。ただ彼が他の子供と違ったのは、自分がやった事について一切隠し事をせず、逃げ隠れもせず、また謝りもしなかったそうです。よっぽど胆の太い少年だったのでしょう。一度年輩の者にいたずらが見つかって、「謝れば許してやろう」と言われても一切謝らず、「それならばこうじゃ」と指の節を煙管でゴツゴツ叩かれたそうです。その時少年であった継之助は痛さのあまり涙をポロポロ流すものの絶対に謝らないで我慢していたそうです。結局年輩の男はしびれを切らしてしまったそうです。ここらへんの逸話は長州の英雄高杉晋作に通ずるものがあります、が、違うのは高杉晋作の逸話は攻め手としての逸話であるのに対し継之助の逸話は受け手としての逸話が多く残っています。これは土地柄と言うか、南国の風土と寒い雪国の違いが微妙に人間のカラーを作っているように思います。
前の話にも通じますが継之助は我慢強い所があり同学の者と素読を行う時にどうしても睡魔が襲ってくるので一同眠りをした者は鼻に墨を塗る事にして始めたそうです。そこで一度も鼻に墨が塗られなかったのは平素真面目とは程遠い継之助一人だったそうです。
こんな我慢の強い子供であれば地味な修行にも耐えられそうなものですが、継之助は文学・剣法を始め武士として必要な修行事をロクに身につける事なく体が大きくなっていってしまいます、と言うのも師範に対して従順に教えを乞う事のできる人間ではなかったそうで、師範が基本を教えようとしている時に勝手な振る舞いをしてしまい結局教えてもらえなくなったそうです。彼が乗馬の師範に対して言った言葉がそれを象徴しているでしょう、「乗馬の術は走る事、止まる事ができればそれで足りる!」だったそうですから....
ただ、自分が「これだ!」と思った書物に対しては紙に穴があくのではないかと言われる位に気を入れて何度も読んだそうです。ですので、ただの怠け者ではなかったようですね。

そんな「暴れん坊」継之助が育った環境は極めて穏やかなものでして、禄高120石と藩中でもまずまずの石高で家格も馬廻役であり、真面目に勤めれば奉行クラスまで進めるものでした。父の代右衛門秋紀はそう言った環境にぴったりの人物だったようで無難に職をこなし新潟奉行・勘定頭を歴任しました。
この父は隠居後小雲と号し茶道・刀剣の目利きに優れ僧良寛(新潟では”良寛牛乳”なども出ている有名な人)とも交友があったそうです。
母は同藩の長谷川家出身で貞(てい)と言いました。気丈な母で当時の女性としては珍しく算盤が得意だったそうです(河井家は家禄の他田畑をかなり持っていたそうなので必要があって覚えたかもしれません)。
兄弟は姉三人、弟一人、妹二人いました。
長女=いく子;藩医武回庵に嫁ぐ(※先妻豊子の子)
次女=ふさ子;公用人佐野与惣左衛門に嫁ぐ
三女=千代子;弓術師範根岸勝之助に嫁ぐ 弟 =健吉 ;夭折
妹 =安子 ;藩士牧野金蔵に嫁ぐ
ちなみに三女千代子の夫根岸勝之助は若き日の継之助に弓術を教えた人物です
が継之助は全然言う事をきかなかったそうです..

(この項つづく/Mr.Valley)




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