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人物伝・河井継之助「紹 介」



歴史上には数多くの興味深い人物がいます。聖徳太子・源頼朝・徳川家康・西郷隆盛....

偉業を成して教科書に載っている人物は多くの紹介本が書店に立ち並び、業績が語り継がれていきます。そうした有名な人物以外にも興味深い・魅力溢れる人物は沢山います。
そうした人物に出会い、魅力に触れてしまうと「この人物を皆に知ってもらいたい!」と伝道師よろしく活動してしまいます。

私はケーブルテレビ会社に勤める一技術者ではありますが、歴史に興味を持って様々な本を読んでいる内に運命の人と出会いました。その人物の名は

“河井継之助” と言います。

この名を知っている方の9割方は司馬遼太郎先生の名著『峠』で知ったと思います。この名著によって一地方で語られていた人物が全国に紹介されました。『峠』では河井継之助の魅力が見事に描かれていますが、それが全てではありません。彼には個人としての魅力・実務能力・軍事指揮官としての才能・開明改革者としての手腕その他多くの注目すべき点があり作品に何かしらのポイントを置く事の多い小説ではどうしても一部しか描けないのがあるように思います。

河井継之助に関する逸話や史料、小説の解釈などから河井継之助について考えたいと思います。

河井継之助
文政10.1.1(1827.1.27)〜明治1.(1868.10.1);幕末の長岡藩士

文政10年に生まれた人物には“幕末”を動かした人物が多く出ています。その代表格としては薩摩の西郷隆盛でしょう。彼らは維新の時に42歳、常軌を逸する事の多い若者達の指導者として新たな時代に向けて邁進した世代です。他には土佐の山内容堂などがおり、同世代としては大村益次郎(文政7生まれ)、副島種臣(文政11生まれ)などがいます。

河井継之助は越後長岡にて長岡藩士河井代右衛門秋紀の嫡子として生まれました。河井家は禄高120石の中級藩士でした。長岡藩は越後長岡にあった譜代藩(7万4千石)で徳川十六将の一人牧野忠成を藩祖とする名門で江戸城登城時には溜間詰(有力譜代大名が詰める部屋)の家格でした。

「有力譜代藩の中級藩士子弟として育った」と聞くと如何にも行儀良い文武両道の男ができたかのように聞こえますが、彼はそうではなかったようです。腕白で親の言う事もきかない、馬術や弓術、剣術も師匠の言う事を聞かずに上達しない、など...
こんな彼が唯一のめり込んでいったものがありました。それは“陽明学”です。陽明学については色々な見方がありますが、当時の日本では危険視される学問でした。
継之助は18歳の時に鶏を割いて王陽明を祭りました。この時の気持ちについて継之助は後年詩の中に「十八誓任補国」なる句で表現しています。

若い頃の継之助は気の強い血気にはやる陽明学徒だったようです。

(この項つづく/Mr.Valley)




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