第2巻 目次
修正・追加情報 原文(準備中)
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Corrections and Additions 4
訂正・増補・4
第1巻第11章「大黒の袋・2——ガネーシャの太鼓腹」第3節「「鼠と象」——ガネーシャと鼠の神話」p. 516-517 に、次のように述べた。……ここでまず思い起こされるのは、象と鼠が同じコンテクストで現われるある興味深い仏教説話である。義浄訳の『仏説譬喩経』は、次のような物語を伝えている (15)。あるとき、一人の旅人が曠野で一頭の「悪象」に襲われた。必死で逃げて、空井戸があるのを見つけ、脇に生えている木の根に掴まり、井戸の中に隠れた。ところがそこに黒と白の鼠が現われて、木の根を齧り始めた。また井戸の周囲には「四毒蛇」がいて旅人を狙っている。さらに下にも毒龍がいて食いつこうとしている。旅人は大いに恐れながら、掴まっている木の根を見ると、そこに蜜が垂れているのを見つけた。彼はその蜜を五滴舐めた。木が揺れて蜂が舞い上がり、旅人を刺した。また野火が拡がり、木を燃やし始めたこの経典は、全部で六百五十字ほどの非常に短いものだが、さまざまな興味深い問題を含んでいる。第一に不思議に思われるのは、これほど印象深い物語であるのに、その類話が漢訳仏典やパーリ語仏典の他の説話集などに(簡単な調査では)ほとんど見いだせないことである(ただし一つだけ、偶然に見つけた類話が『賓頭盧突羅闍為優陀延王説法経』にある。T. XXXII 1690 787a19-28 参照)。〔後略〕
。 これらはすべて譬喩である。曠野は無明長夜の喩であり、象は無常の喩である。井戸は生死の喩であり、木の根は命根の喩である。黒白の鼠は昼夜を表わし、四毒蛇は四大を、蜜は五欲を、蜂は邪思を、野火は老病を、また毒龍は死を表わす。ゆえに、人は常に生老病死を恐れ、五欲に呑み込まれるのを避けねばならない……。I, XI-n. 15 (p. 541):
『仏説譬喩経』T. IV 217 801b9-23.本書の刊行後、他の文献を調査していたときに、偶然、吉蔵の『維摩詰経』への注釈『維摩経義疏』Ttt. XXXVIII 1781 ii 934c13-934c24 に、同じ物語が「羅什曰く」として引かれているのを知った。このテクストは次の通り:
羅什曰。丘墟。朽井也。前有人。犯罪さらに、これが『維摩詰経』のどの個所への注釈にあたるのかを調べるため、
於王。其人逸走。令醉象逐之。其人怖急。自投
枯井。半井得一腐草。以手執之。下有惡龍。吐
毒向之。傍有五毒蛇。復欲加害。二鼠嚙草。草
復欲斷。大象臨其上。復欲取之其人危苦。極
大怖畏。上有一樹。樹上時有蜜滴。落其口中。
以著味故。而忘怖。丘井生死也。醉象無常也。
毒龍惡道也。五毒蛇五陰也。腐草命根也。白
黒二鼠。白月黒月也。蜜滴五欲樂也。得蜜滴
而忘畏苦。喩衆生得五欲蜜滴。不畏苦也。是
身無定爲要當死。天壽雖無定。而死事則
定。
Etienne Lamotte, L’Enseignement de Vimalakīrti (Vimalakīrti-Nirdeśa), Bibliothèque du Muséon, vol. 51, Louvain, Publication Universitaire, 1962
に当たってみると、同書 p. 135 (Ch. II, § 11) が当該個所で(鳩摩羅什訳では『維摩詰所説経』T. XIV 475 i 539b26-27 に当たる)、そこに詳しい注 (n. 27 [p. 135-136]) があってこの物語に関する多くのリファレンスが挙げられていた。「類話が漢訳仏典やパーリ語仏典の他の説話集などにほとんど見いだせない」と書いたのは、明らかに誤りで、訂正しなければならない。
第一に、羅什のコメンタリーは、僧肇の『注維摩詰経』Ttt. XXXVIII 1775 ii 342b2-13 に、上の吉蔵の文とほぼ同文が引かれている。
そのほか、ラモット氏は、
1]『マハーバーラタ』Strīparvan, adhyāya V-VI;
2]道略集、鳩摩羅什訳『衆経撰雑譬喩』Tt. IV 208 i 533a27-b13(E. Chavannes, Cinq cents Contes et Apologues extraits du Tripiṭaka Chinois, T. II, reprint, Paris, Adrien Maisonneuve, 1962, p. 83 に仏訳がある)
3]求那跋陀羅訳『賓頭盧突羅闍為優陀延王説法経』T. XXXII 1690 787a19-28(上述参照);
4]義浄訳『仏説譬喩経』Tt. IV 217 801b9-23(上述参照; E. Chavannes, Cinq cents Contes et Apologues extraits du Tripiṭaka Chinois, T. IV, p. 236-238 に P. Demiéville による仏訳がある);
5]『経律異相』Ttt. LIII 2121 xliv 233c28-234a10( E. Chavannes, Cinq cents Contes et Apologues extraits du Tripiṭaka Chinois, T. III, p. 257 に仏訳がある);
6]各種の図像による表現:
a) パリのギメ博物館所蔵の浮彫り( J. Ph. Vogel, “The Man in the Well”, Revue des Arts Asiatiques, XI, 1937, p. 109-115, pl. XXXIIIb 参照);
b) ナーガールジュニコンダー遺跡の浮彫り(A. H. Longhusrt, The Buddhist Antiquities of Nāgārjunakoṇḍa, Delhi, 1938, pl. 49b and p. 31b 参照);
c) 中国、泉州(Zayton)の西側仏塔の基礎の浮彫り(G. Ecke and P. Demiéville, The Twin Pagodas of Zayton, Harvard, 1935, p. 53 and pl. 36b 参照);
d) イタリア、パルマの洗礼堂の南側の門、およびフェラーラの大聖堂の司教座(G. Ecke and P. Demiéville, ibid., p. 54 参照)
のリファレンスを挙げておられる。——これらイタリアの例は、おそらく(本文、I, p. 517 に述べたように)キリスト教の聖人伝説として伝えられた仏陀伝、『バルラームとヨアサフ』の記述にもとづいたものだろう(G. Ecke and P. Demiéville の本が手元にないので、この点については確認できない)。
第1巻および第2巻のカバーに使われた図版の原画、大理国(中国、雲南省西部に栄えた国家)の「張勝温図巻」については、第1巻 p. xxxv および第2巻 p. lxxvii の図版出典一覧の末尾に述べたが、これに関連して、ジャカルタ在住の研究者 Iain Sinclair 氏が、筆者の知らなかった論文を送ってくださった。一つは、
田鴻稿「大理地区信仰大黒天神源流考説」、藍吉富・他著『雲南大理仏教論文集』(「仏光文選叢書」5402)、仏光書局、台北、民国80年〔1992年〕所収 p. 215-239
もう一つは
John Guy, “The Avalokiteśvara of Yunnan and Some South East Asian Connections”, in Rosemary Scott, John Guy ed., South East Asia and China: Art, Interaction and Commerce, Colloquies on Art and Archeology in Asia, No. 17, Held June 6th-8th, 1994, University of London, Percival David Foundation of Chinese Art, School of Oriental and African Studies, London, 1995, p. 64-83
の二つである。
これらの内容について詳しく述べることは、ここではひかえるが、唐代から宋代にかけての雲南地方の仏教信仰について、重要な知見が述べられている。以下、興味深い点をいくつかピックアップしておこう。
田鴻稿「大理地区信仰大黒天神源流考説」によれば、大理地域における大黒天神信仰は晩唐時代(8世紀中ごろ)の南詔国の時代から始まり、その後、現代に至るまで続いているという。大理地域の大黒天信仰は、同地域の観音信仰に次ぐ重要な信仰だった。田氏によれば、雲南における仏教は、最初から密教が伝来したという。それにかんして、萬歴『雲南通志』巻第十三に「賛陀崛多神僧、蒙氏保話十六年〔八四〇年〕自西域摩伽陀国来」とあり、また唐の樊綽による『蠻書』巻第十に「感通四年〔八六三年〕正月六日寅時、有一胡僧、裸形、手持一仗〔杖〕、束白絹、進退為歩、在安南羅城南面。本使蔡襲当時以弓飛箭当胸、中此設法胡僧、衆蠻扶舁帰営幕」とある文が引かれている(p. 219)。
大理地域には、多くの大黒天神、または大自在天の彫像が遺されているという。それらの多くは、三目三面六臂で髑髏の瓔珞で身を飾り、髑髏杯、念珠、三叉戟、剣などを持つが(たとえば剣川石鐘山石窟第十六号窟の彫像: p. 223)、象皮を背後に持つものは記録されていない。〔筆者注:これは、敦煌や中央アジア系の大黒天像と明らかに系統を異にするものと考えられる。〕また、大理地域には、リンガやヨーニの信仰の遺跡と思われるものも発見されている。彌渡県の西南にある鉄柱は、南詔時代、建極十三年〔八七二年〕に建立されたもので、「天尊柱」または「馳霊景帝大黒天神」と呼ばれたという。また、剣川石鐘山石窟第八号窟の蓮華座に、一種の女根の形が彫られたものがあり、剣川の<ルビ="パイ">白</ルビ>族は、これを「阿盎白」と呼ぶ。この「阿盎」は白族の言語で「姑娘」(娘、未婚の女性)を意味し、「白」は「生殖器」を意味するという(p. 231-232)。
また、雲南地方の白族は、彼らの信ずる大黒天神について、次のような伝説を語る。すなわち、むかし「玉皇大帝は地上の人間を喜ばず、人類を消滅させようと、天神を派遣し、『瘟丹』〔疫病をはやらせる薬?〕を散布させようとした。しかし、人間界に下った天神は、人々が純朴善良であることを見て彼らを絶滅することを忍びず、瘟疫の種子を自分の身体の上に撒き、瘟疫の呪符をすべて呑み込んでしまった。そのため、彼の体はすべて真っ黒になり、そのまま死んでしまったが、人民は感激して彼を『本主』として崇めた」という(p. 234。注 15 [p. 239] に、張文勛著『白族文学史』雲南人民出版社、一九八三年七月、第二版、が引かれている)(p. 235:「本主」は「本境土主」の略)。〔筆者注:これは、あるいは青頸=Nīlakaṇṭha のシヴァの神話(第2巻 p. 197-198 参照)を反映したものと考えられるかもしれない。〕大理地域には、八世紀の中ごろに作られた柘東城の城隍廟の東に「大霊廟」または「土主廟」と呼ばれる廟があり(p. 218)、そこに大黒天神が祀られている。元代の至正(一三四一〜一三六一年)初めころに書かれた昆明王昇撰の『大霊廟碑記』には「蒙氏威成王尊信摩訶迦羅大黒天神、始立廟、肖像祀之。其霊赫然。世祖以之載在祀典、至今滇人無間遠邇、遇水旱疾疫、祷之無不応者」と書かれているという(p. 234)。その他にも、雲南の各地には「土主廟」または「本主廟」と呼ばれる廟があり、大黒天神が祀られていた。たとえば、剣川沙渓の大黒天神廟には「本境福主大黒天神」、「大聖北方多聞天王」、「大聖白姐聖妃阿黎帝母」(ハーリーティー)の三尊が祀られていた(p. 235)。
さらに、第2巻「エピローグ」p. 729-730 に、澤田瑞穂氏の論文に引かれた「清・曹樹翹『滇南雑志』巻十「大黒天神」の条」を引用したが、それとほぼ同文が、萬歴『雲南通志・大理府風俗』巻第二から、次のように引かれている(p. 233)。「阿闍黎僧・能咒誦制龍」、「趙伽羅、昆明人。世精阿吒力教、尤通梵経。大徳間、有蛇化為美少年、嘗淫婦女、父老請治之、即遣黒貌胡奴擒至、以水噀之、蛟見其形、因斬之。胡奴曰『即大黒天神也』」(注 14 [p. 239] に方国瑜『滇史論叢』上海人民出版社、一九八二年八月第一版 p. 223 を引く)。
今の、田鴻氏の論文では、雲南地方の大黒天神信仰の起源・由来については、唐の玄宗時代に、「中原」で密教が隆盛をきわめたことに触れられているだけで(p. 218-219)、具体的にどのような系統の伝統が雲南地方に移入されたかについては述べられていない。上に挙げた John Guy 氏の論文は、同地方の観音の信仰と図像について述べたものだが、その起源について、より具体的に、東南アジアの伝統の影響があったことを論じている。
雲南の大黒天は、明らかに密教的な信仰を背景にしているが、Guy 氏の論文で扱われている観音は、より一般的な大乗仏教にもとづいたものと思われる(ただし、雲南に、密教的な観音の信仰も存在したことは、第2巻のカバーに使われた「張勝温図巻」の千手観音などの図像からも明らかである)。なお、「張勝温図巻」の年代については、田氏の論文 p. 226 には「一一八〇年」とあり、Guy 氏の論文 p. 71a には「一一七二〜八〇年」とある。これが正しいのだろうと思われる。
Guy 氏の論文は、まず七世紀から十三世紀まで雲南地方に栄えた南詔国と大理国の歴史、地理的位置、産物と商業/交易、宗教文化などについて比較的詳しく概説し(p. 65a-69a)、次に南詔と大理における観音信仰およびその図像について述べる(p. 69a-73a)。六四九年に南詔国が成立して以来、仏教は国教として信仰されたが、そこでもっとも重視されたのが観音菩薩だった。大理の崇聖寺は王家の寺院だったが、そこでも観音が本尊とされた。この観音の図像と思われるものが、京都の藤井有隣館所蔵の『南詔図伝』および「張勝温図巻」に現われており、それと同じ像容、または非常に近似した像容の雲南のブロンズ像が数体知られている。これは二臂の立像、または座像で、右手は胸の前で説法印を結び、左手は下に降ろして与願印を示している(p. 69a-73a)。
南詔、大理国に見られるこうした観音信仰は、東南アジアの観音信仰に非常に近いものである(たとえばカンボジアのアンコール・トムのバヨンやチャンパー〔こんにちのヴィエトナム東側〕のドーン・ヨン Dong Düöng で祀られたローケーシュヴァラなど)。これら東南アジア諸国では、シヴァ教を中心としたヒンドゥー教が盛んだったが、それにもかかわらず国家の最高神として崇められたのは観音菩薩だった。インドの仏教では、菩薩の信仰が重視されることはあったが、菩薩が最高神とされることはなかった。その意味でも、この時代の南詔、大理国の宗教は、東南アジアの宗教に近かったと考えられる(p. 73a-76b)。
最後の節で、Guy 氏は雲南の二臂の観音彫像と、ほぼ同時代の東南アジア各地の観音像、または仏像の像容を比較し、その姿勢、頭部、衣服や装飾品などが、非常に近似したものが見られることを指摘している。こうした像容は、最終的にはインドに遡ることができるが、より直接的には東南アジアの形式が雲南に反映されていると考えられるのである(p. 76b-80b)。
これらの論文をわざわざお送りくださった Sinclair 氏に、あらためて感謝したい。
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