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vol1 cover little picture   大黒天変相  仏教神話学・1  

 

  観音変容譚  仏教神話学・2  

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Corrections and Additions 2

訂正・増補

 先に、不忍池弁才天の八臂弁才天像についてフランク教授の記述を引用し、これが「金光明最勝王経による古典的な八臂の姿」であることを見たが(注 2 参照)、この『金光明経』による弁才天については、本書第一、第二巻でも随所に言及した。とくに第一巻 p. 404-405 では、義浄訳の『金光明最勝王経』を引いて次のように書いた。
『金光明経』は、弁才天を「世界を領する那羅延」Nārāyaṇī すなわちヴィシュヌ妃と呼び、「母として世界を生み、勇猛にしてつねに大精進を行ない、軍陣においては常勝し、〔中略〕閻羅(ヤマ神)の長姉と現われてつねに青い山繭の衣をまとい、美醜ともに備えて、その眼目は見る者を怖れさせる……」と書いている (22)。ここでは、弁才天は文字通り「世界を生み出す」大母神として描かれており、美しく慈悲深い側面と恐るべき戦闘の女神という側面を兼ね備えた、きわめて「<ルビ="アンビヴァレント">両価的</ルビ>」な性格を与えられている。しかも、一般に「ヴィシュヌ神妃」Nārāyaṇī と呼ばれるのがシュリー‐ラクシュミー女神であることを思えば、『金光明経』における弁才天が、一般に言われるようなたんなる河の女神、弁論の女神を越えた、一種の超越神的な女神として表象されていたことが想像されるだろう。

IX-n. 22 (p. 438):
『金光明最勝王経』T. XVI 665 vii 437a6, 9-12 ; 田中貴子著『外法と愛法の中世』 p. 67 も参照。

 さらにそれに関連して、p. 411-412 に

 クベーラ‐ヴァイシュラヴァナとシュリー女神の関係は、インド以来(仏教ではとくに『金光明経』によって)明確にたどることができるが、ホータンの伝説で毘沙門の神妃に相当するのは、たんにシュリーまたは大地女神というよりも、「シュリー的な大地女神」あるいは「シュリー的であり、かつサラスヴァティー的な大地女神」であると考えるべきなのではないだろうか。毘沙門に対してシュリー、サラスヴァティー、大地女神の三女神がほぼ同等の重みを持つような関係を想定することによって、はじめて先の敦煌の釈尊を中心にした尊像図の中で、この四者が並び描かれていることが理解できるようになるだろう(同様に、萬仏峡石窟の壁画でも、毘沙門天のとなりに配偶女神としてシュリーではなくサラスヴァティー女神が描かれていた)。敦煌出土の千手観音・眷属図像の中でも、ある作例では「功徳天」(=シュリー)と傍記された女神が、別の作例では「大弁才天女」と記されていることがある。松本栄一は、ここに言う「功徳天」は吉祥天(シュリー)の別号ではなく、「弁才功徳天」の略号かもしれない、と書いているが、ここでも、シュリーとサラスヴァティーは相互に入れ替え可能な価値をもっていたと考えるべきではないかと思われる (36)。
IX-n. 36 (p. 439):
松本栄一著、前掲書 p. 665 ; p. 673-674 ; p. 681, n. 8 ; Stein, ÒPorte (Gardien de la)Ó, p. 17 参照。

と書き、また、p. 421-422 に、

サラスヴァティー(弁才天)は、一般に「河の女神」、「弁舌の女神」として知られているが、イランのアナーヒター女神も、本来は河の女神だった。インド・イラン共通の宗教的遺産を引き継いだヴェーダ宗教におけるサラスヴァティーは、何よりも「母なる神」であり、その尽きることのない乳房から乳や油、蜂蜜水などあらゆる良きものを湧き出させ、人間に与える女神だった。彼女はまた清浄なる女神、すべての敬虔な思念を司る「音=ことば (vŒc)」の女神であると同時に、英雄たちの勇猛なる妻として彼らに不可侵の保護を与え、彼女自身、魔神を打ち破る戦闘女神としても信仰された。ヴェーダ時代のサラスヴァティーは、「第三機能」を中心として、「第一機能」(宗教、祭祀)、「第二機能」(権力、戦闘)をも兼ね司る、一種の「全能の大女神」的な役割をもっていたのである (50)。後世のヒンドゥー教神話では、サラスヴァティーはおもにブラフマー神の娘であり妻として知られているが (51)、ヴェーダ時代のような重要性、とくに「豊饒の大女神」的な役割は弱まって、シュリー‐ラクシュミーがそれを引き継いでいったように思われる。そうした「古いサラスヴァティー」的な性格をより忠実に伝えたのは、むしろ大乗仏教、とくに『金光明経』などに見られるようなサラスヴァティー=弁才天だったのではないだろうか(ここでは、大乗仏教の信仰自体が、インドを出発点としながら、あらためてイラン的な要素を巻き込んで発展したということを考慮してもいいかもしれない)(*)。
(*) 先に引用した『金光明経』の「母として世界を生み、勇猛にしてつねに大精進を行ない、軍陣においては常勝する」という記述は、サラスヴァティーに「母」〜「第三機能」/「大精進」〜「第一機能」/「常勝の軍神」〜「第二機能」の三機能を与えるものと考えられるかもしれない。
 ホータンのインド‐イラン的要素の入り混じった宗教混淆の環境においては、シュリー女神は、Śśandrāmata (~Spəntā Ārmaiti) という翻訳名からも明らかなように、「純インド的」なシュリー以上にその「大地性」と「多産性」が強調されていたし、またそれゆえに、いま述べたような「古層の」サラスヴァティー女神とも(ほとんど両者が混合するほどに)近い関係にあったと考えられる (*)。大きな乳房を露わにしたホータンのシュリー‐ラクシュミー〜サラスヴァティー〜大地女神は、たんに一般的な「豊饒の女神」という以上に、なによりも生殖の女神であり、また子育ての女神として表象されたと考えることができるだろう。
(*) シュリー‐吉祥天とサラスヴァティー‐弁才天の二女神は、日本ではさらに密接に結びつけられるようになり、とくに平安後期以降は、以前に吉祥天が占めていた位置が弁才天によって継承されていくようになる(笹間良彦著『弁才天信仰と俗信』、雄山閣出版、一九九一年 p. 7-8 参照)。やや誇張した言い方をするなら、ヴェーダ時代のサラスヴァティーは、その後のインドでは影の薄い存在になったが、中世日本の「俗信」的な伝承の中で、はじめて「昔日の栄光」を見出した、とも言えるかもしれない。——たとえば、『覚禅鈔』巻第百九「吉祥天」には、「所現身」という条が設けられ「ある抄に云はく。吉祥天は三種の身を現はす。上根の〔衆生の〕為には大弁才天女形と現はれ、中根の為には大吉祥女形と現はれ、下根の為には功徳天形と現はる」と書かれており、弁才天が、吉祥天の「最上」の形とされている(TZ. V 3022 cix 486c2-5)。あるいは、十五世紀半ばの相国寺の禅僧・瑞谿周鳳は、弁才天の霊場として名高い厳島の縁起を座頭・城一から聞いて、厳島の明神、すなわち弁才天が「新夫・旧夫」の二人の夫をもち、「旧夫は<ルビ="すなは">乃</ルビ>ち弥陀の垂迹、新夫は乃ち毘沙門の垂迹なり」という伝承があったことを書き残している。一般に「毘沙門の妻」と言われるのは吉祥天だから、ここでも弁才天が吉祥天とほとんど同一視されていたと考えられるだろう(瑞谿周鳳の日記『臥雲日件録』文安四年四月十七日条〔「大日本古記録」〕。田中貴子著『外法と愛法の中世』 p. 61 and n. 15 [p. 71-72] の引用による)。

と述べた。ところが、第一巻刊行直前に、
Catherine Ludvik, “La Benzaiten à huit bras: Durgā déesse guerrière sous l’apparence de Sarasvatī”, Cahiers d’Extême-Asie, XI (1999-2000), p. 292-338
を読む機会を得た。これは『金光明経』、とくに義浄訳の『金光明最勝王経』に記された弁才天の讃歌が、『マハーバーラタ』およびその付録に当たる『ハリヴァンシャ』に見られるドゥルガーへの讃歌に基づいていることを論証したものである。これを見つけたときには、本文の大きな変更はすでに不可能だったので、あえてそのままにしたが、この論文の内容は画期的なもので、訂正・増補にぜひ加えなければならない。

 リュドヴィク氏によれば、この讃歌が『ハリヴァンシャ』に現われるものであることは、古く『法宝義林』I, 64b ですでに指摘されており、それは Johannes Nobel, Suvarṇaprabhāasottamasūtra. Das Goldglanz-Sūtra, ein Sanskrittext des Mahāyāna-Buddhismus. I-tsing’s chinesische Version und ihre Übersetzung. I, I-tsing’s chinesische Version, Leiden, E. J. Brill, 1958, p. 249-250, n. 3 にも踏襲されている。さらに、渡邊海旭訳『国訳金光明最勝王経』(「国訳大蔵経」XIII 国民文庫刊行会、一九三二年)p. 145 注には、この讃歌が『マハーバーラタ』のドゥルガーへの讃歌から抄出されたものであることを述べている。また、最近では、長野禎子稿「『金光明経』における「弁才天」の性格」(『印度学仏教学研究』XXXVI-2, 一九八八年 p. 235-239 [p. 716-720])が、『マハーバーラタ』のドゥルガーへの讃歌がこの讃歌に用いられていることを述べられているという。リュドヴィク氏のこの論文は、これらの成果の上に、ヒンドゥー教におけるドゥルガーおよびサラスヴァティーについての知見なども加えて、総合的に論述したものである。

 リュドヴィク氏は、インドの古い時代の文献におけるドゥルガーヘの言及が、『マハーバーラタ』と『ハリヴァンシャ』の五つの讃歌と一つの記述、および『女神の偉大さ』に見られることを指摘し、義浄訳の『金光明最勝王経』に現われる憍<&M011201;>陳如 Kauṇḍinya 婆羅門による弁才天の讃歌(T. XVI 665 vii 437a6-25)(注 3 参照)がそれらと正確に一致することを示された(Ludvig, art. cit., p. 302-313 参照)。古い時代の文献では、戦闘の女神ドゥルガーはシヴァの神妃というよりも、ヴィシュヌ神と深い関係にあり、ヴィシュヌの姉妹とされることもあるという。『金光明最勝王経』の弁才天の讃歌の第一句「敬礼天女那羅延」はそれに基づくものであり、また「或現婆蘇大天女」 bhaginī vāsudevasya (この「女」は大正蔵の異本の読みでは「妹」になっている)や「牧牛歡喜女」( nandagopasutā もこのヴィシュヌとの関連を示唆するものである(ibid., p. 310-311)。

 リュドヴィク氏は、サラスヴァティーとドゥルガーがこのように同一視された理由について、非アーリヤ系のドゥルガー女神が正統的なヒンドゥー教に組み込まれていく過程で、ドゥルガーがヴェーダ以来の「正統的な」女神たち、とくにサラスヴァティーや「音声」の女神 Vāc と同一視されたこと、一方、『金光明経』のコンテクストでは、四天王による『金光明経』を奉事する国家の守護、という「戦闘的」な意図が強く働き、それゆえにサラスヴァティーに戦闘的女神であるドゥルガーの性格が付与された、と解釈しておられる。要するに、サラスヴァティーとドゥルガーは、本来の性格は異なるものの、ヒンドゥー教のドゥルガーはサラスヴァティーを必要とし、『金光明経』のサラスヴァティーはドゥルガーを必要とした、両女神は、一種の「鏡」のような作用の中で同一視されるにいたった、というふうに考えることができる(ibid., p. 320-326 参照)。

 『金光明経』における弁才天は、四一七年の曇無讖訳の『金光明経』では伝統的な「音声の女神」、「智慧の女神」として記述されているが(T. XVI 663 ii 344c20-345a3)、五九七年の宝貴によって編纂された『合部金光明経』は、内容的に現存のサンスクリット本にもっとも近く、また義浄訳にも部分的に重なるものである。とくに、そこでは弁才天は師子に喩えられ、「八臂荘厳身」であるという(T. XVI 664 vi 387c25)。この時点で、弁才天はすでにドゥルガーの様相を帯びるにいたっている(Ludvig, art. cit., p. 297-299, p. 322 参照)。

 筆者にとって問題だったのは、中世以降の日本だけでなく、少なくとも敦煌の図像の時代から、毘沙門の配偶女神として、伝統的に認められた吉祥天だけではなく、弁才天が配されることがあり、さらに、中世日本の三面大黒が、大黒・毘沙門・弁才の三天によって構成されている、という事実をどのように説明できるか、ということだった。義浄訳『金光明最勝王経』の弁才天の記述が、ヒンドゥー教のドゥルガーの讃歌に基づいていたことは知らなかったが、それが「一般に言われるようなたんなる河の女神、弁論の女神を越えた、一種の超越神的な女神として表象されていたことが想像されるだろう」と書いたことは、間違いではなかったと思われる。また、この弁才天の性格が、ある意味でヴェーダ時代のサラスヴァティーの「『全能の大女神』的な」性格を再現している、という言い方は、正確ではないが一部の真実を言い当てていた、とも言えるように思う。そもそも、ドゥルガーのサラスヴァティーとの同一視が、いうならば「ドゥルガーのアーリヤ化」を意図してなされたものであり、それは「アーリヤ的サラスヴァティーの原像」ともいうべきヴェーダ的なサラスヴァティーをリファレンスとしたものだったからである。——ただし、それを大乗仏教の信仰に混入したイラン的要素、または「インド‐イラニアン宗教」的要素との関連に結びつけようとした記述は、(少なくともこの場合には)明らかに「勇み足」だった。宝貴編『合部金光明経』や義浄訳『金光明最勝王経』のような、グプタ朝以降の大乗経典は、おそらくそれ以前の経典以上に、「純粋インド的な環境」の中で作成されたものと考えるべきだろう(筆者は、後期の『金光明経』には、中央アジア的要素が混入していたのではないか、と疑っていたが、その根拠の一つであった弁才天の特殊な性格が純粋にインド的なドゥルガーとの習合によって説明されるなら、この疑念は捨てるべきかもしれない)。

 いずれにしても、『金光明経』の弁才天がドゥルガー的な戦闘女神の性格を付与されていたとすれば、それが明確に戦闘神的な男神として信仰された『金光明経』の毘沙門と密接に結びつけられたことは、自然に理解できるようになるし、また、この弁才天の背景に「ドゥルガーの影」が透けて見えたとしたら、それが中世日本において、シヴァの一形態である大黒と関連づけられたことも当然のこととなる。また、それが、同じ中世日本において、シヴァ神話的な性格が明確な夜叉神/摩多羅神(聖天・荼吉尼天・弁才天の「三位一体」)の要素として取り入れられたこと、あるいは「宇賀‐弁才天」として蛇の豊饒神と組み合わされて信仰されたことも、理解しやすくなる。

 それにしても、義浄訳『金光明最勝王経』の弁才天の記述が、ヒンドゥー神話のドゥルガー女神の記述に基づいていた、ということは、さまざまな意味で重要な知見である。第一に、仏教経典の作者が、一般に想像されている以上にヒンドゥー教の文献や信仰を知悉していた、ということ、それゆえ、一般の経典にも、隠されたヒンドゥー教文献からの引用などが、調査によってはより大量に見つかる可能性がある、ということが挙げられる。また、ある神格が別の神格と同一視されるという現象が、すでに経典作成の段階でここまで深く進行しているとすれば、われわれは、神格の「名前」に捕らわれることなく、なによりも個々の場合における記述の内容、信仰の内容を重視すべきであることを知らなければならない(これは、本書・序説に当たる「方法論的序説」で述べた「表象主義的神話観」の再確認でもある)。——とはいっても、「名前」自体も「内容」を含んでいる。少なくとも、中国以東の仏教徒は、『金光明最勝王経』の弁才天がドゥルガーの性格を付与されたものであることを意識的に知るものはほぼ皆無だっただろうし、また事実、中世以降の日本の弁才天信仰は、どこかに「ドゥルガー的な暗い影」を宿しながらも、最終的には単純な豊饒の女神の信仰へと収斂していった。


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