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<近代>世界とオリエンタリズム2

  <近代>世界のオリエンタロ‐オクシデンタリズム的構造

 もし、ヘーゲル哲学が、十九世紀ドイツという異常な時代の異常な産物にすぎないのなら、われわれはヘーゲルのオリエンタリズムを指摘し、その倒錯を笑うだけでことが済むかもしれない。しかし、ヘーゲル哲学は決してそのように簡単に片づけられるものではない。ヘーゲルは、中世ラテン世界全体がアウグスティーヌスの時代と言われるのとまさに同じ意味で、<近代>全体を象徴する思想家であり、しかもその<近代>はヘーゲルの時代以降、西欧から溢れ出して世界全体を覆いつくすものとなったのである。「いまはもうその<近代>ではない、ポスト・モダンの時代である」――? いや、むしろそのポスト・モダンこそが<近代>の最も特徴的な産物であるとしたら……? ぼくたちはいまだに<近代の呪縛>から一歩も出ていないのであり、それゆえヘーゲルはいまだに(そしておそらくいつまでも)「我らの同時代人」と考えるべきである。近代世界におけるオリエンタリズムの問題を考えることは、単純な帝国主義の時代が終ったいまでも、「われわれ自身の課題」でありつづけている。

 <近代>が世界を覆いつくした日――それは、オリエンタリズム、すなわち「世界を西方と東方に分けて考える」世界表象が、西欧の独占物ではなくなり、世界全体に普遍化した日である。たとえば日本の場合を考えてみよう。日本がはじめて西洋と接触した時代、すなわちキリシタンが渡来した時代には、西欧の人々にとって日本は「東洋の果て」の異教国だったが、日本人の頭の中では、宣教師たちは「南蛮」の異人として表象されており、しかも世界には「南蛮」の他にも、「支那」や「朝鮮」があり、またより遠方の西の彼方には「天竺」という夢幻境が拡がっていた……。ところがある日(おそらく隣国・中国でアヘン戦争が荒れ狂っていた時代だろうか)、日本人は突然、みずからを「東洋人」であると自覚するようになった。この時から、日本人にとってのオリエンタリズムの主体者は、西欧人だけではなくなり、日本人自身を含むようになったのである【「問題としてのオリエンタリズム」 p. 44-45 参照。――日本で「西洋」という語を「ヨーロッパ」を指すものとして、最初に書名に用いたのは、新井白石の『西洋紀聞』(一七二四年ころ)だった。拙稿「『狗国』から『邪宗門』まで」、『ユリイカ』一九九七年八月「エキゾティシズム」特集号 p. 110-112 参照。】

 当の東洋人自身が、みずからを西洋に対するところの東洋人と信じていないかぎり、オリエンタリズムはたんに西欧の人々の頭の中で作り上げられた恣意的な幻想にすぎなかっただろう。しかし、東洋人が自分を東洋人であると認めたその日から、オリエンタリズムという理念は、いわばヘーゲル的な意味で現実の中に実現した、と言うことができる。以前の論稿でも述べたように、「『オリエンタリズム』ということばが、その主体としてあくまでも『オクシデント』を想起させるものならば、この時代以後のオリエンタリズムについては、『オリエンタロ‐オクシデンタリズム』とでもいう造語を用いた方が好ましいかもしれない。日本の『オリエンタロ‐オクシデンタリズム』は、福沢諭吉が『脱亜論』を唱え、岡倉天心が『アジアは一つ……』と言った時、すでに完成していた。もう少し近い歴史で言うなら、『大東亜共栄圏』は明確なオリエンタリズムであり、そして『鬼畜米英』は疑いもなくひとつのオクシデンタリズムであった」【「問題としてのオリエンタリズム」、同上箇所。】

 こうした「オリエンタロ‐オクシデンタリズム」が世界に成立していった時代やその状況は、それぞれの地域によって異なるだろう。また、たとえばアフリカやオーストラリア、あるいはアメリカ原住民などの場合、「西洋」は「西洋」として表象されたとしても、みずからをそれに対立するところの「東洋」と表象することはなかっただろう(その場合には、「白人/黒人」または「白人/有色人種」などの、「人種」という幻想を基準にした表象体系が優先したに違いない。「白→黄色→黒/赤」という近代特有の「優から劣へ」のヒエラルキー関係に基づいた「人種」の幻想は、近代世界の中では、本来的/原則的には優劣関係とは無関係のはずのオリエンタロ‐オクシデンタリズムと密接に結びつき、さらにそれを包摂するものだった。近代オリエンタロ‐オクシデンタリズムが、「東洋/西洋」以外の世界を、世界の枠から追い出してしまう差別体系であったことを忘れてはならない)。しかし、いずれにしても、こうした世界表象の体系が世界の中で「実現」していったのは、<近代>が西欧の帝国主義的膨張とともに世界に普遍化されていった時代であり、それと同時に資本主義が世界全体を覆いつくした時代でもあった。「アジアは一つ」という以前に、この時、「世界が一つになった」のである。

 このように普遍化され、世界の中に「実現」したオリエンタロ‐オクシデンタリズムが、「オリエント」地域でどのような機能をしたか、東洋人自身がオリエンタロ‐オクシデンタリズムをどのように発展させ、またそれは西欧のオリエンタロ‐オクシデンタリズムとどのように相互作用し合ったか、といった問題は、これまでほとんどまったく提起されたことのない未開拓の問題領域である。しかし、これが非ヨーロッパ世界、少なくともアジア世界における「近代化」の歴史の中で、きわめて重要な意味をもった問題であり、そうした視点から近代アジアの観念の歴史を見直すことによって、多くの新しいパースペクティヴが開けるであろうことは、いまから予想できるだろうと思う。

 ここで試みるのは、そうした新しい研究領域を開拓するためのほんのささやかな試論にすぎない。はじめに断っておかなければならないのは、ぼく自身は、アジアの近代化の問題についてまったく専門的な知識をもちあわせていないし、ましてや以下のページで扱うことになる日本の近代思想史に関しては人並の常識すらもっていないことである。それにもかかわらず、「近代日本におけるオリエンタロ‐オクシデンタリズムの展開」という視点を明確にした上で、テストケース的にいくつかの問題をとり挙げるてみることは無駄ではないだろう。ぼくが切に願うのは、それぞれの分野の専門家が、こうした視点を取り入れて、より深く、またより体系的な研究を行なうことである。そうすることによって、われわれははじめて、こんにちに生きる「われわれ自身の問題としてのオリエンタリズム」を正確に理解することができるようになるだろう。

  近代日本のオリエンタロ‐オクシデンタリズム――その概観

 まずはじめに思い出しておきたいのは、竹内好が、太平洋戦争直前から戦中にかけて行なわれた「近代の超克」の議論について書いた中で、

復古と維新、尊王と攘夷、鎖国と開国、国粋と文明開化、東洋と西洋という伝統の基本軸における対抗関係

を「日本近代史のアポリア(難関)」と表現していることである【竹内好著『近代の超克』(筑摩叢書、筑摩書房、一九八三年)所収「近代の超克」(初出、一九五九年) p. 111.】。「東洋対西洋」という問題設定は、いうまでもなく、近代日本のあり方を決定してきた最も重要な「基本軸」の一つだった。西洋に対してどのように自己を位置させ、規定するか、という問題が、まさに近代に生きた日本人の一人一人に課せられた最大の問題の一つであり、それがその一人一人の生き方を大きく決定してきた、と言うこともできるだろう。「徳川三百年の眠り」を揺さぶられたその瞬間から、日本人はまさしく「オリエンタロ‐オクシデンタリズムの呪縛」に捕らわれ、そこから一歩も脱することができなかったのである【以下、北原白秋に見られるエグゾティシズムについて述べた個所まで、前掲拙稿「『狗国』から『邪宗門』まで」、『ユリイカ』一九九七年八月 p. 113-115 にほぼそのままの形で再録したことをお断りしておきたい。】

 事実、十九世紀以降の西欧帝国主義による世界制覇という状況、特に東アジア世界へ向かってくるその圧倒的な脅威(「黒船の到来」自体がそうした脅威を意味していた)を考えれば、――西欧にあっては、オリエンタリズムはまだ「学問」であったり「美的趣味」であったりする余裕がありえただろうが――日本では(そしてアジア世界全体では)オリエンタロ‐オクシデンタリズムという観念の枠組は、まさに最も切迫した「世界の現実」として立ち現われたのが当然だった。明治以降の日本人の対外観を表わす文献(たとえば岩波書店刊「日本近代思想大系」十二、柴原拓自・猪飼隆明・池田正博校注『対外観』〔一九八八年〕に蒐集された文献)を少しでも拾い読みしてみれば、近代日本人にとって、「東洋対西洋」、「日本対西洋」というものの考え方の枠組が、いかに強固に、切実に、すべての思考の基本に置かれていたかを実感することができる。

 そうした中で、明治以来こんにちに至るまでの日本が全体として目指してきたのは、いうまでもなく「(西洋に)追いつき追い越せ」という至上目的であり、東洋の一端に位置しながら東洋を脱して「西洋以上の西洋」になることであり、「黄色い白人」として他の「有色人種」を蔑視できる実力を身につけることだった。ここには、たんなる優越コンプレックスでも劣等コンプレックスでもない、「優越者と劣等者の中間」に自己を位置づける者の卑劣でさもしい焦りがあらわになっている。日本人が西洋人や西洋文化に対して慇懃で卑屈な態度をとるとすれば、それは非‐西洋人や非‐西洋文化に対する居丈高な蔑視の裏返しにすぎない。逆に、日本人が東洋的価値、または日本的価値を顕揚し、西洋文化を顧慮にも値しないものとして見下す態度をとるならば、それはみずからの惨めな劣等コンプレックスを逆転させた形にすぎない。オリエンタロ‐オクシデンタリズムが含意する価値序列の中間に自分自身を見い出すことによって、日本では、この世界表象に含まれた毒が、おそらく他の地域以上に激しい破壊力を発揮するのである。こうした問題は、こんにち、日本が大量の「東洋系」の外国人労働者を受け入れざるをえない状況になって、新しい危険を孕んだ局面を迎えようとしていると言えるだろう。

 近代日本におけるオリエンタロ‐オクシデンタリズムの展開を検討するためには、近代日本の対外観、対異文化観、特に東洋および西洋と呼ばれる地域に対する態度のすべてを改めて検証し直さなければならない。ヨーロッパのオリエンタリズム研究の経験から類推して考えれば、そこで特に重視すべき領域となるのは、東洋および西洋に関する学問的研究の言説や政治的言説、美的趣味としてのエグゾティシズムのあり方、また「西洋/東洋」という世界表象にかかわる思想的言説、さらに日本で特殊な発展をとげたいわゆる「日本文化論」の言説……、などになると予想することができるだろう。このように巨大で錯綜した問題を小稿で扱うことは、もちろん考えられない。以下では、たまたま注意を惹いたいくつかの事例をピックアップして、簡単な考察を加えること以外にはできない。

  近代日本文学におけるエグゾティシズムとオリエンタリズム(その一例)

 最初にとり挙げてみたいのは、近代日本文学における特殊なエグゾティシズムのあり方である。たとえば、宮沢賢治(一八九六−一九三三年)の童話や詩作品などに、奇妙な横文字が多く出てくるのはなぜなのか――。宮沢賢治の言葉によって紡ぎ出される文学世界は、日本の土着性を強く意識させる世界であるにもかかわらず、そこには一見場違いな横文字ことばが散りばめられていて、そのために、日本でもヨーロッパでもない不思議な異次元の幻想空間が作り上げられている。それは、いうならば、日本の土着性を横文字ことばの奇妙に透明な感覚にショートさせ、そのスパークから生み出されるエグゾティシズムの空間であると言うことができるだろう。

 宮沢賢治の場合、一次的なエグゾティシズムの対象はヨーロッパ文化であり、それを媒介にすることによって、日本の土着的世界自体がエグゾティックな様相を帯びる、というプロセスがあったように思われる。
 しかし、その宮沢賢治より十年ほど前の北原白秋(一八八五〜一九四二年)に見られるエグゾティシズムは、ある意味でそれよりずっと複雑で錯綜したものである。たとえば、白秋の最初期の『邪宗門』(一九〇九年)巻頭に収められたあまりにも有名な『邪宗門秘曲』の出だしを見てみよう。

われは思ふ、末世[まっせ]の邪宗、切支丹[きりしたん]でうすの魔法。
黒船の加比丹を、紅毛の不可思議国を、
色赤きびいどろを、匂鋭[にほひと]きあんじやべいいる、
南蛮の桟留縞[さんとめじま]を、はた、阿剌吉[あらき]、珍〓[酉+它][ちんた]の酒を。

目見[まみ]青きドミニカびとは陀羅尼誦[だらにず]し夢にも語る、
禁制の宗門神[しゅうもんじん]を、あるはまた、血に染む聖磔[くるす]
芥子粒[けしつぶ]を林檎のごとく見すといふ欺罔[けれん]の器[うつは]
波羅韋僧[はらいそ]の空をも覗く伸び縮む奇なる眼鏡[めがね]

村野四郎氏のこの詩に対する「鑑賞」によれば【中公文庫「日本の詩歌」九、『北原白秋』一九七四年 p. 9.】

 邪宗門とは、もちろん邪教視されたキリスト教の呼称だが、それは九州を故郷とする白秋の、当時の詩情をかき立てるきわめて自然なイメージであった。しかし白秋は、それを新時代の詩人の比喩的呼称とした。このことは、その序に「我ら近代邪宗門の徒」と記していることにも明らかである。新しい詩人の畏怖と好奇を邪宗門徒のそれに擬しているのである。

 この詩は、一貫して異国文明に対する好奇と驚異を表わし、こうした妖[あや]しい夢のためには、命を縮め、磔を血に染めても惜しまずという、耽美者の強い願望を歌っている。そしてここには、異教への好奇心と幻想を表現するために、故意にポルトガル語の訛[なまり]が多く使われている。

 白秋は、キリシタンを「邪宗」としながらも、そのイメージが醸し出す一種まがまがしいエグゾティシズムに酔い痴れている。彼は、この「邪宗」を遥かな憧れの対象としながら、同時に詩人としての彼自身を「血に染む聖磔[くるす]」に架けられる「幻惑の伴天連尊者」に擬しており、その「異人」の視点をみずからのものとしているように思われる。ここにはもちろん、日本人から見た「南蛮渡来」の魔術的魅惑に満ちたキリシタン文化に対するエグゾティシズムが前面に置かれているが、そのエグゾティシズムには、逆にキリシタン宣教師から見た「東洋の果て」の日本に対するエグゾティシズムが、いわば二重写しにされているようである【たとえば「桟留縞[さんとめじま]」の「桟留」は、イエスの十二弟子の一人聖トマスのポルトガル名であることが知られている。聖トマスがインドに布教したという伝説は、キリスト教世界では古代から普及していた。ところが驚くべきことに、十五世紀末−十六世紀初頭にインドに渡ったポルトガル人は、南インドの一地方に「聖トマスのキリスト教徒」と称するキリスト教徒の一群を発見して、その地を「サン・トメ」と名づけたのだった(『幻想の東洋』 p. 178 and n. 4-5 参照)。聖トマスの名は、東洋の果てに隠されたキリスト教王国という、中世の幻想的オリエンタリズムの重要なモティーフを象徴する名前だった。――「南蛮の桟留縞」とはこのインドの「サン・トメ」からもたらされる綿縞織だったのである。】
 白秋が、ヨーロッパ的オリエンタリズムのイメジャリーにいかに敏感に反応したかは、同じ『邪宗門』の序にある「我ら近代邪宗門の徒が夢寐[むび]にも忘れ難きは〔……〕暗紅にうち濁りたる埃及[エジプト]の濃霧に苦しめるスフインクスの瞳也」という一文を見るだけでも明らかだろう。これは、一八世紀末のフリー・メイソン的神秘主義の中核の一つとなったイメージであり、たとえばモーツァルトの『魔笛』にも、その影が色濃く漂っているのを見ることができる。あるいは、「芥子粒[けしつぶ]を林檎のごとく見すといふ」光学器械=顕微鏡は、十七世紀の科学革命による発明の一つであり、たとえばパスカルのような鋭敏な認識論者などによって、人間による世界認識の根源的な不安定さ――人間存在そのものの根源的不安――を示す象徴として盛んに用いられたモティーフだった【川崎寿彦著『鏡のマニエリスム』、研究社、一九七八年 p. 179-183 参照。】
 白秋がみずからの姿を映し出す鏡として描いた「切支丹でうすの魔法」のイメージには、日本から見たヨーロッパのエグゾティシズムとヨーロッパから見た日本のエグゾティシズムが渾然一体となって、いわば全面が鏡の「欺罔」の部屋のように、相互に反射し合っている。白秋は、この文字通りに「オリエンタロ‐オクシデンタリズム」的なエグゾティシズムを一気にみずからの内に取り入れて、「神秘を尚[たふと]び、夢幻を歓[よろこ]び、そが腐爛したる頽唐[たいたう]の紅を慕ふ」(『邪宗門』序)という、まさに「頽唐」の極みにある詩精神の活力の源泉にしようとしているとは言えないだろうか。

 ここに見られるエグゾティシズムは二重三重の鏡を通して屈折しているが、にもかかわらず、その鏡は明らかに「日本」と「西洋‐キリスト教文化」の二つの間に立てられたものであり、ヨーロッパ製オリエンタリズムの力を「逆利用」して、日本そのもの‐自分自身をエグゾティックな感興の対象にする奇妙に倒錯した精神が働いているように思われる。――この白秋の『邪宗門』から八十年ほどたって、<エキゾチック・ジャパン>という、陳腐だがインパクトの強い宣伝文句[コピー]を生み出したのも、考えてみればこれとほとんど同じ精神だったと言えるだろう(もちろんここには白秋の天才のかけらも残ってはいないが)。オリエンタロ‐オクシデンタリズムの枠に閉じ込められた明治以降、日本のエグゾティシズムは、基本的にヨーロッパを対象とし、さらにはヨーロッパから反射されるオリエンタリズムをみずからの活力源とするほかなかったのではないだろうか……。

 近代日本の美意識におけるエグゾティシズムの問題は、オリエンタロ‐オクシデンタリズムとの関連であらためて考え直すべきもののように思われる。

  近代日本のオリエンタロ‐オクシデンタリズム――内村鑑三の場合

    1.「媒介者」としての日本

 美意識の複雑に錯綜した世界に比べると、論述によって構成される思想の言説は比較的単純である。

 近代初期の日本に、最も歪みが少なく純粋な形で移入されたヨーロッパ思想は、明らかにキリスト教思想だったと思われる。一方、先に見たように、ヨーロッパのオリエンタリズム形成の上で最も重要な基盤になったのは、キリスト教的な歴史観だった。――だとすれば、近代日本のキリスト教思想にも、ヨーロッパ的なオリエンタリズムがなんらかの形で受け入れられた可能性があるのではないだろうか。ここでは、そうした予想のもとに、内村鑑三(一八六一−一九三〇年)の思想を探ってみたい。

 内村は一八八四−八八年(内村・二三−二七歳)までのアメリカ留学の後、第一高等中学校の嘱託教員になるが、一八九一年にはいわゆる「第一高等中学校不敬事件」のために職を失い、九三年から九五年にかけて(三二−三四歳)、どん底の窮乏生活の中から、『余はいかにしてキリスト教徒となりしか』を含む初期の重要な著作を七冊続けさまに出版している。それらの著作の一つに、後に(一八九七年、再版に際して)『地人論』と改題された『地理学考』があった(以下、『地人論』として引用する)。これは、世界の人文地理を略術して当時の日本人の啓蒙に資することを目的とした書で、直接キリスト教的な意図をあらわにしたものではないが、(松沢弘陽氏の「解説」によれば)「ヨーロッパの近代地理をきずいたA・フォン・フンボルト、カール・リッターやアーノルド・ギヨから強い影響をうけて、人類の世界史と世界の地理的構造とを緊密な相互関係にあるものとしてとらえ、それに内在する発展の法則を理論化して、一種の目的論的な歴史地理を構想した」ものだったという【松沢弘陽責任編集『内村鑑三』(中公バックス「日本の名著」三八、一九八四年) p. 29-30. ――以下、内村の引用は同書による。】。「目的論的な歴史地理」というだけでも、この書物がいかに西欧‐十九世紀的かつヘーゲル的な色合いの濃いものであるかが想像できるだろう(事実、本書の「参考書目」には「ヘーゲル氏、歴史哲学」が挙げられている[p. 324])。

 『地人論』における内村の宗教的‐思想的立場は、たとえば次の一節に明らかである。

 摂理とは宗教上の語にして、英語の providence なる語を訳せしものなり。ウェブスター、この語に意義を附して、「神が万有の上に執行する先見と配慮」なりと言えり。ゆえに摂理 (providence) なる語は、旧来の宗教学者が用い来たりし意匠 (design) なる語と、やや意義を同じゅうするものなり。すなわち造物主が宇宙を造るにあたりて、時計師が時計を造るがごとく、一定の方式と確固たる目的をもってせられしを言うなり。

 ゆえに摂理の観念は絶対的意志存在の観念を含有す。しかして絶対的意志存在に関する問題は純粋哲学上の問題なれば、余輩のここに論究せんとするところにあらず。余輩の探究は帰納的なり。余輩に明瞭なる地理上の事実の供せられしあり。しかして余輩は余輩の常識に訴え、最も見やすき推理法にのっとり、この地は意志なき偶然の作たるや、あるいは一大思想のその中を貫通するありて、現然たる意匠のその中に存するや否やを判別せんと欲す (p. 347)

『地人論』が全体として「東洋/西洋」の枠組によって構成されていることは、当時から考えれば当然のことであって、そこに特に積極的なオリエンタリズム(またはオリエンタロ‐オクシデンタリズム)の影響を見ることはできないだろう(事実「東洋/西洋」の枠組は、こんにちでもいまだに生命を保ち続けている……)。また、神の意志の顕現としての歴史‐地理観も、この書においてはむしろ世俗化‐理性主義化された表現で述べられている。たとえば、

 地の目的はいかん。人類を発達せしむるにあり。地理の目的は歴史の目的なり。しかして〔歴史の目的は、歴史哲学者の論ずるところによれば……、〕生理的定道〔リトレ〕といい、宗教的良心〔ブンゼン〕または心霊自由の発達〔ヘーゲル〕といい、絶対的意志の開顕〔シェリング〕といい、その内に進歩、啓発の意を含まざるはなし。〔……〕
 地球全面を大体に観察する時は、吾人はその最も良く人類の幸福を計らんがために構造配布せられしものなるを見るなり (p. 349, 350)

 しかし、論述が(内村が「第二の故郷」として愛して止まなかった)アメリカのことに及ぶと、内村のことばは俄然、ヨーロッパの伝統的なオリエンタリズムの響きを伝えるものになってくる。「アメリカ論」の冒頭に、彼はこう書いている。

 亜〔アジア〕は起原的大陸にして、人類はここにおいてその幼年期を経過せり。欧は鍛錬的大陸にして、思想の発育はここにありき。人類今は思想実行の大土を要せり。しかして摂理はこれを米に蔵し、人類がこれを要するにあたりて、これを彼に供せり (p. 376)

それゆえ、ヘーゲルが「未来の国」として「今日まで世界史の行なわれて来た地盤からは除外しなければならない」と言ったアメリカは、内村にとっては「実に二千年間の文明諸国の希望」を実現するものであるという。

 旧世界の理想は新世界〔アメリカ〕において実行し始めぬ。しかして一部はすでに実行せられたり。米国は実に二千年間の文明諸国の希望なりき。伊国の外交家にして、考古学をもって有名なるガリアーニ (Fernando Galiani)、かつて米国独立戦争中、いまだ勝敗の決せざりし前に予言して曰く、

余は単に地理学上の理由より、米国の勝利のために賭する者なり、そは已往五千年間、才能[ジニアス]は常に地球運転の方向に逆らい、東より西に向かって進みたればなり、

 有名なる旅行家バーナビー (Barnaby) また同時代にしるして曰く、

当時、一思想の人心を扼[やく]するあり。すなわち世界の権力は西に向かって進みつつあるがゆえに、何人も熱心に、米国が起ちて全世界を指揮せんとするの時を待ちつつあるがごとし、

 進化論の発言者なるチャールズ・ダーウィン氏は、彼の『人種進化論』中に、博士チンカ (Zinke) 氏の話を引用して、左の歴史的考察を下せり。

ギリシア国における知能の発育、ローマ帝国の世界占領等、その他すべての歴史上の事実は、サクソン民族の西大陸移住と相関するものとして考うるにあらざれば、一の目的と価値をその中に見るあたわず。
 ヒマラヤ山の西麓、イラン高原の東端に始まりし文明は、西漸するに従いて発達し、西亜の理想はギリシアに熟し、ギリシアの理想は欧州において実行せられ、欧の粋と理想とは米において結果せり。人類は亜に合同を計って失敗し、欧に分離して、再び米において合せり。地理学の摘指するところ、心理学の予期するところ、歴史の経過せしところ、ことごとく相符合せざるはなし。自然[ナチュール]そのものは真理なり。自然に従う者は天道に歩む者なり。地理学の教導、実に天よりの声ならずや。C (p. 386-387)

 アメリカを「終末に再発見される始原の楽園」と看做す言説は、一四九二年のアメリカ発見以来の伝統だった。その終末論的幻想を「東に始まり西に終る」歴史観と結びつけたところに、「極西=文明の完成としてのアメリカ」というトポスが生まれる【『幻想の東洋』 p. 147-148 and n. 37 参照。】。内村は、この典型的なオリエンタリズムの言説をいとも自然にみずからのものにしているのである。

 こうした明らかに目的論的な文明史観によるなら、歴史‐地理上のそれぞれの文明には、すべて窮極的な目的(=人間の完成=神の意志)に合致した使命(内村の用語によるなら「天職」)がある、と考えなければならない。生涯、「余は日本の為め、日本は世界の為め、世界は基督の為め、基督は神の為め」ということばを銘とし、「キリスト教的愛国者」を自任した内村にとって【松沢、前掲「解説」 p. 25 sq., p. 31 などを参照。】、「西の果て」のアメリカに文明の極が達せられたいま、極東の国「日本の天職」はどのようなものでなければならなかっただろうか。――「日本の地理とその天職」を題とした『地人論』第九章の末尾には、次のように書かれている。

 日本国の天職いかに。地理学は答えて曰く、彼女は東西両洋間の媒介者なりと。言うなかれ、なんぞ簡単のはなはだしきやと。これ一大国民たるに恥ずべからざる天職なればなり。これギリシア国の天職たりしなり。これ英国の天職にして、彼女の強大なるは、彼女がよくその天職を尽くせしがゆえなり。媒介者の位置……「平和を求むる者はさいわいなり、その人は神の子ととなえらるべければなり」

その日本は、西から来た中国やインドの思想を吸収し、それを純化して育ててきた――。

 〔……〕我らの吸収せしはもちろんシナのみにあらず、チベット、蒙古を経て黄河沿岸に輸送せられしインド思想も、直ちに地理学上の常路を経て、我に輸入せられたり。〔……〕インド本国においてはほとんど消滅し、チベット、蒙古においてはラマ教となりて法主制度の迷信に下落し、シナ、朝鮮においては儒教政治の下にわずかに下民の信崇を仰ぐにとどまる仏教は、わが日本においては直ちに王室の宗教となり、我の宝貨と美術と知能はことごとくその使用に供せられ、今や仏教国民中、我のごとく、あまねく釈氏の感化力にあずかり、よく彼の真理を解する者は、地球面上なきに至れり。

こうしてアジアの文明を吸収し、成熟してきた日本に、「嘉永六年六月」、突如として東の海から「北米合衆国の一艦隊が我が浦賀に来たり」、日本の開国を迫った……。

 必要に迫られて日本は解放せられたり。しかして自然は世界の創造の時より、この解放を待ちつつありたり。東京湾の深く陸地に侵入し、関東の郊野を控え、横須賀、横浜の要港をそなえて、東の方、米国に向かって開くは、永く彼が来たりて我を開かんことを待ちつつありしなり。長崎、兵庫、堺は、シナ、インドに対する我の関門として、すでに解放せらるるここに千余年、しかるに今や我の東門は開かれたり。東隣との交際、これより繁く、万邦の賓客、我は多くはこれを東門に迎うるに至れり。

日本が西と東の両方角に開かれることは、このように「世界の創造の時より」(=神の御計[みはか]らいによって)定められていたことだった。――こうして東洋的価値と西洋的価値を、その地理的な条件によって一身に受け止めることができた日本は、それゆえ、その「二者の配合によりて」生まれた「新文明」を「再び東西両洋にあまねからん」とすることを「天職」とするのである。

……東洋的の君主主義も我に施し得べし。西洋的の自由制度も我は施行し得べし。我の制度は西洋にのっとれり。西隣〔すなわちアジア諸国〕もし西洋を学ばんと欲するか、必ず、我よりこれを学ばん。東隣〔欧米諸国〕もし東洋の長を取らんとするか、必ず我よりこれを認めん。両洋、我において合す。パミール高原の東西において、正反対の方向に向かい、分離流出せし両文明は、太平洋中において相会し、二者の配合によりて胚胎[はいたい]せし新文明は、我より出でて再び東西両洋にあまねからんとす。

   さし出づる朝日の本の光より
         高麗[こま]もろこしも春をしるさん
                         平 賀 源 内

【松沢氏の注によると、これを平賀源内の作とするのは内村の記憶違いで、その和歌のもととなったと思われるものは本居宣長の『鈴屋集』にあるという。同書 p. 490 (p. 410, n. 1) 参照。】(p. 407-410)


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