如意輪観音と女性性 (*)

彌永信美

 仏教の数多くの神々の中でも,観音菩薩ほど広範な信仰の対象とされた尊格は多くないだろう.中国以東の地域で,その観音が多くの場合に女性として表象されたことは,仏教信仰史をめぐる最大の謎のひとつである.中国における観音女性化の問題については,塚本善隆氏や Glen Dudbridge 氏,あるいは R. A. Stein 氏の研究などがあるが1,日本の女身観音信仰は,たんに中国の女身観音信仰の延長線上にあるものと考えられていて,これまでとくに問題とされることもなかったように思われる2.巨視的に見れば,それはある程度事実であって,中国で観音が女性視されることがなければ,日本でもそうしたことは考えられなかったと言えるかもしれない.しかし,日本の観音信仰の歴史はそれ自体として,日本独自の「女神誕生の物語として」研究される価値がある問題であると考える.小稿では,そうした研究の一端として,如意輪観音と女性性をめぐるさまざまな表象に目を向けてみることにする.

   1 如意輪観音と皇室の女性
 さて,日本の千手千眼観音の信仰は唐代中国以来の千手‐大悲観音信仰を引き継いだものであり,それはさらにインドの多様な神話的表象に遡ることができるが,如意輪観音信仰の場合は,こうした遡及は困難である.如意輪観音は,最近にいたるまでその名称の梵語の原語さえ明確でなかったし,今もって,いつ,どこで,どのようにこの菩薩の信仰が行なわれるようになったのか明らかでない.岩本裕氏は,漢訳の如意輪陀羅尼を分析し,さらにソグド語で残された断片を実叉難陀訳の『観世音菩薩秘密蔵如意輪陀羅尼神呪経』(T. XX 1082)の部分に同定して,如意輪の原名が Cakravarti cintāmaṇi であることを明らかにされた.これは「どこへでも自在に転がっていく車のように,どこへでも来て,衆生の願いを何事でも聴きとどけてくれる者」という意味に解すべきであるという3.如意輪観音の図像は,ベゼクリクや敦煌など,中央アジア起源のものが知られているが,インドの図像資料はいまだ見つかっていないようである.さらに,中国では唐代を中心に十二の如意輪観音をテーマにした経典が残されているが,意外なことにチベットには漢訳からの重訳の陀羅尼経典があるだけで,インドやチベットの後期密教では,この尊格はほとんど忘れられていたと考えられるようである.こうした事情から,如意輪観音の信仰が,インドのどのような神話的表象に遡るかを知ることは非常に難しい.
 中国では,唐代の実叉難陀の時代(六九五〜七〇四年)から不空(七〇五〜七七四年),さらに解脱師子(八六七年以前)の時代にかけて,そしてさらに南宋の慈賢にいたるまで,如意輪観音関係の少なくとも十二の経軌が訳され(T. XX 1080-1091. ただし中の少なくとも一つ,唐代の宝思惟訳とされる『観世音菩薩如意摩尼輪陀羅尼念誦法』T[tt]. XX 1084 は偽経であるという),また比較的多数の唐代に遡る図像的資料も残されていて,当時,相当に盛んな信仰があったと考えられる4.しかし,その信仰が実際にどんな内容のものであったかについては,筆者の知るかぎりほとんど未開拓であって,今後の研究に俟たねばならないようである.
 ただ,いずれにしても如意輪観音の信仰は,如意宝珠の象徴と,輪の象徴との複雑な組み合せとして形成されていったと考えて間違いはないだろう.如意宝珠は,無限の豊饒性と生命力を秘める玉であり,豊饒性という特質から考えれば女性性のイメージを喚起するが,同時にその(上端がやや尖った球形の)形態から,男性性とも関わっている(また梵語の maṇi が男性であるということも関連するかもしれない).如意宝珠はまた,その形態と神話的機能から,舎利とも近い関係にあり,龍によって守られると言われることから,水の要素とも無関係でない.一方,「輪」は敵を砕破する武器を表わすところから敵対者の降伏をイメージさせ,また「輪王(転輪聖王)」を連想させるゆえに(また如意輪の原名に cakravartin の語が含まれているゆえに?),宇宙を統治する絶対的王権の象徴としても機能する.「大慈大悲にして衆生の諸願を円満し〔〜「如意宝珠」〕,また衆生の苦を砕破する〔〜「輪」〕救苦菩薩」という『白宝抄』,「如意輪観音法雑集」上の「名字事」に載せられた解釈は,そうした如意輪観音のシンボリズムの一端を示すものと言えるだろう5

 日本の如意輪観音信仰を図像・造像の面から検討した井上一稔氏の研究によれば,日本では,平安時代以降,多くの如意輪観音の作例が見られるようになる.とくにその最初期に当るものの一つが河内・観心寺の有名な座像で,これは嵯峨院太皇太后(橘嘉智子)の発願に基づき,空海の弟子に当る真紹によっておそらくは八四二年前後に造られたものと考えられている.これは一般に官能的と言われる密教の造像の中でもとりわけふくよかで「生命的な動き」(井上一稔氏)に満ちており,一種の理想化された女性像を思わせる.井上氏は,この像について次のように書いておられる6

……この像の持つ官能性や豊満さといったものは,女性性という言葉で置き換えられるものであり,本像はあきらかに女性を意識して表現されている〔と想定できる〕.ここで思い当たるのは,本像の発願者が橘嘉智子という女性であり,彼女は卒伝に,その容貌は人を寛和せしめ,手は長くて膝を過ぎ,髪も地に委ねるほどであるという,人間離れした姿が述べられていることである.ここに,本像の女性性の裏には,〔菩薩の化身とも目される〕橘嘉智子が存することに関わりがある‚やに思えてくる.このように彼女を理想化する時代にあって,本像の造形の基本態度は,観音の特性を理想の女性像の中に表そうとするものではなかったかと考えたいのである.
こうした観点から,ひるがえって唐代中国の作例を見ると,そこでもすでに,いくつかの像に「女性的」と思われる表現が目立つことが指摘できる(たとえば敦煌出土の大英博物館蔵,絹本着色如意輪観音図7,あるいは八世紀後半の作という大和文華館蔵の銅像など).如意輪観音は,非常に早い時期から,女性的な表象と強い親和性をもっていたのかもしれない.
 この観心寺の如意輪観音以後も,文徳天皇(在位八五〇〜八五八年)の女御・藤原明子の発願によって造像された山科,安祥寺の如意輪観音像の記録や,『元亨釈書』(巻第十八)に,淳和帝(在位八二三〜八三三年)の第四妃・如意尼が山で光を放つ桜を見つけ,空海に依頼して像に刻んでもらったという伝説がある兵庫県神呪寺の如意輪観音像など,皇室の女性と如意輪観音の特別な関係を示唆する記録が残されている8

 一方,平安時代後期からは,天皇の身体加護を祈る護持僧が修する「三壇御修法」の中に,不動法,普賢延命法とともに,如意輪観音法が組み込まれた.「三壇御修法」とは,天皇の寝所である清涼殿の夜御殿の東側,妻戸一枚を隔てた庇の間の「二間」と呼ばれる空間で,比叡山,東寺および三井寺の最高位の僧によって修せられるものだった.この夜御殿では,天皇は三種の神器のうち宝剣と神璽を枕頭に案じて就寝するが,その剣と神璽を置いたちょうど裏側が二間であり,そこでは観音が本尊とされて,護持僧が毎夜,天皇の身体安穏を祈って修法を行なった(これが「夜居加持」と称せられた).この観音がどのような観音であるかについては,古来諸説があり,正観音とも十一面とも,あるいは如意輪観音とも言われた.いずれにしても,この観音は,剣と璽とともに,三種の神器の中心的存在である神鏡を象徴とする天照太神の本地であると考えられた.『渓嵐拾葉集』は,二間の観音について「其の本尊は如意輪観音也.最極秘事也.口外すべからず(云々).又云はく.天照太神は則ち如意輪観音也.内侍所御鏡,天照太神の御形を写し給ふ也」と書いている(後述も参照).また,同じ二間で毎月十八日に行なわれた観音供では,聖観音と十一面とともに如意輪観音が本尊とされた9.——観音,とくに如意輪観音の信仰は,こうして古代末期から中世にかけて,天照太神に象徴されるエロース的生命力を吸収し,日本の王権を支える密教的神秘思想のもっとも深部に根を下ろして,その「神話力」によって王権のコスモロジーを基礎づける役割を果たしていたのである.
 それと同時に,やはり王権イデオロギーにも関連して重要なのは,十二世紀末ころから,如意輪観音が聖徳太子信仰と結びつけられるようになることである.院政期の成立と考えられる『東大寺要録』には,空海の孫弟子に当り,光仁天皇の末裔と言われる醍醐寺の開祖・聖宝(八三二〜九〇九年)が,太子の生まれ変わりであるという説が記されている(聖宝は八七四年に如意輪と准胝観音を本尊として醍醐寺を開いた).一方,守覚法親王(一一五〇〜一二〇二年)の『御記』には,「醍醐僧正〔聖宝〕は如意輪の化誕なり」という文があって,この二つの伝承を総合すると,この時代には聖徳太子と如意輪観音が,聖宝を介して,ある神話的体系の中で関連しあっていたことが分かってくる10.井上氏によれば「事実,十二世紀末の『水鏡』平城天皇条には,今度は弘法大師は太子の再誕とされ,その遠い御本地は大日如来で,近くは六臂の如意輪,救世観音の垂迹であると記されているのである」11.また,守覚とほぼ同時代の慈円(一一四七〜一二二五年)は,一二一〇年成立の『法華別帖』に「先の日本国聖徳太子は救世観音也(如意輪)」と書いて,如意輪=聖徳太子の図式を明確に表現している12.こうして,十二,三世紀には,法隆寺聖霊院の二臂如意輪観音像や広隆寺桂宮院の二臂如意輪観音像など,いくつかの太子と関連の深い寺院で,太子を模したと思われる如意輪観音像が造られるようになった.また,「太子との関連で有名な六角堂は,太子の念持仏を本尊としたとされ,現本尊の銅造如意輪観音像は鎌倉後期の作で,六臂である」(井上一稔)という13
 聖徳太子と観音信仰の関連は,有名な夢殿の本尊の救世観音にまで遡るが,それがとくに如意輪観音信仰に収斂したことの背景には,太子を幼童王として崇敬する信仰と,如意輪観音自体がもつ奇妙な女性性(あるいは逆説的にエロティックな「無性性」)とが関わっていると考えられるだろう.太子の表象は稚児の表象と通底し(太子の後身と言われる弘法大師空海も,稚児形で表わされることがある),それは如意輪観音が醸し出す一種の「純真で甘美な」官能性と連なっていく(同様に,文殊菩薩も稚児形で表わされることがあった).しかもそれが,救苦‐救世‐大悲大慈の「母性」的観音の表象へつき抜けていくところに,中世日本の如意輪観音信仰の一つの特徴——それはまた,中世におけるジェンダー表象の一つの特徴でもある——があったと見ることができる.

  2 如意輪観音/玉女の表象
 さて,ちょうど十二世紀末から十三世紀初頭にかけて編纂された『覚禅鈔』(一一八三〜一二一三年頃?)には,如意輪観音法に関して特別に興味深い記事が記されている.それは,いまの六角堂の如意輪観音と密接に関連するので,まずそのことから見ていこう.
 建仁元年(一二〇一年),浄土真宗の宗祖・親鸞は比叡山を降りて百ヵ日六角堂に参籠し,その九十五日目にある夢告を得た.「行者宿報偈」として知られるその夢の内容は,『親鸞夢記』および『三夢想記』に記されている.以下,松野純孝氏が引く『親鸞夢記』から引用しよう14

親鸞夢記に云く
六角堂救世大菩薩,顔容端政の僧形を示現して,白納の御袈裟を着服せしめて,広大の白蓮に端座して,善信〔親鸞の当時の名〕に告命して言く,
行者宿報にて,設ひ女犯すとも
我玉女身と成りて犯せられむ
一生の間,能く荘厳して
臨終引導して極楽に生ぜしめん
救世大菩薩此の文を誦して言く.此の文は吾が誓願なり.一切群生に説き聞かすべしと告命したまへり.斯の告命に因て,数千万の有情にこれを聞かせしむと覚えて,夢悟め了ぬ.
 二十九歳の親鸞は,この夢告を得て法然を尋ね,改心するに至ったと考えられている.これはいわば浄土真宗の創始のきっかけとなった事件であり,日本の宗教史上,もっとも重大な意味をもった夢の一つだったとも言えるだろう.ところが,この夢告とほとんど同じ内容の文が,ちょうど同時代の『覚禅鈔』(一一八三〜一二一三年頃成立?)に出ているのである.以下,『覚禅鈔』巻第四十九「如意輪下」から引用する.
  本尊,王の玉女に変ずる事
又云はく.〔もし〕邪見心を発して,淫欲熾盛にして世に堕落すべきに,如意輪我れ王の玉女と成りて,其の人の親しき妻妾となりて共に愛を生じ,一期生の間,荘厳するに福富を以てす.無辺の善事を造らしめ,西方極楽浄土に仏道を成ぜしめん.疑ひを生ずることなかれ云々15
さらに,松野氏は,『図像抄』巻第六「如意輪」に,二臂の如意輪観音の図像(六角堂の如意輪観音は二臂であると言われていた〔ただし,現在の像は鎌倉後期の作で六臂である〕16)について,「白色にして白蓮に結跏趺坐す」と書かれている記事が,いまの親鸞の夢記に言う「白納の御袈裟を着服せしめて,広大の白蓮に端座して……」という姿に酷似することを指摘しておられる17
 この『親鸞夢記』の文は,親鸞の真筆本と呼ばれるものが現存しており18,その信憑性は相当に高いと思われる.この夢と『覚禅鈔』の文の類似について,田中貴子氏は「もしこの偈が親鸞の自作であったなら,彼が捨てた旧仏教の伝統的な学問や口伝の世界が皮肉にも彼の基本的な教養の根幹をなしており,無意識にそれが表出したのだと考えられる」と述べておられる19.親鸞が旧仏教に決別したのは事実だが,それは逆に言えば,彼が学んだのが旧仏教の世界だったことを意味しており,彼の教養が旧仏教のそれであったことはむしろ当然と言えるだろう.ただ,この「行者宿報偈」と『覚禅鈔』所引の文は,たんに夢の中の「無意識的な表出」としてはあまりに酷似しており(「玉女」という語,「一生の間……荘厳して」と「一期生の間,荘厳する……」など語句的にも同一の部分がある),不自然な感じをまぬかれない.また,夢の内容自体もきわめて抽象的で,たとえば同時代の明恵(高弁)の多様な夢の記録などと比較しても,疑問に感じられる.親鸞がなんらかの意味で「行者宿報偈」の内容を示唆する夢を得たことは事実だとしても,その記録には『覚禅鈔』所引の文を実際に参照するといったような,ある種の作意があったと考えた方が自然ではなかろうか.——このことは,いわゆる「鎌倉新仏教」のあり方全体を考える上で,これまでになかった視点を提供するものかもしれない.

 では,この文はいったいどこから来たものだろう.そのヒントとなるのは,『覚禅鈔』の引用文のはじめにある「又云はく」という語である.一般に『覚禅鈔』などの諸尊法集成は,大部分が他のテクストからの引用によって成り立っている.その多くは各尊格を主題とする経典や儀軌からの引用であり(「経云はく」,「軌云はく」,「念誦法云はく」など),また,各流派の阿闍梨によるテクスト,あるいは口伝などからの引用である(「抄云はく」,「師云はく」,「口云はく」など).ここに「又云はく」として引かれているのは,当然,以下の文章が,その直前に引用したのと同じテクストからの引用であることを示している.事実,いまの「本尊,王の玉女に変ずる事」の文の直前には,「風雨を止む事」と題された条があり,そこには,「経云はく(大本)……」として菩提流志訳の『如意輪陀羅尼経』から風雨・雹を止める呪法の文(T. XX 1080 196a4-7)が引かれた後に,「別本軌云はく」として「若し雨を止めんと欲すれば,曷如木(於保太良太木)を取り,長さ一肘にして,加持百八返して焼すれば即ち止む(云々)」という二行の文が引かれている20.こうして見れば,「本尊,王の玉女に変ずる事」の「又云はく」以下の文は,当然これと同じ「別本軌」からの引用であると考えられるだろう.——また,いまの例でも明らかなとおり,こうした書物では典拠の題名はほとんどつねに省略された形で表記されており,それぞれの略名がどのテクストに当るかは必ずしも明確でない.
 では,この「別本軌」とはいったいどんなテクストを指すのだろう.結論から先に言うと,筆者の調査したかぎりでは,「別本軌」の全容を解明することはほとんど不可能だが,その題名は『聖如意輪観世音菩薩修行儀軌』または『聖如意輪観世音菩薩真言修行儀軌』と呼ばれ,覚禅とその師興然が秘蔵していた儀軌であると推測できる.
 これを探る糸口にできるのは,『覚禅鈔』をはじめとする十三,四世紀の諸尊法集成のもう一つの特色,すなわち各尊格について記述する各巻のはじめに,「本書事」,「本文」などという条を設けて,各尊格についての基本的典拠とされる経軌や注釈書,秘訣などの書物の一覧を挙げる習慣があることである.——さて,『覚禅鈔』の「如意輪」上・下二巻にも「本書等」として全部で十八の典拠が挙げられているが(基本的と思われるのは中の十二21),それらのうち,(大正蔵第二十巻所収の)現存の如意輪関連経軌に対応すると思われるものは七つにすぎない22.すなわち,ここに列挙された
[1]菩提流志訳『如意輪陀羅尼経』は T. XX 108『如意輪陀羅尼経』に,
[2]義浄訳『仏説観自在菩薩如意心陀羅尼呪経』は T. 1081『仏説観自在菩薩如意心陀羅尼呪経』に,
[3]不空訳『如意輪念誦法』は T. 1085『観自在菩薩如意輪念誦儀軌』に,
[4]不空訳『観自在菩薩如意輪瑜伽』は T. 1086『観自在菩薩如意輪瑜伽』に,
[5]金剛智訳『観自在如意輪菩薩瑜伽法要』は T. 1087『観自在如意輪菩薩瑜伽法要』に(この二つは「同本異訳」であると注記されている),
[6]不空訳『如意輪観門義注秘訳』は T. 1088『如意輪菩薩観門義注秘訣』(これは大正蔵では「失訳」とされている)に,
[7]解脱師子訳『都表如意摩尼転輪聖王次第念誦秘密最要法』は T. 1089『都表如意摩尼転輪聖王次第念誦秘密最要略法』に,
それぞれ対応する(前注 4 も参照).
 それ以外の五つの典籍が何に当るのかは明確でない.
[1]『観世音秘密無障礙如意輪陀羅尼蔵義経』一巻(秘録云,梵釈.闕本),
[2]『観自在菩薩如意摩尼転輪聖王金輪呪王経』一巻(法務御抄云.無諸家録.但諸師引用之),
[3]『観自在菩薩如意輪瑜伽秘密念誦儀軌』一巻(無訳者),
[4]『聖如意輪観世音菩薩修行儀軌』一巻(持本.無訳者),
[5]『観自在菩薩如意輪陀羅尼』一巻(不空.慈)23
 一方,『覚禅鈔』の当該二巻に略題で実際に引用されている基本的典拠は,「経(大本)」(=T. XX 108),「経(義浄)」(=T. 1081),「念誦法(不空)」または「念誦軌」(=T. 1085),「軌(不空)」(=T. 1086),「法要」(=T. 1087),「都表軌」(=T. 1089),「七星如意輪法」(=T. 1091),「義注秘決」(=T. 1088)(以上は現存経軌との対応が明確である)などのほか,「金輪呪王経」,「軌(異本)」,そして問題の「別本軌」がある.これらのうち,「金輪呪王経」(『観自在菩薩如意摩尼転輪聖王金輪呪王経』)については,「本書等」に「法務御抄に云はく.諸家録に無し.但し諸師之を引用す」と注記されており,当時から由来がはっきりしなかったもののようである(この経は如意輪観音の各種の図像の典拠として重要だが,井上氏はこれについて「あまり実態のよく分からない『金輪呪王経』……」と書いておられる24).一方,「軌(異本)」は,おそらく「本書等」に「『観自在菩薩如意輪瑜伽秘密念誦儀軌』一巻(無訳者)」として挙げられているもの(上の[3]),そして「別本軌」は,いまの『瑜伽秘密念誦儀軌』と「文大略同」であるという「『聖如意輪観世音菩薩修行儀軌』一巻(持本.無訳者)」(上の[4])に当ると考えるのが妥当だろう.この二つの典籍については,いずれも現存していない(と思われる)ので,その詳しい内容を知ることはできないが,少なくとも覚禅がこれらを菩提流志や義浄,不空,金剛智などによって訳出され,日本に請来された唐代以来の権威ある経軌と同列に扱っていることは重要である.
 『覚禅鈔』よりやや時代が下がる『白宝抄』(一二六八〜一二七八年頃?)や『白宝口抄』(一三四一年以前)の如意輪観音法の巻には,「本文」あるいは「本書事」と題して『覚禅鈔』の「本書等」とほとんど同じ典籍が挙げられている25.ところが,興味深いことに,『白宝抄』の「本文」の条では『聖如意輪観世音菩薩修行儀軌』について「持本」という注記はなく,また,『白宝口抄』になると,同じ『聖如意輪観世音菩薩修行儀軌』がまったく挙げられていない.『覚禅鈔』の「持本」という表現が何を意味するのか明確には分からないが,おそらく「個人的に蔵している(あるいはとくに奉持している)書物」ということと理解してよいだろう.『白宝口抄』の作者(亮禅述・亮尊記)は『覚禅鈔』を目の前に参照しながら,おそらく故意に『聖如意輪修行儀軌』を省いたと考えられるから,この儀軌は,彼らには信頼に足りない,もしくは挙げるべきでないものと判断されたものと思われる.
 「持本」が「個人的蔵書」を意味するだろうという推測を裏付けるのは,筆者の調査したかぎり,「別本軌」からの引用は『覚禅鈔』以外には,覚禅の師であり、同じ小野流の学匠である興然(一一二一〜一二〇三年)の『五十巻鈔』巻第二十九「如意輪法」に『聖如意輪観世音菩薩真言修行軌』として引用されている以外に見当たらないからである26.逆に,『覚禅鈔』には,先に挙げたもののほかにもいくつも「別本軌云はく」,「又云はく」として引用した文があり,そのうちの三つは『五十巻鈔』に引かれた文と同文,またはほぼ同文である(『五十巻鈔』には,『覚禅鈔』に見えない呪法が一つだけ引かれている).『覚禅鈔』の引用の大部分は呪法の記述で,内容的には(前の「風雨を止む事」に見たのと同様に)「この印を結んでこの真言を何回唱えればこれこれの望みが成就する」といったもので,ここではとくに検討する必要はない.しかし,各呪法の目的はきわめて特徴的である.以下,『覚禅鈔』「如意輪」上・下の二巻に見られる「別本軌」の呪法の目的を挙げてみよう27
[1]「如意輪」上には,一箇所だけ裏書に「別本軌」から「観世音小心真言」が引用され,「若し一切大小神を縛せんと欲すれば……」として印・真言が記されている.
 以下は「如意輪」下から——.
[2]「得仙法事」の条で「若し持呪仙と成るを欲すれば」として呪法が記される.
[3]「国王所愛事」の条で「若し人,国王の所愛を得んと欲すれば」として呪法が記される(その結果,行者は「国王の愛敬を得,世出世に七珍百宝現前し,三界中の貴物,意に応じて生ず」という).
[4]「降雨事」の条に,「旱魃有り」として旱魃の時に雨を降らせる法が記される.
[5]「止風雨事」の条(上述参照).
[6]「本尊変王玉女事」の条(上述参照).
[7]「女人敬愛事」の条では,「若し女人の敬愛を得んと欲すれば」とする呪法と,「若し女人有りて,薄福にして種々悪現世に〔あらば〕」とする呪法の二つの文が引かれる.後者は『五十巻鈔』に引用されている.
[8]「求児法事」の条では「若し女人有りて子無く,子を得んと欲すれば」として男児を得る法が記される.『五十巻鈔』に引用される.
[9]「難産治法事」の条に「若し女人有りて産生能わざれば」として二ヶ条の難産治癒の呪法が記される.これも『五十巻鈔』に引用される(この後,『五十巻鈔』には難産治癒を目的とした護符を用いる別の呪法が説かれている).
[10]「発婬事」の条に「若し〔婬を〕発さしめんと欲すれば」として発婬の呪法が記される.
[11]「滅婬事」の条に「若し仏弟子,婬欲を断ぜんと欲すれば」として滅婬の法が説かれる.
[12]「返呪詛事」の条に「経云はく(義浄)」として義浄訳『仏説観自在菩薩如意心陀羅尼呪経』の文28 を引いた後に,「別本軌云はく,人有りて急に呪詛を被り,命終に臨する時」として呪詛を返す呪法が記される.
[13]「除天狐難事」の条に,「又云はく」として「別本軌」を引き,「天狐地狐より離れんと欲すれば」と述べて,狐の病(狐憑きの病)を癒す法を記す.
[14]「治病人裸馳事」という条に「若し人難治の病〔にかかり〕,或は脱衣して裸で馳走し,或は相打つ〔など〕,如是の不吉〔あらば〕」と書いて,屍鬼の病を癒す法を述べる.
[15]「癒悪瘡事」の条に,悪瘡を癒す法を記す.
 これら一連の呪法を見ると,(呪法として当然のこととはいえ)きわめて現世利益的な傾向が強いものばかりが挙げられ,また,「本尊変王玉女事」のほかにも「女人敬愛事」,「求児法事」,「難産治法事」,「発婬事」,「滅婬事」など文字どおり性的な内容のものが多いことに驚かされる(一般に「女人敬愛」,「求児」,「難産治癒」などを目的とした呪法は少なくないが,「発婬」,「滅婬」の呪法は,日本の諸尊法集成の中でもきわめて異色と思われる).にもかかわらず,記されている修法自体は,多くの場合,各種の植物を加持したり,桑の木の白汁に酒を混ぜて加持するなど(「発婬事」の例),唐代や宋代に翻訳された一部の経軌の過激な修法(たとえば人肉や童女の血を使う,など)とは明らかに趣を異にしている.また,各種の植物の名が音写語で表記されるが,それらは多く梵語に還元できないもののようであり(たとえば「波羅木〔阿不知木と注記される〕」,「宇都波羅木〔梧桐〕」,「曷如木〔於保太良太木〕」など),さらに「天狐地狐」という表現は,おそらく古代末から中世の日本に特有のものと思われる29
 こうしてみると,この「別本軌」(おそらく『聖如意輪観世音菩薩修行儀軌』と題される)は,興然・覚禅の時代からあまり遠くない時期に日本で偽作されたものだが,この師弟,とくに覚禅はそれを「持本」として尊重し,唐代の翻訳経軌と同じほど高い権威をもつものと評価したと考えていいように思われる.一方,その「別本軌」は,同じ真言宗でも『白宝抄』や『白宝口抄』の著者には,重視されなかった,あるいは疑問視されたもののようである.
 以上の推測によるならば,親鸞(あるいは彼の直接の弟子?)に注目され,またおそらく興然・覚禅の蔵書として珍重された「別本軌」は,平安末期から鎌倉初期のころに(?)日本で如意輪観音を主題にして偽作された儀軌だった.それはきわめて現世利益的な傾向の強い呪法集で,とくに明らさまに性的な要素が多く混じっていた.なおかつそこに,如意輪観音自身が「王の玉女」として現われ「婬欲熾盛」の者の妻となり,「一期生の間荘厳して,西方極楽浄土に」導く,と説かれていたことは,古代末期から中世初期にかけての日本の如意輪観音信仰の一側面をきわめて特徴的に表わすものだったと考えられる.長谷寺の十一面観音が「濁世ノ猛キ衆生ヲ和ル事ハ只女人ナリ」(『長谷寺験記』)として自らを女身として現わしたのとほぼ同時期,あるいはそれ以前に,(稚児的な要素をも併せもつ)如意輪観音は,「婬欲熾盛の人」を救うものとして,自ら女身を現わしたのである.

  3 如意輪観音/玉女・荼枳尼天と王権神話
 ところで,いまの『覚禅鈔』の「本尊,王の玉女に変ずる事」では,如意輪観音が「王の玉女」として現われると書かれていた.なにゆえこれは,王の玉女と言われるのだろう.すでに述べたように,如意輪観音は古い時代から皇室の女性とかかわりをもち,また清涼殿・二間の本尊とも考えられて,王権とある種の深い関係を有していた.それに関連してとくに興味深いのは,前にも言及した慈円(慈円は天台における親鸞の師でもあった)の「神璽宝剣」の夢である.慈円自身の記録によれば,彼は建仁三年(一二〇三年.親鸞の夢から二年後)のある明け方,次のような夢を見たという30 ——.

建仁三年六月廿二日暁の夢に云はく.国王の御宝物,神璽宝剣の神璽は玉女也.此の玉女は妻后の躰也.王,自性清浄の玉女躰に入り,交会せしめ給へば,能所共に罪無きか.此の故に神璽は清浄の玉也…….
すなわち,慈円は,「国王の御宝物」=三種の神器のうちの神璽と宝剣の中の神璽とは,「玉女」であり,この「玉女」は皇后の身体である,王(=天皇〜宝剣)が「自性清浄の玉女」の身体のうちに入って交合するときには,王も皇后もともに清浄であり,罪がない,と夢見たと言うのである.
 慈円は,このきわめてエロティックで,異様に即物的であると同時に奇妙に抽象的な夢をみずから解釈して,王/宝剣を不動明王の「智剣」に,王妃/玉女をその鞘に相応させ,さらに,王を一字金輪仏頂に,王妃を仏眼仏母尊に当て‚はめて,王と王妃の交会を超越的存在の宇宙的な合体として理解し,そこから「天照太神の御体」であるところの神鏡が産出される,という壮大な王権コスモロジーを展開させている.この夢とその解釈こそは,中世日本の王権イデオロギーをもっとも見事に密教思想の枠内で(神話)論理化した貴重な記録であると言うことができる.
 ここでは,如意輪観音は直接現われていないが,それが慈円の思考の中で明確なリンクによって結ばれていたことは,後の作品である『法華別帖』の記述からうかがうことができる.
 慈円は,この夢とその解釈について,『法華別帖』で言及する.いまも言ったように,この夢の解釈では,「王の玉女」すなわち王妃は,仏眼仏母尊に対応させられているが,『法華別帖』ではそのことを述べたすぐあとで,二間の本尊の観音について触れ,「近日」東寺の人の間でこれを十一面観音とする解釈があるがそれはまったくの誤りで,「慥には如意輪也」と断言する.なぜなら,国王は「金輪王」であって,それゆえ「諸観音之中に国王の御本尊には必ず輪の義を用ふ」べきであり,如意輪観音がそれに当るからである,というのである31.この一連のイメージの連鎖の中で,慈円の「神話論理」の流れは,「仏眼仏母=如意輪観音=『王の玉女』=(天照太神)=神璽=王と交会する王妃」という連関を生み出していたことが見てとれるだろう32.ここでも,如意輪観音は王権と密接に結びついた女性性そのもののイメージの基底を形作っているのである.

 さて,十四世紀になると,如意輪観音は天照太神ばかりでなく,——というより,おそらく天照太神自身(天の岩戸に籠る天照太神,すなわち宇宙的暗黒の中の天照太神)と,そして闇夜にゆらめいて輝く如意宝珠のイメージ(「摩尼の灯火」)とを介して,狐(辰狐)としての荼吉尼(〜稲荷神)とも習合するようになる.『渓嵐拾葉集』には「天照太神,天の岩戸に閉籠り給ふ相貌如何」という問に対し,答えて——33

凡そ天照太神とは日神にて坐ます上に,日輪形,天の岩戸に籠り給ふもの也.又云はく.相伝に云はく.天照太神,天下り給ひて後,天の岩戸に籠り給ふと云ふは辰狐の形にて籠り給ふ也.諸畜獣の中に辰狐は身自ずから光明を放つ.神,故に其の形を現じ給へる也と(云々).
 尋ねて云はく.何故に辰狐必ず光明を放つや.答.辰狐とは如意輪観音の化現也.如意宝珠を以て其の体となす故に辰陀摩尼王と名づく也.宝珠とは必ず夜光る.故に諸真言供養の時,摩尼を以て灯となすと云へり.旁に以て思ひ合わすべし.又云はく.辰狐の尾に三古〔三鈷〕あり.三古の上に如意宝珠あり.三古即ち是三角の火形也.宝珠また摩尼の灯火也.故に此神,威光を現はし法界を明にする也(云々).又云はく.一伝に云はく.未曽有経説に云はく.辰狐をアガメテ国王と成すと云へり34.是も天照太神を以て百王元神35 と習ふ神也.
と書いた一節がある.これはまさに,如意輪観音〜如意宝珠〜天の岩戸の天照太神〜そして闇夜の狐/荼枳尼天との間の神話連想的連関を示すもっとも典型的な,またもっとも見事に詩的な記述であると言える.そして荼枳尼と如意宝珠とを結びつけたのは,荼枳尼が喰らうという屍体の心臓「人黄」が,望みのものを「如意」に,無限に産出すると考えられた如意宝珠のイメージを喚起したからにほかならないだろう.
 周知のように,荼吉尼は,中世日本の顕密仏教による王権神話を儀礼化して結晶した即位潅頂の本尊として祀られた.「辰狐をアガメテ国王と成す」という『未曽有因縁経』からの引用は,『渓嵐拾葉集』の荼枳尼天について述べる章でも,「此の天に付きて即位潅頂と習ふ事」という条のもとに引用されている36

 後醍醐天皇の政権で圧倒的な権勢を誇った西大寺流の文観にも,神秘的国家神話を密教儀礼によって裏付けた重要な著作があった.延元三年〔一三三八〕三月二十一日弘真(文観の別名)の本奥書がある『秘密源底秘決』は,阿部泰郎氏によれば,「国家の本尊たるべき一仏二明王の三尊合行法についての口決」だが,その中心に如意輪観音が据えられているのは,如意輪と天照太神/荼枳尼天との習合に基づいていると考えることができる37.『秘密源底秘決』は,石山寺蔵『謀書目録』に,文観が三宝院の聖教の随一として伝え,禁裏に授けて信仰他に異なり叡感深かったと述べる三尊合行法がこれに当るだろうという.以下,阿部氏の記述を引用しよう.

この法の本尊は五輪塔に象られ,二顆の宝珠すなわち舎利を納め変じて如意輪となって中央に在り,左に不動(忿怒尊=胎蔵),右に愛染(敬愛尊=金剛)の二明王を配する(これは観心寺本堂の三尊構成に等しい).〔中略〕
 先ず,宝珠の正体を両部合体の如意宝珠蓮華密印とし(如法尊勝法と如法愛染法に重なる)不動と愛染が宝珠をもつ意義を説く.次に,この三尊をもって迷悟の体と釈し,不動愛染が三毒の煩悩と現じてそのまま仏果瑜伽の功徳また煩悩即菩提の一宗の肝心の理を表すものと説く.次に,宝珠尊形を釈し,これを如意輪と示し,その最極の習いとして,これが一字(仏)頂(金)輪王たる帝すなわち日輪同体の内侍所神鏡たる天照太神の所変と解き,その上で帝王の即位には舎利(金輪)の真言をもって即位の真言とする,と言う一箇の王権観の体系を描くのである.
 不動・愛染二明王の合体は,両頭愛染とも呼ばれ,男女両性を表わす赤白の二頭によって表象されていた.さらにこの『秘密源底秘決』の三尊合行法は,『神代巻秘訣』の「東寺御即位品」に,東寺即位法の「別法」として説かれた広沢流の「三天合行法」,すなわち聖天・荼枳尼天・弁才天の三天合行法にも連なるものに違いない38.そしてこれはまた,東寺の夜叉神や台密の摩多羅神,そして三面大黒などの「三面一体の神々」にも結びついていく.
 如意宝珠と舎利,日輪,そして荼枳尼が人の屍体からとって喰らうというあの神秘物質・人黄(「衆生精気」とも「人王」とも解釈された,人/宇宙の精気の凝縮物39)というイメージの連鎖——無限の生命力を産出する玉珠のシンボル——が,この奇怪な王権神話の根柢を支えている.そして,あのふくよかな官能を湛えた河内・観心寺の美しい如意輪観音,嵯峨院太皇太后・橘嘉智子の姿を擬したとも言われる如意輪観音の像は,不動・愛染の両明王に囲まれて,中世の王権神話の頂点に,あるいはそのすぐ後ろの背景に立つおぞましい女鬼・荼枳尼の血腥ささをも秘めていたのである.

 王権を宇宙論的に根拠づける即位潅頂のコンテクストで,荼枳尼天と如意輪観音はいわば互いの属性を交換しうる位置に付置されていた.こうした如意輪観音の変貌は,日本における観音の女性化の最終的な終着点の一つを示しているとも言うことができるだろう.

(*) 小稿は,近刊の拙著『観音変容譚——仏教神話学への誘い・二』(法蔵館)の一部を部分的に改変したものである.——大正大蔵経からの引用は,フランス語による仏教語彙辞典『法寶義林』Hōbōgirin のリファレンス方法に準拠した.最初の T. はインド撰述の経典類(釈尊,または大日如来などの「仏説」に基づくと信じられているもの),Tt. はそれ以外のインド撰述の仏典(注釈,論述,本生/本縁類など),Ttt. は中国撰述の仏典,Tttt. は日本撰述の仏典を表わす.中国撰述の偽経などは,T[tt]. のように表記する場合があるが,必ずしも厳密ではない.TZ. は大正蔵・図像篇を表わす.次の大文字ローマ数字は大正蔵の巻数,次のアラビア数字は各文献の番号(図像篇の文献番号は『法寶義林』別冊 Hōbogirin. Fascicule annexe, Répertoire du Canon bouddhique sino-japonais, Edition de Taishō, compilé par P. Demiéville, H. Durt et A. Seidel, 2e édition révisée et augmentée, Paris, Librairie d’Amérique et d’Orient Adrien-Maisonneuve, Tokyo, Maison Franco-japonaise, 1978 に基づく),小文字のローマ数字は各文献における巻数,アラビア数字は大正蔵各巻におけるページ数(図像篇については,通巻のページ数),a/b/c は上・中・下段,アラビア数字は各段における行数を表わす.例:T. I 1 xx 133a5-6 =大正新修大蔵経,第一巻,インド撰述,文献番号1『長阿含経』巻第二十 p. 133 上段,五行目から六行目.


1 塚本善隆稿稿「近世シナ大衆の女身観音信仰」,『山口益博士還暦記念・インド学仏教学論叢』(京都,一九五五年); Glen Dudbridge, The Legend of Miao-shan, Oxford Oriental Monographs, I, Ithaca Press, London, 1978; Id., “Miao-shan on Stone : Two Early Inscriptions”, in Harvard Journal of Asiatic Stidies, 42-2, 1982; R. A. Stein, “Avalokiteśvara/Kouan-yin: un exemple de transformation d’un dieu en déesse”, Cahiers d’Extrême-Asie, II, 1986, p. 17-80 参照.
2 山折哲雄稿「女神の誕生」,山折哲雄編『日本の神』第二巻「神の変容」(平凡社,一九九五年)p. 232 で,山折氏は「……ところが,すこしでも振り返ってみよう.これまで,わが国における観音の数奇をきわめる転変を女神誕生の物語として正面からとりあげる試みがはたしてあったであろうか.むろんそれが皆無であったとはいえないかもしれない.しかし女神=観音というとらえ方が,宗教史研究や思想史研究の分野で市民權をえたとはとてもいえないのが現状ではないだろうか」と書いておられる.
3 岩本裕著『仏教説話の伝承と信仰』(「仏教説話研究」第三巻),開明書院,一九七八年 p. 168-172; p. 330 参照.
4 井上一稔著『如意輪観音像・馬頭観音像』(「日本の美術」No. 312,至文堂,一九九二年五月)p. 19a, p. 23a-26b; 松本栄一著『敦煌画の研究』図像篇(東方文化学院東京研究所,一九三七年刊)本文 p. 711-720 参照.——大正蔵第二十巻に収められた如意輪関係の文献は以下の通りである.T. XX 1080 『如意輪陀羅尼経』(菩提流志訳・一巻); T. 1081 『仏説観自在菩薩如意心陀羅尼呪経』(義浄訳・一巻); T. 1082 『観世音菩薩秘密蔵如意輪陀羅尼神呪経』(実叉難陀訳・一巻); T. 1083 『観世音菩薩如意摩尼陀羅尼経』(宝思惟訳・一巻); T[tt]. 1084 『観世音菩薩如意摩尼輪陀羅尼念誦法』(宝思惟訳・一巻); T. 1085 『観自在菩薩如意輪念誦儀軌』(不空訳・一巻); T. 1086 『観自在菩薩如意輪瑜伽』(不空訳・一巻); T. 1087 『観自在如意輪菩薩瑜伽法要』(金剛智訳・一巻); T. 1088 『如意輪菩薩観門義注秘訣』(失訳・一巻); T. 1089 『都表如意摩尼転輪聖王次第念誦秘密最要略法』(解脱師子訳・一巻); T. 1090 『仏説如意輪蓮華心如来修行観門儀』(慈賢訳・一巻); T. 1091 『七星如意輪秘密要経』(不空訳・一巻).
5 『白宝抄』TZ. X 3191 847c11-26 (「如意輪観音法雑集」上)参照.
6 井上一稔著,同上書 p. 29(「菩薩の化身」という表現は,同書 fig. 3 のキャプションから).
7 松本栄一著,『敦煌画の研究』附図183b.
8 井上一稔著,同上書 p. 30a-b, p. 31b-32b, fig. 36 (p. 31) 参照.安祥寺の如意輪観音像については,八六七年の『安祥寺縁起資財帳』を引く.また神呪寺の像に関しては,『帝王編年記』では,如意尼ではなく淳和帝の皇后・正子内親王の話になっているという.——なお,この正子内親王は,先の観心寺の像の発願者・橘嘉智子の娘である.
9 井上一稔著,同上書 p. 35b-36a; 阿部泰郎稿「宝珠と王権 ——中世王権と密教儀礼」,岩波講座「東洋思想」第十六巻,『日本思想』2,岩波書店,一九八九年所収 p. 123-124 参照.——『渓嵐拾葉集』Tttt. LXXVI 2410 iv 511c6-9.
10 井上一稔著,同上書 p. 43b (『御記』のリファレンスは Tttt. LXXVIII 2493 616a26)および p. 30 参照.
11 井上一稔著,同上書 p. 43b.
12 慈円著『法華別帖』,続天台宗全書,密教三,経典註釈類二(春秋社,一九九〇年)p. 284a5-6.
13 井上一稔著,同上書 p. 44b および fig. 60-63.
14 松野純孝著『親鸞』(「日本人の行動と思想」二,評論社,一九七四年)p. 70. 田中貴子著『外法と愛法の中世』(砂子屋書房,一九九三年)p. 75-76 も参照.
15 『覚禅鈔』TZ. IV 3022 xlix 866b11-15. 松野純孝,前掲書 p. 83 の読み下しによる.田中貴子,前掲書 p. 77-78 も参照.
16 『阿娑縛抄』TZ. IX 3190 xcii 196a9-11 参照.現在の像については,上注 13 参照.
17 松野純孝,前掲書 p. 83;『図像抄』TZ. III 3006 vi 28a28-29 参照.同じ文は『阿娑縛抄』TZ. IX 3190 xcii 195c29-196a1 および『覚禅鈔』の裏書 TZ. IV 3022 xlix 881a28-b2 にも見える.『阿娑縛抄』は『観自在菩薩如意摩尼転輪聖王経』という経典を引き,『覚禅鈔』は『金輪呪王経』という経典を引く.これは後述の『観自在菩薩如意摩尼転輪聖王金輪呪王経』に当たるだろう.
18 松野純孝,前掲書 p. 71 and sq. 参照.
19 田中貴子,前掲書 p. 78.
20 『覚禅鈔』TZ. IV 3022 xlix 866b5-9.
21 十八の典拠のうち,終りに挙げられた『如意輪王摩尼跋陀別行法印』,『如意輪菩薩真言注義』,『如意輪要略法』(一印),『如意輪陀羅尼注』,『梵字如意輪真言』,『梵字如意輪讚』の六つは基本的典拠とは言えないだろう.
22 『覚禅鈔』TZ. IV 3022 xlviii 855a23-b24; xlix 864c5-865a4.
23 これらのうち,[3]『観自在菩薩如意輪瑜伽秘密念誦儀軌』と[4]『聖如意輪観世音菩薩修行儀軌』については「已上二本内文大略同.初書,若智証録書歟.可尋」と書かれている.
24 井上一稔著,同上書 p. 19b.
25 『白宝抄』(一二六八〜一二七八年頃?)TZ. X 3191 846b27-c25 (如意輪観音法雑集); 『白宝口抄』(一三四一年以前) TZ. VI 3119 lxii 671c4-672a25.
26 興然『五十巻鈔』,「真言宗全書」XXX 130a9-11 参照.興然は小野流の学匠.興然,および興然と覚禅の関係については,真言宗全書「解題」p. 228b; p. 317b-318b 参照.
27 以下,『覚禅鈔』TZ. IV 3022 xlviii 864b2-11; xlix 865c6-11, 866a7-12, a29-c26 による.
28 『仏説観自在菩薩如意心陀羅尼呪経』T. 1081 197a11-12.
29 山本ひろ子著『変成譜——中世神仏習合の世界』(春秋社,一九九三年)p. 354-358 に「天狐・地狐・人狐」の三狐神の信仰について述べられている.これは日本の荼吉尼〜稲荷信仰と密接に関連しており,三狐神という名称自体が「御饌津神」になぞらえて「三狐神」と訓ぜられたと考えられるという.三狐神については,台密の修法書『行林抄』(静然著,一一五四年成立)や『覚禅鈔』に記述がある.また,玉置山には三狐神が祀られていた.さらに,同じ玉置山の『玉置山権現縁起』には,「天狐王」の図像が記されている.それは,正面は観音,右は天狐面,左は地狐面の三面六臂像で六本の足は鳥足だった(この「鳥足」は天狗のイメージとかかわっているだろう).しかも,この本尊の本地は,聖天または荼吉尼天であるという.これは,明らかに三面の摩多羅神(あるいは東寺・中門の夜叉神)を想起させるものである.
30 慈円著『毘逝別』上,続天台宗全書,密教三,経典註釈類二(春秋社,一九九〇年)p. 231b14-16. 井上一稔著,同上書 p. 44b-45b も参照.
31 慈円著『法華別帖』,続天台宗全書,密教三,経典註釈類二(春秋社,一九九〇年)p. 287a3-11.
32 インド以来の仏教の伝統では,「玉女」は転輪聖王の「七宝」の一つに数えられていた.王妃にあたる女性は,一字金輪仏頂曼荼羅にも「女宝」として現われている.その意味では,「玉女」が王権にかかわることは自然であるとも言える.日本における「玉女」に関しては,田中貴子著『外法と愛法の中世』p. 82-94 がとくに重要である.——しかし,こうした中世日本の玉女のイメージには,(おそらく陰陽道などの回路を介して?)中国の道教的な観念が混入しているのではないかと思われる.この点について,そしてより広く中世日本の密教的な神話世界の形成に道教的な観念がおよぼした影響についての考察は,今後の研究のもっとも緊急かつ実り多い課題ではないかと考える.
33 『渓嵐拾葉集』Tttt. LXXVI 2410 vi 520c20-521a6.
34 曇景訳『仏説未曽有因縁経』T. XVII 754 i 576c21-580c11 に語られる長い野干本生譚に,主人公の野干(ジャッカル.中国・日本では一般に「狐」と解釈される)が,前世に阿逸多という名のクシャトリヤ種に生まれ,王とされた物語が語られている.おそらくこの物語が想起されていると考えられる.
35 『渓嵐拾葉集』の「百王元神」という用語は,道教的な響きがあるように思われる.こうした用語はまた,中世の仏教‐神道的な思潮の中に継承されていくものであろう.
36 『渓嵐拾葉集』Tttt. LXXVI 2410 xxxix 633b25-27.
37 阿部泰郎稿「宝珠と王権」 p. 152-153; 井上一稔,前掲書 p. 52b-53b も参照.——文観著『秘密源底秘決』は高野山の金剛三昧院,京都大学,その他に蔵されている.次に引く石山寺蔵『謀書目録』については,『大日本史料』第六編之二十一,延文二年十月九日条,文観弘真関係の史料を参照.以上,阿部,同上稿 p. 167-168, n. 91, 96, 97 による.
38 広沢流の「三天合行法」については,桜井好朗著『祭儀と注釈——中世における古代神話』(吉川弘文館、一九九三年)p. 229 および n. 48 参照。
39「人黄」については,『大日経疏』Ttt. XXXIX 1796 x 687b18-c11;『覚禅鈔』TZ. V 3022 lxxxi 252a15-253a1; 『総持抄』Tttt. LXXVII 2412 v 76a3-21; 山本ひろ子,『変成譜』p. 314-317; 阿部泰郎,同上論文 p. 131-132, p. 146 (「如法愛染法」の本尊は,舎利=宝珠=人黄であると考えられたという); 田中貴子『外法と愛法の中世』p. 244-250 も参照.

いやなが のぶみ  東京大学文学部非常勤講師
2001.01.08