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「日仏商業今昔比較」

堀 歌子
1998年3月5日報告分

 筆宝先生からのお勧めで、上記表題のもとにこれまで見聞したところをまとめ、報告を行なった。内容はおよそ以下の通りである。
  1.商業とは何か、何故発生したのか
  2.大規模小売業の発生
  3.近年の日仏両政府による小売業政策の推移
  4.おわりに

1.商業とは何か、何故発生したのか
 商業とは、分離してしまった生産と消費の間を再度結びつける作業である。これは、人間社会のみに見られる活動であり、他の動物の社会には存在しない。商業の発生は、政治にあると考えられる。政治の存在理由とは、防衛、司法、行政による内部秩序維持ではないだろうか。人間を含む集団動物の社会にはかなりの類似点が見られる。一つは集団指導者と彼を補佐する集団員の存在である。これを、政治と見ることができよう。政治は人間社会のみならず猿山の猿、渡り鳥の群れにもみられるところである。しかし、人間社会は、政治に携わる人々を中心に首都という大集団を形成した。都市はその面積からみても、住む人々の消費需要に応える生産を不可能にした。ここに生産と消費の地理的乖離が生じた。初期には生産者が消費財を運び、市に於ける販売という方法で需要と供給が行われたが、都市が巨大化するにつれて、生産者が自ら輸送、販売を行うことが困難になり、これを代行する商業者が発生したものと考えられる。
 商業専門者とくに定所商業は、中国においては、すでに隋の時代に存在したもののようである。フランスについての文献は、12世紀のシャンパーニュの市に関するものは多いが、6、7世紀頃についての記述が見つからず残念である。いずれにしろ、定所商業の発生はかなり後代になる。

2.大規模小売業の発生
 上記の状況下、大規模小売業の発生は、我が国においては延宝元年(1673)、フランスではブシコによるボン・マルシェが大規模小売業を開始するのは1877年を待たねばならない。越後屋は、その「現銀掛け値なし」商法によって顧客層を伸ばし、ボン・マルシェも同様の販売価格平準化によって1852年の開業〔100m2〕から25年後の1877年には40,000m2の大規模店舗を経営するに至った。またフランスでは1959年にはモノ・プリ、プリ・ジュニックなどの商号を付したチェーン・ストア方式の大規模小売企業が発生する。

3.近年の日仏両政府による小売業政策の推移
 上記の状況下、日本においては、大正末期には百貨店の活動規制に関する法案審議が開始され、昭和12年(1937)に至り、「百貨店法」が施行される。フランスにおいては百貨店法の1年前の1936年にチェーン・ストア規制法が制定されている。しかしいずれの法も、その後間もなくの第二次世界大戦勃発により消滅する。
 第二次世界大戦終結後、フランスではカルフール、ルクレールを始めとするアメリカ型セルフ・サービス方式のスーパーマーケット乃至はハイパーマーケットが軒を連ね、我が国においても昭和28年に紀ノ国屋がこの商法を導入した。その後この経営方式は我が国においても、フランスにおいても、燎原の火のように全国に広がった。
 かかる状況下、消費者利益、中小商業者存続を案じた両国政府は、あたかも申し合わせたかのように、我が国では昭和48年10月(1973年)所謂『大店法』が、フランスでは1973年12月『商業・手工業基本法(通称ロワイエ法)』という相似する法律が施行された。

4.おわりに
 商業の在り方について両国が取り続けてきた政策に相似点が見られることに興味をもった。それはともかく、人類の発生はおよそ260万年との説があるが、その中の過去わずか2000年ほどの間の変化、とくに、商業の在り方について、日仏両国の過去百年の推移を見ると、目まぐるしい変化を遂げ続けていることに驚く。人類社会に特有のものとして、商業のみを取り上げても、今後どのような変遷を辿るのか。次の世代にはどのようになっているのか。「人間この不思議なるもの」という先人の言葉をしみじみ思うものではある。

(文責・堀 歌子)


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