私がいる不思議。これも宇宙の想像を絶する働きの顕現なり。

今、ここに、この私がいる不思議。
これも宇宙の想像を絶する絶妙な働き(生命、意識、無意識など)の顕現であり、畏敬を抱く。


今、ここに、この私がいる不思議。眼前をこの世界が過ぎ去っていく。万人が自分を私と思っている世界の中で。そして、私は確かに私ですが、実は悠久の宇宙の生命、意識、無意識の顕現であり、その絶妙な働き、能力に対し、畏敬の念を禁じ得ない。

今、ここに、この私がいる不思議。眼前をこの世界が過ぎ去っていく。そして、私は確かに私ですが、実は悠久の宇宙の生命、意識、無意識の顕現であります。

今、ここに「この私」の生命、意識がいる不思議。この私をたまたま存在せしめた、悠久のこの宇宙の生命、意識、無意識、絶妙な働きに対し、畏敬の念を禁じ得ない。(森 久紘 記)

私と皆さんと宇宙
 人生は短い。悠久のこの宇宙を思うとこの「私」の人生も一刹那にすぎない。そして今、目の前をこの現実が時々刻々過ぎ去っていく。一秒前はもうない。さらに皆さんも各々に見えている世界、経験している世界がそれぞれ違う。このように思うと私も皆さんも無限の深みをもった一秒一秒を生きていると察せられる。大概、今、ここに、[この私]がいる不思議、この私を存在せしめた、悠久のこの宇宙の生命、意識、無意識、絶妙な働きに対し、畏敬の念、胸の高鳴りを禁じ得ないのである。

自分の一挙手一投足が宇宙の一挙手一投足
我々は自分の意志にかかわらず生まれ、悠久の宇宙の今ここに存在する。連綿と続く宇宙の大生命・意志によって存在し、自分だけでなく、万物は個別性をもっていながらすべて物理的にも意識的にも繋がっている。つまり、自分の一挙手一投足が万物に影響するといえる。我々の日々の一挙手一投足には悠久の重みがかかっているともいえる。

「私」と意識
「私」がこの私という意識を持っていますが、この私の苦しみ、痛み、痒み、呼吸、空腹などは私だけのものであり、だれもこれを代わってくれません。これは私が存在する証拠でもあります。胸に手を当てると鼓動を感じます。私の意志とは関係なく、何か大きな、自然の力にまかせきって動いています。身体だけでなく、意識や意志も私の考えや意志力を超えた、大きな力によって生かされているのです。私は確かに私ですが、実は宇宙の意識、生命だったのです。

自分はここにいる。目を通して外界が見える。あなたもあなたの目を通して外界が見える。それぞれの世界は違う。この自分の世界は今見えている眼前のこれしかない。悠久のこの宇宙のこの一点に、今確かにこの自分がいる不思議。 地球の歴史、そして生物の進化を経てこの自分がいる。自分の身体、そして、知情意の複雑な意識を持った人間として存在している。自分はこの自分だと自覚している存在。この自分を存在させている、この宇宙の大生命の活動、意識、無意識のあらわれが、現実のこの一瞬一瞬であり、この自分の眼前を時々刻々過ぎ去っていく。一秒前はもうない。そしてこの自分の死は一歩一歩と忍び寄る。その絶妙なからくりの不可思議に対し畏敬の念、胸の高鳴りを禁じ得ない。(森 久紘 記)

私はここにいる。目を通して外界が見える。あなたもあなたの目を通して外界が見える。それぞれの世界は違う。この私の世界は今見えている眼前のこれしかない。この宇宙の働きの顕現が現実のこの一瞬一瞬であり、この私の眼前を時々刻々過ぎ去っていく。一秒前はもうない。そしてこの私の死は一歩一歩と忍び寄る。悠久のこの宇宙のこの一点に、今確かにこの私がいる不思議。
宇宙(自然)の中に、私も含まれている。あなたも動物も植物も物質も意識も無意識も自然の一部である。自然の一部である私が私という意識を持ち、自然と対峙しているように、私の目から外界が見えている。あなたも自分を私と意識していて、あなたの外界を見ている。しかし私もあなたも大自然の内である。すべて自然の一部である。自然が巧妙にすべてを形作っている。すべては自然の坩堝(るつぼ)の内である。自然(宇宙)の想像を絶する絶妙な働きの顕現である。そして自然(宇宙)に対して畏敬の念を禁じ得ない。そのように感じさせられる。

◎私は宇宙(大自然)によってつくられた。人々もすべて大自然の産物である。人間の能力も大自然がもっている能力である。我々の想像を絶する能力がある。人間の能力など超越した存在でなければ私や能力をつくり出すことはできない。我々の能力では、大自然の全貌はまったくわからない。我々の想像や能力では、何が何だかわからない超越した存在である。

◯森 政弘は「親子のための仏教入門 我慢が楽しくなる技術(幻冬舎新書)2011.1.30」のなかで、「宇宙のはたらき」について、次のように述べている。
「(p29宇宙のはたらき)目には見えませんが、わたしたち人間をもふくめて、この天地のすべてを作り、またそれを動かしている「宇宙のはたらき」というものがあります。たとえば、わたしたちは、その「はたらき」によって作られて今ここにいるのです。」といい、さらに「(p30):仏教が本当に分かるには、まず、この「宇宙のはたらき」というものを感じ取らなければなりません。これは「大自然の力」といっても同じことです。・・・(省略)・・・この「宇宙のはたらき」によって、すべてのものは作り出され、それらが関係し合って動いているのです(すべてのものに仏性がある)」ともいっている。そして具体的な例として、(p32)良寛の詩(森 政弘訳)を挙げている。

「花が咲くとき ちょうが来る奥深さ」
花は無心(むしん)に蝶(ちょう)を招(まね)き
蝶は無心に花を尋(たず)ねる
花開く時蝶来(きた)り
蝶来る時花開く
吾(わ)れまた人を知らず
人また吾れを知らず
知らずして帝則(ていそく)に従う

(p33)・・・・・・大切な二点
第一は、花とちょうの関係です。花もちょうも「宇宙のはたらき」によって作られてきた生きものですが、一方は植物、もう一方は動物で、大きくちがっています。それなのに大地の上に現れてくる時は同じです。その仕組みはどうなっているのでしょうか。いや、時を同じくして現れてくるだけでなく、たがいに呼び合い、助け合っていますね。花は美しい花びらと、いい香りと、あまい密を用意してちょうを呼び、ちょうは密を吸い花の花粉を運ぶ。という呼び合い助け合いになっていますね。ここが「宇宙のはたらき」のすぐれたところです。
(p34)第二・・・・・「帝則(宇宙のはたらき)に従う」
知らず知らずのうちに法則どおりになっている、気がついてはいないが、法則から少しも外れてはいないという意味です

*帝則とは「宇宙のはたらき」のこと

そして「(p144):「宇宙のはたらき」は、今日の物理学ではエネルギーということになっています。・・・(省略)・・・この宇宙はエネルギーで満ちているというわけです。
(このエネルギー)現象界に現れたものごとは、じつに千差万別で変化してとどまることがありません。
しかし、その根本であるエネルギー(宇宙のエネルギーの総体??)は、ただ一色(ひといろ)で、その中に差別はなく完全平等で、自他の区別もなく、大きいとか小さいとか、生じるとか消えるとか、好きだとか嫌いだとか−−こういうことを相対的な概念と言います−−そういう相対的なことを超越した永遠なものなのです」と述べ、また「 (p145):この世の本当の姿を知れば、自分もふくめてすべてのものに仏性(ぶつしょう)があることがハッキリと分かります。自分とはただこの体だと思い込んでいたが、大宇宙へと広がります。自分と大宇宙とは一体だという気がしてきます。すくなくとも自分の中に宇宙の大生命、真理が宿っていることに気づきますので、大きな、ゆるがない自信がわきます」といっている。


次に、 五木寛之は「人間の覚悟、新潮新書、2008.11.20」のなかで「(p97):人は生まれ、無意識から意識の世界へ大きく成長していき、意識の世界から無意識のふるさとへふたたび回帰していく。意識はへっていくけれども、無意識はふえていくのだと私は考えています。
・・・・・(p145)そのふるさとは大宇宙かもしれませんが、そこでの論理は、普通の世界とは違う次元のものなのです」といっている。

○私の苦しみ、痛み、痒み、呼吸、排尿、排便、空腹、渇き、私だけのもの。だれも代わってくれない。私が存在する証拠。なぜ私だけのもの。これらもこの宇宙の大生命の活動、意識、無意識のあらわれ、死ぬとすべてなくなる。悠久の宇宙のこの時間の今、永遠の空間のここにこの自分がいる不可思議。
○今、ここに、この自分がいる不可思議。眼前をこの現実が時々刻々過ぎ去っていく。一秒前はもうない。そして死は一歩一歩と忍び寄る。お鉢は必ず回ってくる。
◎苦しみ・死について。何も苦しまずに死ねたら、幸せかも知れないが、生への執着は強いだろう。死に臨んで、病などで苦しい場合、生への執着より、むしろ死にたいと思うだろう。
◎神は善人を不幸にし、悪人を幸福にすることもある。不平等な運命を我々に授ける。
◎この不平等をどう考えるか。
我々は悲劇・喜劇を鑑賞し感慨にひたる。神は我々の生き様を演劇のように鑑賞し泣き笑い感激にひたっているかも知れない。善人が不幸になる方が悲劇性は強いし、悪人が幸福になる方が喜劇性があっておもしろいのかも知れない。
◯絶対はすべての存在を越えた存在、その存在を越えた存在、存在を越えた存在。
◯「大海に潜む寿命無量の盲の亀が百年に一度その頭をだす、また唯一の孔ある浮木が海中に漂うて風のままに東し西する、人間に生まれることは、この盲の亀が頭を上げたとき、たまたまこの木の孔に遇うようなものである」雑阿含経(巻第15)
この「盲亀浮木の譬え」は、しかし、例外的な「できごと」をたとえて言われたのではない。むしろ逆に典型的な「できごと」のたとえと見るべきである。すなわち、宇宙(世界)に生じることはすべて「盲亀浮木の譬え」のようにほとんどありえない、限りなく不可能に近い「できごと」であり、宇宙はこのような「できごと」に充ち満ちている。一粒の砂がそこにあり、一枚の木の葉がここにある。あなたがそこにそうして、私がいまここにこうして存在することも、あなたと私が出遇ったことも、そしてそもそもこの宇宙がこうして存在することもそのような「できごと」である。偶然性(可能性減少の極限)の典型的な例はどこにあるのでもない、またいつ出遇われるというのでもない、まさにいまここ、脚下にあると言わなければならない。だからわれわれはだれでも、またいつでもどこでも偶然性に出遇っている。この宇宙、「私」の存在自体が偶然性の典型的な例である。「脚下照顧」あるいは「廻向返照」という禅語は、そのことに気づくことの稀なわれわれに向けて言われた言葉であると受けとめることもできよう。「大海」とはこの宇宙のこと、もっと正確に言えば、無限数の可能的宇宙のことだったのであり、「盲亀と浮木の出遇い(の結果)」とはこの宇宙と私の「存在」を意味していたのである。(九鬼周造の哲学 小浜善信)
◯自分をも含めた宇宙の構造は、人間のあらゆる考えや、イメージで描いているようなものでないところの、なにがなんだかわからないもの、ただ、たしかなのは夢かうつつか、今ここに自分がいることである。
◯デカルトが神は中心から円周へ引いた直線がすべて等しいということが真でないようにもする自由をもっていると考えたのは意味の深いことである、いわゆる知的直観の前には論理的制限を脱した可能性が成立するかも知れぬ、実数の立場にある限りは、自乗して−1となる数は無意味な不可能のものである、「可能的存在に対する無」である、しかし複素数の立場に立てば√−1は積極的な意味をもった「有」である。
◯偶然性と宗教との関係について考えて見るのに、・・・・・(3ページ省略)宗教の本質は畢竟、不可知に対する帰依である。そうして運命、即ち偶然に対する驚異、不思議のえにしに対する驚異がやがて不可知に対する絶対的帰依の形を取るのである。偶然性の存在する限りに於いて、宗教は其の存在の哲学的理由を有つている。しかしながら此の哲学的理由は同時にまた宗教が一切の概念的思弁を断念して単に不可知に対する帰依の形で存在すべきことを要求するのである。[哲学は単に合理的認識に立脚して認識の限界を限界として示せばよいのである。](九鬼週造著、偶然性(講演)、1929.10.27、全集第二巻、p343)
◯死は一歩一歩と忍び寄る。お鉢は必ず回ってくる。
◯人生の結末は悲劇である悪人にも善人にも等しく死はやってくる。神は善人にも悪人にも平等である。
◯人生の結末は死である必ず殺される死ぬのは自殺者のみである。
◯我々は生まれた時から死刑を宣告されている。何時、死ぬか分からないだけである。
◯無限の空間と永遠の時間との真只中の一刹那を生きている我そして汝。
◯死んでいて当り前、生きているのは不思議であり偶然である。
◯生のもつ重みは相対的であるが、死の迫ってくる重みは絶対的である。
◯何のために生きているのか、ただひたすらに、死ぬまで生きるために生きている
◯何のために生きているのか、ただひたすらに、死ぬために生きている。死を迎えて生きている。
◯私の存在理由・・・・現に今、ここに「この私」がいることである。
◯悠久の宇宙と今ここにいる「この自分」の眼前をこの現実が刻々過ぎ去ってゆく。1秒前はもうない。


◎森 政弘の著書「心眼」に仏教でいう「空」、宇宙の大生命の説明が宇宙進化の科学的なそして生物の進化とでもいう側面から述べられている。
「君やぼくが、今ここにいるという原因は、もっと正確に言えば、一億年昔の先祖のせい、数億年過去のアメーバのせいというに止まらない。アメーバにも先祖はあるのだ。さらにその先祖をたどってゆくと、普通には生命がないと思われている、炭素とか水素とかナトリウムとかいう物質の原子に到達し、さらに進むと陽子、電子、中性子、中間子という絶対に目では見えない素粒子に行き着いてしまう。(P13)」と云っている。
さらに「このように話をつきつめていくと、こういうことを感じないではいられなくなる。
 1.素粒子、原子、分子、無機物、有機物、高分子(大きな分子)、単細胞生物、多細胞生物、人間、社会、世界、宇宙を形づくり、動かしている根本の力が巌然と実在する。仏教ではこの力のことを空と言っている。
 2.その力は永遠の過去から作用し続けており、われわれがここに存在し、生きているのも、その力の作用によってである。
 3.いわゆる生物だけに生命があるのではない。(本当に深く生物の研究をされた科学者にうかがってみると、生物と無生物の境目は画然としていないということだ)無機物にも、水素、ナトリウムにも生命がある。つまり、動物植物はもちろん鉱物をも含めて、あらゆるものが生命を持っている。」
と云っている。
 次に同じく、森政弘は
「「非まじめ」思考法」の中で、物質が結合したり、システム化されるとそれまでにない機能が出現するという。「出発から考えれば、素粒子であるが、それが集まって次のものになったときに新しい機能が出、新しいものが発生する。その基本にある原理は二つ以上のものが合体すると、いままでになかった新しい作用が現出するということだ。(例えば、水は酸素と水素が化合してできるが、それは酸素でも水素でもない第三の物質である(不連続)。しかし水には酸素と水素が潜在的に存在するから、それは酸素であり水素でもある(連続)。)(P102)」
ということである。

 「森 政弘著、超常識  ダイヤモンド社」の中では
「生命は物性の一つ、ということについて考えてみよう。生命というものを物質と対立させる見方は多い。だが私は、その精神作用をも含めて生命とは物質をエレメントとする巨大システムによって発現された特殊な形態であるという観点を持っている。物質にそなわっている性質にはいろいろなものがある。結晶作用、慣性、万有引力などはその例である。これらは同種の原子が少数存在するだけで発現する性質である。異種の原子が多数有機的に結合すると、高分子、・・・・プラスチックはその例であるが・・・・・という大きな分子になり、結合前には見られなかった諸性質が現われる。それがさらに多種多数システマティックに結合すると、生命が現われる。システムというものは、エレメントがある程度以上の複雑さで系統だった結合をすると、それまでには見られなかった異質の性質、新しい機能を発現するものである。生命は物質システムが発現している性質の一つである。(p206)」
と云っており、物質を要素として、複雑に結合し巨大システムとなって生命が発現した。したがってその元である物質にも生命があるというのである。

◎ロボット工学の先駆者であり、仏教に造詣が深い森政弘はその著「全機のすすめ」の中で、
「無意識の世界は、底なしの湖のように深く大きい。(P91)」
といい、
「意識のうえでは思いたくない不愉快な事柄が、次から次へと意識のうえに思わず上がってくる。これなど、無意識世界によって意識世界がコントロールされている証拠といってよい。(p92)」
と述べている。そして
「われわれの心の奥底には無意識の世界がある。われわれは自分の意志で行動しているが、その意志は無意識世界によって完全にコントロールされている。(p119)」
とも云っている。宇宙の絶大な働きによって、われわれが生きている、動かされている証拠でもある。

◎森政弘は「森政弘の仏教入門」のなかで次のように述べている。
「ぼくたち一人びとりの人間は、自分の意志で、自分の力で、考え、行動し、生きているのだと思いこんでいる。けれども、それを仏さまの眼をとおしてみると、すべての存在が、大きな大自然の意志、宇宙の生命の働きによって、議論をしたり、悲しんだり、喜んだり、泣いたり、笑ったりしているともいえるのだ。・・・・ ぼくは、これが「生かされている」ということだと考えるのだ。(P232)」
と述べている。

矛盾原理はお気の毒(森 久紘記)
◯物事には善悪両面があるように思われていますが、ロボット工学の先駆者として有名な、森政弘氏によりますとむしろ、元来、物事は善でも悪でもない無記という存在であって、人間にとって都合の良いものは善、都合の悪いものは悪になるだけであるという意味のことをいっています。「客体に善悪の二面があるのではなく、無記の一面しかない。それを善にもし、悪にもするのは主体である人間しだいだ」ということであり、たとえば路上に落ちている「石」は人に向けて投げつければ凶器であり悪になりますが、木の実の殻を割るのに使えば有用な道具つまり善となります。
◯人との出会いを大切にしなさいとか、友達を大学時代にたくさん作りましょうとか薦めるわけですが、この出会いというものが、また難しい。この出会いにも良縁と、悪縁がある。 出会いを大切にとかいって、これが悪縁だと、不幸の種になったり、学校に来なくなったりいたします。すべての出会いが良縁であれば幸せがやってきましてよいのですが、そうはうまくいかない。悪縁であった場合にどうすればよいか。これが難儀なのですがどうしょうもない。消極的解決法は、悪縁をさけて遠ざける。逃げる。積極的考え方としては、自分に与えられた試練として、自分を成長させてくれる体験だと考えて、受け入れる。ということになろうかと思います。 この悪縁、相手が人間の場合は、避けることも出来うる訳ですが、避けがたい縁がやってきます。
病、老、死、転変地変などでありますが、これはどうすればよいか。
確かに病原菌やウイルスによってむしばまれている当人はつらいであろう。
人生、死や病気に対する不安や心配が最後まであるだろう。毎日が楽しく天真爛漫に生きられたら良いなーと思う。しかし考えてみると毎日が楽しく、幸せいっぱいなら、死ぬのはとってもいやで、絶対に避けたいと思うかもしれない。だが不安や心配あるいは苦しい人生なら、生きることにそれほど執着しないかもしれない。
また、人生の結末は死であります。死は自己の生の徹底的な否定でありますが、宇宙の生命への回帰とみることはできないであろうか。あるいは現世からの徹底的な否定でありますが、現世からの解放・自由ともみてもよいのではないでしょうか。

        善         無記           悪

    木の実の殻を割る    石    人に投げつける
指が器用になる 箸 使うのが難しい
頭を使う         そろばん     練習がいる
間違いなく逢える     時計       不自由
幸せにしてくれる     良縁     有頂天になる・調子に乗る
自分を成長させてくれる  悪縁       不幸になる
成長し育つ        生まれる     死への宣告
畏敬(畏れ)(おそれ)  死ぬ      恐怖(恐れ)(おそれ)
宇宙の生命への回帰 自己の生の徹底的否定
現世からの解放・自由           現世からの徹底的否定
この表は森政弘のものを参考に森久紘が記述したものである。

◎「矛盾を活かす超発想」(講談社)の著者、森政弘はそのなかで、
「動物の排泄物は植物の食糧であり、植物の排泄物は動物のための酸素となっている。(p214)」
と述べ、「「自然は全きもの」-------台風は家を吹き飛ばし、洪水は人をのむ。猛獣は人間を襲い、病原菌やウィルスは人体をむしばむ。はたして自然は全きものか?草木は美しいが、ウンコは醜い。花は美香を放つが、腐敗物の臭気は鼻を突く。これでも自然は美しいか?(P217)」
と疑問を発し、このことについて
「それは下の次元からながめているからである。人間のレベルで、人間中心に見ているからである。われわれには近寄ることもいやなくらい臭いウンコに、ハエがたかるが、それはおそらくハエにとってはよい香りであり、おいしいごちそうなのであろう。」
といっている。

◎物事には善悪両面があるように思われていますが、ロボット工学の先駆者として有名な、森政弘氏によりますとむしろ、元来、物事は善でも悪でもない無記という存在であって、人間にとって都合の良いものは善、都合の悪いものは悪になるだけであるという意味のことをいっている。そして「矛盾を活かす超発想」(講談社)のなかで、
「悪は善に転じることが出来る。これが救済の道である。善は悪に転じる可能性がある。これが堕落の道である。」
といい転じれば
「悪性の強いものほど善性は強く・善性が強いものほど悪性が強い(P148)」。
悪を善に転じるには、
「善転の要点は「制御」を得ること。(p155)」
であると云う。
次に少し観点のことなるとらえ方で、例えばオートマチック車で走るためには、走るための機能さえあればよいように考えがちであるが、そうであろうか。すなわち、この場合
[走るためには、走るためのアクセルさえあればよいのか?]
  「走るためには−−−−−アクセルペダル
   止めるためには−−−−−ブレーキペダル」
であるから、もし「ブレーキをはずして車を走らせてみる・・・・危険きわまりない。」
ことになる。
安全に
「走るには、アクセルとブレーキとの両方が必要だ。(p124)」
ということになる。

つまり、下記のようになる。
   「    |−アクセル
    走る−−|
        |−ブレーキ     」

これを「スッキリした形にすると

(上の次元)←合一←(下の次元)
        |−走
    [走]−−|
        |−止

[走]は走と(その反対の)止とを含む。
互いに正反対の走と止とが、同じ共通の目的[走]に対して協力し、それぞれの役割を全機させて、はじめて[走]ることができる。」
と述べている。

 さらに死ということについて、
「人間は一人残らず死ぬ。人間の煩悩から見れば切ないが、死が存在するということが、調和なのだ。全きことなのだ。・・・・・・脳死、植物人間、冷凍受精卵などなどの、生命に関わる難問題は・・・・・これらは生を肯定し,死を否定した二見のいきついたところであるが、・・・・・・生を尊重すると共に死を受容する姿勢がなければ解けないではないか。ここでまた例の図式を使おう。(p218)
                |−生
  [生]−−−|
|−死

この[生]の意味は深い。この[生]によって、われわれは生死を超えることができるのである。この[生]こそが、永遠に生き通しの命である。」
と記述している。この[生]は大自然のこの宇宙の永遠の生を意味しているのであろう。

◎森政弘は「千輪車」のなかでは
「「恐怖」は自我に対する執着から起きる・・・・死の恐怖にしても、自我を自覚し、その自我に執着するから死にたくないと思い、恐怖がおこる・・・・」(p266)
と述べている。そして(宇宙の仕組とか神秘とかいうことに畏敬がわいてくると)
「同じ恐ろしさでも畏敬の念が強くなり、恐怖の念がなくなる。畏敬の念がわくときには、大きな自然のからくりがわかってくるので、自分もその中の一つだと思うと安心できる。(かたくてやわらかい頭)(p146)」
と云っている。さらに
「恐怖心がなくなるといっても、おそれる心が消えるわけではない。・・・・恐怖心が畏敬に転じるのである(P201)」
といっている。同じおそれであっても恐れが畏れになるのである。

◎インド哲学、仏教哲学者であった中村 元は「原始仏教---その思想と生活---」(NHKブックス、昭和45年3月20日第1刷発行、昭和51年2月1日第18刷発行)のなかで、宇宙の原理、構造あるいは絶対認識というようなことについて
「われわれの認識能力は極めて限られたものであり、われわれが日常生活において、常識的に把捉し理解しているのは、真の実在の一側面にすぎない。あるいは真実の実相とはよほど異なったものであるかもしれない。われわれにはそれはわからない。絶対の実在は、われわれの認識能力を超えたものである。」
といい、
「われわれは、なぜかは知らないけれども、こうして生まれてきたわけですね。生まれてきて生きているということは、同時に、無数に多くの条件、制約に動かされて、目に見えない多くの力に動かされていることですね。(P217)」
とも云っている。目に見えない多くの力とは、宇宙全体の力であり、すべてはこの力によって動かされているのである。

◎以下、小浜善信著の「九鬼周造の哲学 漂白の魂」より、森久紘が気に入った部分を抜粋したものである。
抜粋であるので、原著者、小浜善信氏の意に反する解釈が成り立つ可能性のあることをお断りする。
ぜひ、原著を読まれることをお勧めする。
まず、すべての出来事は神による必然性により成り立っているという必然の哲学者であるスピノザについて記述された部分である。

「スピノザと九鬼」
「p28 人間が、動物が、生物がこの天体に発生したこと、さらに生物が発生しうる条件を具えたこの天体が存在することになるようなこの宇宙が開始したこと---このように、出来事・存在の原因を求めて遡っていくことができるだろう。スピノザ的にみれば、現に存在するもの、生起する事象のなかに偶然的なもの、不可思議なものは何一つなく、すべては「必然の相のもとに」(sub specie necessitatis)見られる。
 しかし、なぜはじめにこのような宇宙が開始しなければならなかったのか。別の宇宙でもありえたのに。現にいまこの宇宙がこうして存在するという、まさにその事実が問題化する。存在の不可思議さ。なぜこの宇宙は、この私は存在するのか。この宇宙は、この私は存在しないこともありえたのに。別の仕方で展開する宇宙、別の生涯をたどるような私でもありえたのではなかったか。西郷が土佐に生まれ、秀吉が別の時代に生を受けることも可能であったはずではないか。周造は天心の子でもありえたはずである。西洋留学もなかったかもしれず、外交官に、あるいはまた植物学者になっていたかもしれない。虫として、蛇として、桜の木として、あの浮雲として生まれることも可能だったはずである。人間が存在しない宇宙、四次元以上の次元をその構造とするような宇宙、あるいは人間が最下等な動物として存在するような宇宙・・・・・・。
 たしかに「神に酔える哲学者」と言われるスピノザの、いわゆる「神即自然(宇宙)」(Deus sive Natura〔Mundus〕)という思想もそのような問いに対する一つの解答でありうるだろう。「神は存在する、それゆえ自然は存在する」。「神は存在する、それゆえ私は存在する」。そのことに何の不思議もない。「太陽(神)」は存在する、それゆえに「光熱(宇宙、私)」は必然的に存在するし、また「光熱」としてしか存在しえない。「光熱」は存在するのにその始源である「太陽」が存在しないと考えるのは本末を転倒している。もしそのように考える者、つまり「無神論者」と自称する者があるとすれば、それは、スピノザからみれば、原因のない結果があるといったような戯言を言う、一種の狂気ということになろう。スピノザによれば、この宇宙が、この私が、いまここにこうして存在していることに何の不思議もない、なぜなら神は存在するのであるから、というのである。すべての存在・事象は、それ以外ではありえない仕方で、必然的に生起しているのである。これはそれなりに明快な解答であると言わなければならない。」
と記述されている。
 そして偶然の哲学者である九鬼周造の哲学について、次のように述べている。
「p214: B偶然宇宙論(遊戯宇宙論)
 たとえばサイコロが振られて偶然に或る目が出るように、無数の可能的宇宙という「目」をもった「サイコロ」が振られて偶然に出た「目」がこの宇宙であると考えられる。他の「目」が出る可能性も同等にあった。この「目」が出たのはまったく偶然である。「サイコロ」が振られないこともありえたであろう。もちろん、現にこの宇宙という「目」 は出ているのであるから、それは振られてしまっているのであるが、神は何のためにそれを振ったかといえば、それは「戯れ」にである。それ以外に意図・目的があったわけではない。

p221: 第2節 邂逅としての偶然
実存と偶然
 人間という実存は、ただ石のように「存在する」(esse)だけではない。ただ犬のように「生きている」(vivere)だけでもない。人間という実存は、存在し生きているが、ただそれだけではない。自らが存在し生きていることを「知っている」(intelligere)。「人間存在にあっては存在の仕方がみづからによって決定されると共に、その決定について自覚されているのである。人間存在は存在そのものを自覚的に支配している」とはそういうことである。しかし、人間が自覚的に自らのありかたを決定しうる個的存在者として、つまり実存として存在するにしても、それがこうして存在していること自体は偶然である。それは存在することも存在しないことも可能であった。その可能性のいずれかを選ぶということはわれわれには不可能であった。われわれは自らが存在すること自体を自ら決定しえたのではない。気づいたときにはもうすでに存在してしまっていたのである。この意味で人間という現実存在も偶然的存在である。人間という現実存在、すなわち実存もたまたまいまここにこうして存在する。「偶然が実存に偶然している」のである(XI、一二二〜二三)。われわれにできることは、あたかも自らが現実存在することを選んだかのごとくに引き返してそれを受け取り、その存在のありかたを決定してゆくことである。遊戯する神が無数の目をもったサイコロを戯れに振った。実存はこの世界に、この世界とともに、サイコロの目のごとくに投げ出されたのである。もちろん遊戯する神はそれを振らないこともありえた。しかし現にこの世界は、「私」は存在しているのであるから、それは振られたのである。なぜ、何のために神はそれを振ったかと言えば、それは戯れのためにである。戯れが真に戯れであるのは戯れ以外に目的がないときである。神は偶然に出た目を見て哄笑したか、それとも退屈したか、われわれは知らない。

偶然と邂逅
 「偶然」とは「たまたま(偶)しかある(然)」という意味である。ということは裏面に「そうでないこともありうる」という意味を含んでいる。「私」はたまたまいまここにこうして存在している。ということは「私」は存在しないこともありえたということである。九鬼はこのような「私」の存在の真相を仏典『雑阿含経』にある「盲亀浮木の譬え」を引いて説明する(U、二〇六:V、一四〇)。大海を何の当てもなく木片が漂う。その大海に住む寿命無量の盲目の亀が百年に一度海面に首をもたげる。木片にあいた穴に亀の首が入る。木片の漂流はもちろんのこと、亀の動きも、したがって亀の首が木片の穴に入ることも意図されたことではない。すべてがたまたまそうであった。そのようにして亀の首が木片の穴に入ったということ、これは限りなく不可能に近い「できごと」、文字どおり「有りがたいこと」であろう。しかもその可能性はゼロではない。極小とゼロとのあいだには超えがたい断絶がある。可能性が減少し不可能性に接近すればするほど偶然性は増大する。
 この「盲亀浮木の譬え」は、しかし、例外的な「できごと」をたとえて言われたのではない。むしろ逆に典型的な「できごと」のたとえと見るべきである。すなわち、宇宙(世界)に生じることはすべて「盲亀浮木の譬え」のようにほとんどありえない、限りなく不可能に近い「できごと」であり、宇宙はこのような「できごと」に充ち満ちている。一粒の砂がそこにあり、一枚の木の葉がここにある。あなたがそこにそうして、私がいまここにこうして存在することも、あなたと私が出遇ったことも、そしてそもそもこの宇宙がこうして存在することもそのような「できごと」である。偶然性(可能性減少の極限)の典型的な例はどこにあるのでもない、またいつ出遇われるというのでもない、まさにいまここ、脚下にあると言わなければならない。だからわれわれはだれでも、またいつでもどこでも偶然性に出遇っている。この宇宙、「私」の存在自体が偶然性の典型的な例である。「脚下照顧」あるいは「廻向返照」という禅語は、そのことに気づくことの稀なわれわれに向けて言われた言葉であると受けとめることもできよう。「大海」とはこの宇宙のこと、もっと正確に言えば、無限数の可能的宇宙のことだったのであり、「盲亀と浮木の出遇い(の結果)」とはこの宇宙と私の「存在」を意味していたのである。必然性(かならずしかあること)から限りなく遠い、ほとんど不可能に近い、その意味でほとんど無に直面し無の上に浮遊している「できごと」、それがこの宇宙の存在であり私の存在である。しかもなおそれは「無」ではない。それはいわば遠く背後に「存在そのもの(必然性)」を仰ぎ見ているのである。


(逆三角形の)底辺の実線、斜辺をなす二本の破線、頂点がその先端においてまさにそれに接しようとしている無(「不可能性」)を表す破線、これらはすべて無限延線であり、それゆえ閉じてはいない。つまりそれは無限に伸びゆく線によって形成される動的構造をもった無限逆三角形なのである。「必然性」を表す実線は、いわば完全に無の影を排除した存在そのもの、生命の充溢といったようなもので、ダイナミックな無限者または絶対者を示している。三線で囲まれた面(「可能性」)は頂点(「偶然性」「現実存在」)への衝動ないし胎動を内包する「可能性」であって、「必然性」自体が胎内に孕む衝動である。そして頂点は、無(「不可能性」)の破線に墜落する不安に絶えず脅かされている。・・・・・・
 さてそこで、九鬼は無限逆三角形を用いて何を言おうとしたのか、改めて見てみよう。可能性の増大にしたがって偶然性は減少し、可能性増大の極限は必然性(可能性全体)に至る。逆に可能性の減少にしたがって偶然性は増大し、可能性減少の極限は不可能性に至る。可能性は必然性(存在・有あるいは100%)と不可能性(非存在・無あるいは0%)との間に巨大な動的中間領域(可能的存在あるいは0%<P<100%)を形成する。先に見たように、逆三角形の底辺(実線であることに注意)で表示される「必然性」は、その当否は別として九鬼はそう解しているのであるが、西洋哲学史のなかで.「不動の動者」、「存在そのもの・生命そのもの」、「自己原因」などと呼ばれてきたもの、要するに「神」あるいは「絶対者」を意味している。ただし九鬼は意味転換を施してそれを「遊戯する神」と見ているのであるが。それは存在・生命の無限の可能性の充満、100%の可能性である。そしてその無限の可能性の中の一つの可能性の現れ、ほとんど不可能性(無)に接しようとする位置に、いわば雨水の一雫が虚無の大海へ墜落する危機を絶えず孕むかのように、脆く果敢なく孤在するのが偶然性(現実的存在)、つまりこの世界、この私の存在の現場である。無と無限のあいだに差しかけられて無に接しながら遠くかなたに存在そのものをいわば仰ぎ見ている存在、あるいはいわば蜘蛛の糸によって辛うじて存在そのものにつながれている存在、それが偶然したこの現実世界の存在と「私」という実存の現場である。・・・・・・・
偶然した世界と「私」という実存の在りようそのものが孕む深淵だったのである。偶然したこの世界の存在と「私」という実存は、ちょうど無数の目をもったサイコロがコロコロと転がって偶然した一つの目のようなものである。たまたまこの目が出たが、他の目が出ることもありえたのである。世界は、「私」は無限分の一の確率で偶然したのである。どこからともなくやってきて、どこにあるとも知れず、どこへともなく去ってゆく我と汝とが、ゆくりなく邂逅する−−−−「盲亀と浮木の出遇い」とはそういうことであった。しかし、そのような実存としての我と汝との、一期一会の邂逅であればこそ、いよいよ「遇無空過者」(遇うて空しく過ぐる者無し)、いや「遇勿空過者」(遇うて空しく過ぐる者勿れ)ということが言えるのではあるまいか。九鬼の実存論の根底にはそのような偶然-−−邂逅論がある。無限逆三角形によって九鬼が言いたいのは以上のようなことであろう。

p256:九鬼は、現実の人間とは別の仕方で存在するような人間、現実の宇宙とは異なった在り方での宇宙、現実の歴史とは別の仕方で展開するような歴史的世界も可能であったと考えている。「我々が視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚の悉くを完全に備えて存在している存在の仕方は多くの可能性の中の単に一つの可能性に過ぎない。共可能性を有つ他の多くの現実が可能である」。
 人間ないしは自己は現在五官を有しているが、それは可能的世界の中の一つにすぎない、それゆえまた、いま見ているとおりの感覚的性質をもって、かつても世界はあったし、これからもあるだろうと思うのは、自己も含めて世界を静的・固定的に見ることである。九鬼は「可能性」という様相の重要性を改めて強調し、それと他の三様相(必然性、偶然性、不可能性)との相即不離の関係を示しながら同時にその独自の領域を明示する。可能性を背景にしてこの世界を見るということは、この世界を動的に見るということである。おそらく、トンボや蜂に見える世界像と、われわれ人間に現象しているそれとはかなり異なったものであろう。だからといってトンボや蜂に見えている世界は客観的なものではなく不完全なものであるとは言えないであろう。もしそうだとするのであれば、われわれ人間に見えている世界像も、その点に関しては大同小異であろう。九鬼は、必然性、偶然性、可能性、不可能性という四様相を、世界の存在論理学的構造肢と見る。九鬼哲学はダイナミックな関係構造論とでも言いうるものであるが、とくにこの現実世界を可能性を背景にして見ることがそれを特徴づけている。『偶然性の問題』の例の冒頭句、「偶然性とは必然性の否定である」とは、「偶然性とは必然性の自己否定態である」、あるいは「世界は神の自己否定による自己顕現である」ということであった。そしてそれをここでもう一度言いかえれば、「世界は可能性全体(必然性)の一つの可能性の現実化(偶然化)である」、あるいは「世界は離接肢全体の一肢の現実化である」ということになる。可能性全体(必然性)のなかの一つの可能性が現実化(偶然化)したものとしてこの世界を見るのである。「いま、ここ」に私が人間として、五官をもったものとして存在しているこの現実は、無限の可能性の中の一つが現実化したものである。現実に展開しているこの歴史は、無限の展開可能性の中の一つが現実化したものである。これは思えば不思議なことであろう。
 しかし、それだけではない。「私は東京で生れた者であるが、京都で生れたことも、横浜で生れたことも可能なこととして考えられる。私の両親はいづれも日本人であるが、両親の一方が外国人で、私が混血児として生まれた場合も容易に考えられる。それのみならず両親とも外国人で、アメリカ人としてニューヨークで生れた場合も、イタリア人としてローマで生れた場含も考えられる」と九鬼は言うが、

それは、たとえて言えば、「三角形」という「種」(Species)概念のもとに、三辺の長短、三つの角度の大小に関して無限の多様性をもった個的三角形(indviduum)が考えられる、というようなものであろう。しかし、いずれにしてもそれらは同一種の三角形(可能的世界)であることに変わりはない。それだけではなく、かれは、図形(可能的世界)として全く別種の図形、たとえば「四角形」、「五角形」など、無数のそれを考えていたであろう。それらの多角形は、図形という一つの類(genus)に属するさまざまの種としての図形として、すべて同等の図形なのである。「私」が存在しない世界、いや人間が存在しない宇宙、つまり全く別種の宇宙もありえたと九鬼は考えていたであろう。かれは、「種」概念のもとにさまざまの「個」を見ていただけではなく、さらにさまざまの「種」を「類」概念のもとに見ていたのである。」
とある。九鬼哲学について小浜氏の極めて深い解釈が試みられており敬服し、一人でも多くの人々に流布することを願う者である。



{論文、「失われた故郷(U)[神戸外大論叢 58(4), 37-49, 2007-10-00 ]」(P43)において、『ライプニッツ研究者・酒井潔学習院大学教授から、「京都で生れ、横浜で生れたと考えられ得る私」、「両親の一方が外国人で、混血児として生れたと考えられ得る私」、「それのみならず両親とも外国人で、アメリカ人としてニューヨークで生れ、イタリア人としてローマで生れたと考えられ得る私」とは、そもそも現に「東京で生れ、両親はいずれも日本人であるような私」すなわち「九鬼周造」という固有名詞で名指しされるような個体とはまったく別の個体ではないか、つまり九鬼のその意味での「可能的世界論」は成り立たないのではないか、・・・』という質疑を受けたと述べている。}

(森久紘)
私が生まれてこないこともあり得た。
私は虫でも鳥でも獣でもあり得た。森久紘 130904

私(周造)が虫に生まれた場合、両親は現実に存在した九鬼隆一と波津ではなく、虫である隆一と波津である。両親のそれぞれの両親も虫であるはずである。つまり先祖の発端に遡る。そして次第に虫へと歩んで虫になった。それで、今ここに存在する私(周造)は虫になるという可能性があった。いきなり九鬼隆一と波津という現実に存在した人間から虫が生まれたわけではない。森 久紘140111

私が私として偶然決まるのは、原始偶然としての端緒においてである。それ以外の属性はそれより後に決まってきた。「まだ、可能が可能のままであったところ」(音と匂 −−偶然性の音と可能性の匂−−)において。
翻って、現にいた(いる)私は隆一と波津を両親としていなければ私ではない。また昭和16年4月10日に京都府立医科大学附属病院に入院していなければ決して私ではない。

一見未来に向かっては選択の自由があり、過去の人生は動かしがたい事実のようである。そうであろうが、完全な円環的時間にあっては、過去は未来であり未来は過去でもあるのではなかったか。円い地球を前へ前へと行っているつもりが、後にいるかもしれないのである。

可能的存在(概念の)(イデア)は思惟的抽象・超時間的存在であり、現実的存在は経験的現存在・時間的の存在である。

(哲学私見)
五:P124:実存者は有限性と時間性とに纏(まと)われている。実存者の哲学は存在一般を時間の地平に齎(もた)らすことによって眞の意味で存在を会得することができるのである。
P126:要するに必然性は過去よりの存続を仮定している。可能性は未来への動向を表している。偶然性は現在に於ける瞬間的存在を意味している。
(森 久紘)ここでは九鬼は「可能的存在は未来を時間形態としている」(P125:6)といっている。実存の「可能的存在」(未来への時間の動向)と抽象的思惟の「可能的存在」(超時間的存在)の違いか。

(森 久紘) 
九鬼周造には実子がいないので、末孫は途絶えるが、私に子があり子孫末孫が長く続き、その時の末孫のある者は、進化して第六の感覚を有った生き物になっているかもしない。あるいは今までにない見かけ虫のような生き物になって生き永らえているかもしれない。現実の私は丁度今、この時、この場所に他に替え難い私として、人間として巡り合い存在しているのである。

(森 久紘)
九鬼は『秀吉の個体的本質は秀吉の存在によって刻々形成されて行くのである。朝鮮征伐をしないことも出来たに拘らず朝鮮征伐をし、聚楽第を営まないことも出来たに拘らず聚楽第を営んだものが、秀吉の個体的本質である。秀吉の個体的存在が秀吉の個体的本質を瞬時々々に刻んで行ったのである。』(実存の「可能的存在」(可能性から必然へ推移)か)と。
[私(個物)の立場において](下からの目線)

また「抽象の世界にあっては秀吉に関してなお他の可能性がある。それは秀吉でも信長でも家康でもあり得る可能性である。」といっている(愛知県出身の武将[尾張-信長、秀吉・三河-家康)。論理的に可能性があったのであるが、現に存在したのはあの秀吉であった。(抽象的思惟の「可能的存在」(可能性から一現実への偶然性)か)なぜあの秀吉であったのか。あの秀吉という賽子(さいころ)の目が出たのである。
[神の立場において](上からの目線)

可能性−可能的存在
◎選択できない可能性 (避けられない)
[超時間性から躍り出る]
○私がこの自分であること。
○死が訪れること。
○秀吉が尾張の中村でうまれたこと。
○予期せぬ出合い
○老病死 若健生

◎選択できる可能性
[時間の先取り]
○二者選択。
○やるべきかやらざるべきか?
○自殺
○秀吉が聚楽第をいとなんだこと。
○北条政子が朝廷を攻める決意をした。(承(じよう)久(きゆう)の乱)
○出合いを求めて
○私の人生を創造
○偽悪醜 真善美

(森 久紘)
神の立場においては、論理的可能性の世界の話である。 私より上位の人間、さらに動物、生物、物質、もの、と展開する。私が路傍の「石」でもありうる可能性があった。しかし、現実的存在の世界の話である今ある私は、他に替えがたい私であることが、私(個物)の立場からは確実な事実であるのである。

森 政弘の著書「心眼」に仏教でいう「空」、宇宙の大生命の説明が宇宙進化の科学的なそして生物の進化とでもいう側面から述べられている。「君やぼくが、今ここにいるという原因は、もっと正確に言えば、一億年昔の先祖のせい、数億年過去のアメーバのせいというに止まらない。アメーバにも先祖はあるのだ。さらにその先祖をたどってゆくと、普通には生命がないと思われている、炭素とか水素とかナトリウムとかいう物質の原子に到達し、さらに進むと陽子、電子、中性子、中間子という絶対に目では見えない素粒子に行き着いてしまう。(P13)」と云っている。
さらに「このように話をつきつめていくと、こういうことを感じないではいられなくなる。
1.素粒子、原子、分子、無機物、有機物、高分子(大きな分子)、単細胞生物、多細胞生物、人間、社会、世界、宇宙を形づくり、動かしている根本の力が巌然と実在する。仏教ではこの力のことを空と言っている。
2.その力は永遠の過去から作用し続けており、われわれがここに存在し、生きているのも、その力の作用によってである。
3.いわゆる生物だけに生命があるのではない。(本当に深く生物の研究をされた科学者にうかがってみると、生物と無生物の境目は画然としていないということだ)無機物にも、水素、ナトリウムにも生命がある。つまり、動物植物はもちろん鉱物をも含めて、あらゆるものが生命を持っている。」と云っている。

偶然と運命 九鬼周造の倫理学 ナカニシヤ出版2015.4.30の中で古川 雄嗣は「p42:13:たしかに私という存在は時間とともに年をとり、容貌は衰え、思想や価値観も変化する。しかし、そうであっても、依然として私は私である。過去にも、現在にも、そしておそらく未来にも、私という存在は自己を同一に維持している。つまり、たとえ容貌や思想といった私の具体的な「現象」なり「属性」なりは時間とともに変化したり消滅したとしても、そもそも私が私であるというその私の「本質」なり「実体」なりは、何ら変化したり消滅したりはしない。そうでなければ、「私の」容貌が変化したとは言えないであろう。ここではなお、不変の同一者が自己を維持しているはずである。」といっている。

(森 久紘)
九鬼は「抽象の世界にあっては秀吉に関してなお他の可能性がある。それは秀吉でも信長でも家康でもあり得る可能性である。」といっているが、秀吉自身の「私」である「本質」なり「実体」であるところの「信長」あるいは「家康」である。現に存在した信長あるいは家康自身ではない。

賽子は何時、何処へ振られるかはわからなかった。現に振られて私は今ここにいる。私が他の生き方であった場合、余程違った私になる。今の私と同じなら他の生き方の意味がない。相当、違った人生になっても私にとっては私の人生であるが、第三者からみれば、別人のようにみえるであろう。実際に少しの違いが大きく人生を変えてしまう。2013年11月に発覚した赤ちゃん取り違え事件はその例である。140220改

(各種ニュース等から抜粋)
60年前の1953年3月30日の夜、赤ちゃんが取り違えられて、全く別の人生を余儀なくされることになった。
東京地方裁判所は11月26日、DNA鑑定の結果から、東京の男性Bが60年前に病院で取り違えられていたことを認める判決を言い渡した。(病院を開設した東京・墨田区の社会福祉法人「賛育会」)
取り違えによって男性Bは全く別の人生を余儀なくされた。
判決によると、男性Bが育った家庭は経済的に厳しかった。父親が幼いころに亡くなり、母親が3人の子どもを育てていた。
家族4人が6畳のアパートで生活し、当時普及しつつあった家電製品が何一つないという状況でした。
男性Bは家計を助けるために中学を卒業するとともに町工場に就職し、働きながら定時制の工業高校を卒業した。
60歳となった現在もトラック運転手として働いている。
他方の男性Aは、本来B家にいるはずが、裕福なA家の長男として育てられ、対照的な人生を送る。自宅は庭に池がある豪邸。両親が教育熱心だったこともあり、大学進学時まで家庭教師がついていた。A家の4人の子どもは、いずれも私立高校を経て大学、または大学院に進学している。取り違えられ、A家に育った男性Aは大学卒業後、一部上場企業に就職し、現在は、不動産業を営み社長を務めている。

(森 久紘)
植物の種Aを蒔いて育てる場合、同じ種Aでも実る結果は同じになるとは限らない。蒔く時期、その時の土壌、水、光、気温、湿度、肥料、雑草、密度などいろいろな巡り合わせによって育ち具合は異なる。種Aの持っている性質、機能だけでは全く決まらない。つまり同じ遺伝子の種Aには違いないが、蒔く時期や場所によって、全く異なった育ち方になる。

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(人間と実存 実存哲学 二 可能的存在と現実的存在)より
P75 2:二等辺三角形について一般に論ずる場合には、二等辺三角形のイデアすなわち本質のみが問題である。それ故に任意の二等辺三角形を取って考えればよいのである。
P75 4:イデアチオンにあっては現実性は諸可能性中の一可能性として取り扱われる。我々はいわば純粋な想像の世界の中に在るのである。現実として与えられた個体は任意性の中に埋没してしまうのである。
P78 10:「三角形とは三つの線で囲まれた面の一部である」
・・本質:普遍的:イデア・・・可能的存在
「鉛筆で描いた三角形がある」
・・狭義の存在:或る時、或る場所に一定の角と一定の面積を占めている:個体:特殊の三角形・・・現実的存在
P81:第一の本質が存在を規定する場合・・・・
P81:蓄音機の針にあっても眞に存在としての意味を有するものは何印何号の針一般である。
P82:現実的存在としては何印何号に属する限り任意の針を選べばよいのである。・・・・・普遍的な本質が眞の存在で現実的存在は淡い影に過ぎない。
P82:任意な嬰児:::人間の本質が人間の存在を規定しようとする場合には個性の眞の意味は出て来ない。
P83:次に第二の、存在が本質を規定する場合・・・・
P83:「ここ」に存在する「この」ものの本質である。本質はもと普遍的のものであるが、普遍的本質が現実的存在によって規定される限り、個体的本質となる。
P83:個体的本質とは個体的存在にほかならぬ。個体的本質は個体の現実的存在によって瞬間毎に規定され形成されて行くのである。
P86:単なる生命というようなものにあっては、存在が本質を規定するということの眞の意味は成立しない。生物に見られる因果的または目的的決定は選択の前に悩む自覚存在と同一ではない。単なる生物の個体的本質は眞の非連続の連続ではない。従って眞の意味の個体的本質とか個体的存在とかいうことは単なる生物にあっては云うことが出来ない筈である。その意味において、単なる生命は普遍的本質の普遍性抽象性を分有している。人間一般としてのアダムと、アダム以後に生れる嬰児の全体とは不離の相関関係に置かれている。そして嬰児全体が単にアダムの個別態として相互間に相等性を有つものと考えられるのは、嬰児が「人間」ではなく単なる生物に過ぎぬという逆説に基づいている。要するに普遍的抽象は決定さるべき何ものをも有つていない。またはすべてが自明でおのづから決定している。単なる生命は決定の連鎖に過ぎぬ。すべてが闇黒の中におのづから決定される。

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◎可能的存在と現実的存在
 相対的措定______________絶対的措定
 である:なり________________がある:あり
 可能的な概念が成立__________現実的な対象が成立
 可能的存在______________現実的存在
 本質_________________狭義の存在
 超時間的存在_____________時間的の存在
 原型_________________模写
 普遍者_________________個体
 共通者__________________多数の個体

 思惟的抽象(抽象的思惟)________経験的現存在
 精神_______実存________生命
 精神の存在____実存________肉体の存在

 無限な可能性(全体)__________諸可能性中の一可能性
 想像の世界の中に在る_________我れ存在す
 個体は任意性の中に埋没            (我れ欲す・行動す)

 諸変形態を貫いて一つの不変態_____諸変形態
   プラトンのイデア______________イデアに分預
   ☆イデアの下に従属する可能的な諸単体の無限性

 形相_________________資料との複合体
何であるべくあったかのもの_________________「あるところ」のもの
私の実体・本質-------------------------現に今・ここにいる私
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(森 久紘)
建築におけるトラス構造は、三角形を基本単位として構成する集合体の構造形体である。構成部材に理論上、曲げモーメントが生じることがなく、軸方向に引張あるいは圧縮力のみ作用する。したがって構造力学的にすぐており、部材を細くできる。
本質的存在としてはイデアとしての三角形であり、現実には任意のトラス構造の架橋であったり、小屋組トラスであったりする。抽象的三角形が現実に有能な存在となるのである。強制的な三角形という抽象的な背景と、任意の現実の建築物により成り立っている。

平行線は交わらない2直線であるが、建物の基本は矩形であり、平行線が多用されている。引戸は、平行でないと、開け閉めが出来ない。
車輪は、円形で中心から、等距離の曲線であり、中心を車軸として、回転する。
平行線や円形は、可能的存在であり、引戸や車輪は現実的存在である。

「掻き寄せて 結べば柴の 庵なり 解くればもとの 野原なりけり」という句があるが、もともと、野原には柴こそあれ、なにもない。しかし人間がイメージ で描いた庵が、そこいらにある物質である柴をうまく構成していけば庵という、機能をもったものができあがる。物としては同じ物であるが、組み立てられ庵となるとその有用性は全然違う。
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○偶然と驚き
生物一般という全体は、虫や鳥や獣や人間などという各成員の必然的な総和でありますが、その場合に、虫でもなく、鳥でもなく、獣でもなく、人間であるということは偶然であります。・・・・・・・・
私共は虫にも生まれず、鳥にも生まれず、獣にも生まれず、特に人間に生まれたこと驚くのでありますが、それも偶然だから驚くのであります。・・・
盲目で唖に生れた人があるとして、それは発生学的、病理学的に一定の原因によつて必然的に決定されたのであると考え得るでありましょうが、それにも拘らず、なお、その人が単に盲目だけであつた場合も、単に唖だけであつた場合も、また目も明いて口もきける完全な人間であつた場合も、同等の論理的可能性を有つて考えられるのであります。盲目であると同時に唖であるということは、今挙げた四つの可能性の中の単に一つの場合に過ぎないのでありまして、その意味で、それは必然的ではなく偶然的であります。盲目で唖という賽ころの目がころりと出たのであります。其他の賽の目が出る可能性もあつたのであります。
   私共   偶然だから
   論理的可能性を有つて考えられる
*おわり
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◎内山興正は「座禅の意味と実際 生命の実物を生きる」(大法輪閣 H19年6月10日第3刷 )の中で次のように述べている。(・・・・は省略箇所、( )内は説明追加箇所)
「P28:まずわれわれ自分自身の心臓に手をあててみましょう。この心臓の鼓動は、私が動かそうと思うがゆえに動いているのでもなく、・・・(眠っている時)われわれが呼吸を、私のはからい以上の、何か大きな、事実働いている力にまかせきって眠るのです。そしてこれも、私のはからう力でやるのではないけれど、事実、私自身のうちに働いているのですから、私という生命の実物だというほかありません。
 これらはいわば生理的生命としての実物であるわけですが、もう一歩すすんで、私が日本人として生まれたということ、あなたが欧米人として生まれたこと、・・・・これらも別にいわゆる自分の意志をもって選びとったというわけではないのだけれど、事実、私が日本人であり、あなたが欧米人であることは、自分のはからいや分別を超えた生命の実物です。
P29:・・・・・とにかくいわゆる私の考えや意志力を超えた、大きな力に生かされていることを思わないわけにはゆかなくなります。・・・・・・・結局生命の実物そのものとしては「ただかくの如くある」というよりほかはありません。そうです。自己の生命の実物は「ただかくの如く生きる」そのことです。
P61:欲望も煩悩もじつは生命力のあらわれなのですから、これを憎み、断滅していいはずはなく、しかしそうだからといって、もし欲望、煩悩にひかれてそれを追うならば、それによって、かえって生命は呆けてしまいます。・・・・・・ただ覚めて生命の実物に帰ることです。
P80:般若心経にも『不生不滅、不垢不浄、不増不減』とあります。これは生滅を超え、垢(迷)浄(悟)を超え、増減(やりとり)を超えたということです。つまり、それは自他分離以前、迷悟分離以前の生命の実物を悟るということです。」
と述べている。自分も何もかもを含めた絶対的な宇宙の働きのことを述べているのだと思う。

◎「哲学は何を問うべきか 竹市明弘 小浜善信 編著  晃洋書房 2005/10/31 」の中の「第W部 行為的現実 問題」「第3章 生死の現実 」の井上 克人氏 記述部分に
「とてつもなく深く大いなる生命、幽邃(ゆうすい)にして深遠なる生命の大いなる営みのなかに、自らの生があり、また死があるのだ。今・ここに生かされて在ることの不思議、そのかけがえのない生命の実感! こうした道元の精神を現代に伝える内山興正老師は次のような詩を残して逝った。(p303)」
とあり、続いて
   「手桶に水を汲むことによって    水が生じたのではない
天地一杯の水が 手桶に汲みとられたのだ
手桶の水を 大地に撒いてしまったからといって
水が無くなったのではない 天地一杯の水が
天地一杯のなかに ばら撒かれたのだ
人は生まれることによって 生命を生じたのではない
天地一杯の生命が 私という思い固めのなかに
汲みとられたのである 人は死ぬことによって
生命が無くなるのではない 天地一杯の生命が
私という思い固めから 天地一杯のなかに
ばら撒かれるのだ」
と、詩を掲載している。宇宙の大生命(天地一杯の水)と自分という思い固め(自分という命)(手桶の水)を歌い込んだものであろう。

◎道元  松原泰道 アートディス
P290:「いのち」は、生物の生命と共に、<こころ・意志>を示します。したがって仏の御いのちは、「宇宙のこころ・宇宙の意志」といいかえてもいいのです。道元も宇宙のこころを「自然(じねん)(じねん)」と表現しています。
―――:人間の生き死には、自分一人の生死ではなく宇宙の大生命とかかわりあう。
P291:私たちがこの世に生まれて来たのは自分の意志ではなく、宇宙の意志(仏の御いのち)によるものです。
P292:死ぬのが平気になったり、怖(こわ)くなったりする矛盾はどうして起きたのか。自分の生命は自分のものだと、私有物視したからではないでしょうか。
P294:<いま・ここに生きている>厳かな事実をわが身をつねって実感することです。
P305:“法(おしえ)を聞かないものは、臨終時に身と心の二重苦で悩まねばならない。しかし法を聞く者は、心の安らぎを得ているから身体の苦しみ一つだけで済む”と。
P311:仏の御いのちをいいかえれば、「宇宙の意志(こころ)・大いなるいのち」でしょう。そのような抽象的な、いのち(命)・意志(こころ)を仏教思想では、観音菩薩や阿弥陀如来の名で象徴します。

◎ふたたび小浜善信による「九鬼周造の哲学 漂白の魂」の九鬼および小浜の回帰的時間の構造に関する記述部分であるが、
「第4章 時と永遠
p137:九鬼によれば、@輪廻思想はその論理を徹底・拡大してゆけば、万物再生思想へと展開し、A万物再生とは、万物が完全な同一性を保ったまま回帰することであり、Bその回帰には時間の回帰も同時に含まれている。

P138: 輪廻の論理構造
 そもそも「輪廻」とは何か。輪廻思想はどのような論理構造をもつのか。九鬼は因果性という観点から考えてみる。原因(causa)と結果(effectus)の関係については二つの解釈が可能である。かれはカントの術語を使ってそれらを「総合的解釈」と「分析的解釈」と呼ぶ(XI、222〜27)。たとえば〈2H+O→H2O〉という簡単な化学式を例にとってみよう。左辺を原因として右辺の結果が生じるわけであるか、一つの見方として、実はそこには何の変化も生じていないとする解釈(分析的解釈)もありうる。なぜなら、右辺(結果)にはもともと左辺(原因)にあった水素原子二個と酸素原子一個以外のものは何もないからである。原因のなかになかったものは結果のなかにはないし、原因のなかにあるものが結果のなかにないということはない。同じことになるが、結果のなかにあるものはすでに原因のなかにあったのであり、結果のなかにないものは原因のなかにもなかったのである。要するに、原因は結果に等しい(causa aequat effectum)。AはAであるという同一性の論理、あるいはトートロジー(同語反復)の論理である([、「現代フランス哲学講義」、二〇六〜一二:\、「講演 現代哲学の動向」、三五三〜五五)。生成消滅の世界を臆見(???)として否定し、同一性の世界の実在性のみをみとめるエレア派の見方はこのような見方の典型であろう。
 もう一つの見方(総合的解釈)は、左辺は気体(水素と酸素)であるが右辺は液体(水)であり、気体と液体とはまったく別のあり方であって、左辺になかったものが右辺に生じ、左辺にあったものが右辺にはないと見る。無から有が生じ、有が無になるという、生成消滅をみとめる見方であり、「万物は流転する」と言って、この世界を差異性(differentitas)の世界と見るヘラクレイトスの見方はその典型であろう。
 ところで、輪廻転生は因果応報の原理によると言われる。輪廻のこの因果性はどのように解すべきか。ピユタゴラスの上の断片によれば、ピユタゴラスの友人、つまり人間が子犬に転生しているというわけであるが、これは一見、人間という存在が子犬というまったく別の存在に変化したことを言っているように見える。これはちょうど上の化学式で、気体から液体が生じているのを見て、そこにまったく新しい別のものが生成したとみる見方(総合的解釈)に当たるといってよい。しかしはたしてそうなのか。変化と見えるものの根底には、実は同一のものが不変に自らを維持しているのではないか。
 ある人間がもし鬼に転生したとすれば、その人間はもともと鬼のような人間だったのではなかろうか。いや、もっと正確に言えば、その人間はまさに鬼だったのではあるまいか。無からは何も生じないはずであり、生じたのであればそれはすでにあったのでなければならない。原因は結果に等しい。輪廻転生の思想の根本論理はこのような因果性の見方ではなかろうか。つまり同一性、必然性の論理である。そうすると、輪廻転生のもっとも徹底したかたち、あるいはその典型的な例は、たとえば人間が犬に転生するなどといったような場合ではなく、ある人間がまったく同一のその人間に、私がまったく同一のこの私に転生する場合であるということになる。「ソクラテスやプラトンといった各々の人間は、同じ友同じ市民とともに再び存在するであろう。万物がその細部にいたるまでまったく同じ不変の状態で存在するだろう」。
 輪廻思想の根底には同一律としての因果律がある。輪廻転生の世界は徹底的に同一律によって支配される世界である。それは宗教上のエレア主義(Eleatismus)と言ってよい。善人は決して悪人に、悪人は決して善人にはなれないであろう。かりに輪廻にその開始点があったとすれば、すべてのものはそこで始まったあり方を根本において変えることはないし、また変えることもできないということになる。神を殺した者でも何度回帰しようとも根本においては善人、神に酔える者でも何度回帰しようとも根本においては悪人ということもありうるかもしれない。それは人間の意志の入り込む余地のまったくない戦慄すべき過酷な思想、救いのない思想なのかもしれない。
P153:これは一つの冒険的な解釈になるが、九鬼は、輪廻・再生の時間構造を上のように見定めたうえで、輪廻・再生思想に根本的な意味転換を施そうとしていたのではないであろうか。輪廻・再生の思想とはいったいどのような思想なのか。それは本当に、救いのない絶望的な思想なのか、それとも、救いの可能性を排除することのない、希望を繋ぐ思想なのか。筆者は、先に、九鬼の議論に従えば、「善人は決して悪人に、悪人は決して善人にはなれないであろう。かりに輪廻にその開始点があったとすれば、すべてのものはそこで始まったあり方を根本において変えることはないし、また変えることもできないということになろう。神を殺した者でも何度回帰しようとも根本においては善人、神に酔える者でも何度回帰しようとも根本においては悪人ということもありうるかもしれない。それは人間の意志の入り込む余地のまったくない戦慄すべき過酷な思想、救いのない思想なのかもしれない」と書いた。だが、「善人は決して悪人に、悪人は決して善人にはなれない」のは、「かりに輪廻にその開始点があった」と仮定して、また、そこですべてが決定されたと仮定しての話である。しかし、そのように仮定しなければならない必然性はない。そのような仮定には、現在の事実ないし状況を、無意識のうちに、無限の過去にあったと想定される「始め」 に投影し、そこから逆に、「始め」にそうであったから現にこうなのだ、現にこうであるのは「始め」にそうであったからだといったような論理が潜んでおり、現に在る事実を理由づけようとする、あるいは現に在る状況を固定化しょうとする密かな意図が隠されているのではなかろうか。「かりに輪廻にその開始点があった」としても、その 「開始点」は、次章以下に詳しく見るはずの「原始偶然」に端を発するそれではなかったであろうか。九鬼は『偶然性の問題』の中で次のように言う(U、一四七)。
(省略)
 「原始偶然」とは、そこでは「まだ、可能が可能のまま」であったところであり、どのような因果系列に従って事象が生起するか未決定のところ、それゆえ、誰が善人になり、誰が悪人になるか、まだ何も決定されてはいなかったところである。
  しかし、そもそも輪廻・再生の時間には「始まり」も「終わり」もなかったはずではなかろうか。なぜなら、それは完全な円環構造をもって永遠回帰する時間だからである。あるいはむしろ、それはその都度の今(現在)がいつでも「始まり」でもあれば「終わり」 でもある、あるいはまた、「終わり」でもあれば「始まり」でもあるといったような構造をもつ時間である。それは、われわれのがわから言えば、いつでもその都度の今を「始まり」にすることもできれば「終わり」にすることもできる、あるいはまた、「終わり」にすることもできれば「始まり」にすることもできるということである。悲惨な生に終わりが訪れ、それが同時に幸福な生への始まりとなり、悪行の生が終わり、それが同時に善行の生への始まりとなる――――九鬼が確認したように、輪廻・再生の時間が厳密な意味で円環構造をもつとすれば、これはそのような救いの可能性を排除することのない「希望と再生」の思想として見直せるのではあるまいか。そうであれば、九鬼も晩年(三七年)にラジオ講演「偶然と運命」でその言葉に触れるのであるが、われわれは、ニーチエとともに、「意志が救いをもたらす」と言えるのではなかろうか。悲惨な生に終わりを告げ、それを同時に幸福な生への始まりとなし、悪行の生から決別し、それを同時に善行の生への始まりとなすのである。幸福な生、善を行う生を今ここで始めるとするならば、過去のすべての回帰する時間円の今、未来のすべての回帰する時間円の今でも、幸福な生と善を行う生が始まっているのである。われわれの意志によってそのようになしうるのだとすれば、もう一度、いや何度でもこの生を引き受けよう、生を愛しようと決意することができる。もちろん、幸福な生に終止符を打ち悲惨な生を始める、善行の生を忘れ悪行の生へ走る、そのような転落への可能性も排除されてはいない。すべでは今ここでのわれわれの意志に懸かっている、そう九鬼は言いたかったのではあるまいか。」
と小浜は述べている。

偶然と運命 九鬼周造の倫理学 ナカニシヤ出版2015.4.30の中で古川 雄嗣は「p147:16:「形而上的絶対者」の論理構造は、実に驚くほど明快なのである。彼は要するに、回帰的形而上学的時間を表象する円の全体を離接的必然と呼び、その円周上のすべての点を離接的偶然または原始偶然と呼んでいる。
p148:1:回帰的時間にあってはすべての瞬間が「因果系列の起始」なのである。従って原始偶然とは実は無数にあるものであり、その無数の原始偶然すなわち離接的偶然の総和が、離接肢の全体としての離接的必然であるのである。
8:九鬼は、この回帰的形而上学的時間を表象する円のことを「形而上的絶対者」と呼んでいる。」といっている。


 九鬼周造の京都、山科四宮の旧宅の襖の引き手には九鬼自身がデザインした「松葉」「重ね銀杏」「蕨」「竹輪」の引き手がある。「松葉」や「銀杏」は偶然性を表している。二つの因果系列の遭遇を表している。そして「竹輪」は回帰的時間である円を象徴しているのであろう。
九鬼周造の「東洋的時間」には
「輪廻とは無限の再生、意志の永久の反覆、時間の終りなき回転である。所で輪廻について思惟し得られる最も注意すべき著しい場合は、人間が永久に繰り返して同一の人間になるという場合である。青虫は一つの葉から他の葉に移り、而もこれが同一の葉であるのである。織女は新しい型を創つて行くが而もこの型は旧のものである。しかし実はこれは例外の場合ではない。一般に輪廻は因果の法則に、原因と結果との連鎖に従属している。人間は或る存在から他の存在に移る、しかし後者は前者によつて前定されている。・・(省略)・・・・・虫となつた人間は既に虫の生活をしていたのである。「カルマ」(即ち所業と道徳的酬い)の観念には必然的に同一性の観念が含まれている。此処に支配しているものは寧ろ厳格なる宿命である。一般に因果性は同一性を目標とし、同一性に帰着する。かくて輪廻の教説は同一性の原理、「AはAなり」の原理に従属している。従って人間が同一の人間になる輪廻の場合も亦例外の場合でなく典型的な場合である。」
との記述があり、「文芸論」には
「過去とは単に過ぎ去ったものではない。未来とは単に未だ来ないものではない。過去も未来に於て再び来るものであり、未来も過去に於て既に来たものである。過去を遠く辿れば未来に還って来るし、未来を遠く辿れば過去に還って来る。時間は円形をなしている。回帰的である。現在に位置を占めるならば、この現在は現在のままで無限の過去と無限の未来を有っているとも言えるし、また無数の現在の同一者であるとも言える。現在は無限の深みを有った永遠の今であり、時間とは畢竟するに無限の現在または永遠の今にほかならない。」
とある。
九鬼は「形而上学的時間」の中で、
「同一内容が限りなく繰り返されるという点に、却って不尽性が鮮やかに意識されている。然るにインドの宗教は休みなき輪廻を離れて不動の解脱に安住することを主題とした。ギリシアの神話も同一事を永遠に繰り返さねばならぬシシュフォスの罪を最も恐るべきものとして呪った。しかしながら、無窮に輪廻を継続することが何故に不幸であるのか。すべては主観的態度に依存する。目的の幻滅を予め目撃し、意図の実現されざることを明らかに意識し、しかも、意志することを意志すること自らのために無窮に永久に繰り返すことは決して無意味のことではない。理想と現実との間に越ゆべからざる溝渠(こうきょ)の横たわることを自覚し、充たされざることが祈願の本質なることを了得し、しかも善への憧憬に絶えざる喘ぎを持続することは、それ自身に絶対の価値をもっている」
と、そして
「「継続された有限性」は「悪い無限性」と呼ばれることがあるが、それは皮相を滑る者にとってのみ悪いのである。眼を内にむける者には、流転はまさしく流転なるが故に法喜を蔵し、徒労はまさしく徒労なるが故に福祉をもたらすのである。そうして、「無窮性」のうちに「無限性」をとらえ、「頽落(たいらく)の今」に「永遠の現在」を生きるところに、一回にして無限回の人生に意義があるのである。」
と云っている。
 そして「偶然性の問題」の結論の箇所で
「道徳の課題とする実践的普遍性は抽象的普遍性であってはならない。偶然を契機として全体を内包的に限定する具体的普遍でなければならない。もしすべてを形式的同一性に単一化しようとする倫理説があるとしたならば、その抽象的普遍性に反抗して、死に臨んで偽ったデスデモナのように偽ろう。テイモレオンのように人を殺そう、オットーのように自殺しよう、ダビデのように神殿に入って盗もう、飢えたるが故に安息日に麦の穂を摘もうと云う者があっても、その声は人間の内奥に叫ぶ良心の声として聴かれるであろう。」
とも云っている。
結論のおわりに近い箇所では
 「不可能に近い極微の可能性が偶然性に於いて現実となり、偶然性として堅く掴まれることによって新しい可能性を生み、更に可能性が必然性へ発展するところに運命としての仏の本願もあれば人間の救いもある。無をうちに蔵して滅亡の運命を有する偶然性に永遠の運命の意味を付与するには、未来によって瞬間を生かしむるよりほかない。未来的なる可能性によって現在的なる偶然性の意味を奔騰(ほんとう)させるよりほかない。」
とも述べている。


○「いき」の構造における「形相因」と「資料因」、文庫
資料因---媚態・二元的媚態・「色っぽさ」・一元的の自己が自己に対して異性を措定(そてい)し、自己と異性との間に可能的関係を構成する二元的態度である。

形相因---道徳的理想主義「意気地」(武士道・正義・勇気・名誉・仁愛・・・)と
宗教的非現実性「諦め」(仏教・諦め・流転(るてん)、無常、悪縁にむかって諦めを説き、運命に対して静観を教える)。
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○武士道の基本道徳 九鬼 東洋的時間より
 正義・勇気・名誉・仁愛・・・・ 
(広辞苑)
名誉:恥ずかしくない
仁愛:思いやり。めぐみ。いつくしみ。なさけ。
勇気:物に恐れない気概。
正義:社会全体の幸福を保障する秩序を実現すし維持すること?


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