枝折峠(しおりとうげ)へ紅葉を見に行く


 魚沼地方といえばコシヒカリの里であるが、その北部に位置する新潟県北魚沼郡小出町から30キロほど山へ入っていくと銀山湖(ぎんざんこ)〔奥只見湖(おくただみこ)ともいう〕がある。40年以上前に発電用に作られた奥只見ダムによってできたダム湖であるが、現在はイワナ釣りの漁場として、最近では水辺のキャンプ地として知られている。10月の終わり、小出町まで出かけたついでにダムの手前の釣り場である銀山平(ぎんざんだいら)まで紅葉を見に出かけた。



 前日、地元の寿司屋でそれとなく紅葉情報をたずねたところ、「近くなら奥只見、足を延ばして清津峡(きよつきょう)、一日がかりなら秋山郷(あきやまごう)」という話であった。清津峡は確かに景色はよいが見るポイントが少ないし、秋山郷は山深く「ちょっとそこまで」気分ではむずかしい。それで、近場だけれど奥只見へ行ってみようということになった。


●奥只見とシルバーライン●

 奥只見へは通常、シルバーラインというバイパスを使って行く。これはダム建設のための工事用道路として作られた道で、工事終了後は有料道路として一般に開放されたのであった。今では料金徴収もなく自由に通行できる道となっている。

 ダム着工が1953年、竣工が1960年であるから、1950年代半ばに作られた道であろう。ふもとの町から山をいくつも越えた人里離れたところにダムを作るために、山の中腹をとにかく掘って掘って掘りぬいて作られた道路で、総延長32キロの大部分がトンネルである。なにしろ道路ができなければダムの現場まで行き着くことすらままならない場所である。かつては掘られたままの岩肌が剥き出しで、ろくに照明もない闇夜のような道で、かろうじて路面だけが舗装されていたという、考えるとこわい道である。春から冬の初めまではダムまで路線バスも運行しているが、トンネル内を進む車内では、江戸時代にこのあたりに銀山があったため「銀山平」という地名がつけられたこと、銀鉱を掘り進むうちに川底を破ってしまい大惨事が起きてしまったことなどの解説テープが流されて、ひんやりと薄暗い車内が一層冷え冷えと感じるのである。

 奥只見ダムについて、もう少しくわしく知りたい方はこちらをどうぞ。


●枝折峠あれこれ●

 さて、私たちは奥只見の入り口「銀山平」を目指して、このシルバーラインではなく、もう一つの山道を越えていくルート「枝折峠(しおりとうげ)」を行くことにした。シルバーラインは強引に掘りぬいた道であるから、直線的で距離も短く、今では照明もあり、普通乗用車であれば楽に通れる道であるが、トンネルが連続するばかりで景観も何もあったものではない。
 一方、枝折峠のほうはちょっとした難所として知られる道だ。一応、国道352号線であるが、「3桁とはいえ国道なのだから」と安心してはいけない。地図を見ると「大型車と二輪は通行禁止。午前は銀山平方向、午後は大湯方向の一方通行」と書かれている。大湯(おおゆ)とはふもとの温泉地で、つまり午前中はふもとから上りの一方通行、午後はふもとに向かっての下りの一方通行ということ。こんなふうに時間を区切ってまで一方通行にするということは、かなりの距離でクルマのすれ違いができない狭いところがあるからだ。地図の上でも「これでどうだ」といわんばかりにくねった道筋が見てとれる。

 枝折峠とシルバーライン付近の地図はこちらをごらんください。 


●いざ峠を目指して出発●

 ともあれ、午前9時半過ぎに小出町を出発。山に向かって走り始める。途中、「新潟県立奥只見レクリエーション都市公園 大湯地域」に立ち寄る。人工的に整備された公園であるが紅葉が美しい。路肩にクルマを停めて、ちょっと紅葉を見る。


公園で見た紅葉です。


こんな素敵な木立もありました。


●峠道を進んでいく●

 先はまだ長いので、公園のほうはそこそこにして、どんどん進んでいく。シルバーラインに進む分岐を通過し、山に向かって進むほどに徐々に道幅が狭くなる。途中で「ここから時間別交通制限」の立て札がある。もう一度よく読んで、午前中が上りであることを再確認する。うっかり間違えて進んでしまったらしゃれにならない。

 平日ということもあって前後にクルマはない。「道が空いていてよい」というよりも「ほかに誰かいませんか?」とちょっと周囲を見回したくなる雰囲気である。見回したところで誰もいないけれど、たまに地元の役所の人が道路をチェックしたりしているのに出会う。山道は蛇行を繰り返しながら徐々に上って行く。かつては未舗装部分もかなりあったようだし、落石箇所もあったというが、現在は全線舗装されているうえ、部分的ではあるがセンターラインがありきちんと上り下りを区別しているところもある。もっともそれは全体のごく一部分しかすぎず、それ以外のところはセンターラインのない一車線の道路で、ときどきすれ違いのための退避所が設けられているだけだ。それも頻繁ではなく、たまに待避所を見かける程度で、これではすれ違う対面通行は無理なのは素人の私にもよくわかる。


ここはまだ普通の道です。


すでに枝折峠に向かって進んでいますが、
まだセンターラインがあります。


しばらく行くと、もう一車線だけになってしまう。
そのうえ、山側はセメントで固められている。
落石が起こりやすい場所らしい。


 山に入ると間もなく、携帯電話のアンテナ表示が消えて「圏外」になる。こんなところで事故に遭ったら連絡さえままならず、むなしく冷たくなってしまうしかない。一瞬、そんなことを考えたりもしたが、頭上には暗い考えをあざ笑うかのような好天の空が広がっているし、山の紅葉は上るほどに美しくなっていく。空気が乾燥していてさわやかなので、視界もクリアーである。


●越後駒ケ岳を望む●

 気がつけば、かなり上ってきている。路肩に数台が駐車できるくらいに道幅が広がっているところで、三脚を立てて写真撮影している人を見かけた。私たちもクルマから降りて谷側を見ると、頂上に少し雪が残っている山がある。地図で確認すると越後駒ケ岳(標高2003メートル)のようだ。手前には山の峰が幾重にも重なっているのが見える。山からは沢が流れてきて小さな滝となって落ちている。黄色から赤のグラデーションに彩られた山々は明るく軽い印象で、まさに「一山すべて」の紅葉だ。


突然、道幅が広くなる。
この先で写真撮影をしている人がいました。


遠くの山が越後駒ケ岳です。


赤いモミジが美しい。


山側はこんなふうに岩肌が出ています。


スノーシェッドという雪除けのトンネルもあります。


●山道を振り返ると●

 さらに山道を上っていくと、タクシーで観光に来ている人々に出会った。運転手さんが「このずっと先が日本海なのですよ」と説明をしている。振り返って見ると、ふもとの町が遠くの低いところにある。これまで上ってきた曲がりくねった道も見える。よくぞここまで上ってきたものだという感慨にしばらくひたってしまった。


山の向こうにふもとの町が見えます。


私たちが進んできた道も小さく見える。


●枝折峠の由来●

 しばらく進むとようやく峠の頂上で、そのあとは一気に下りとなる。枝折峠の頂上は標高1065メートル、銀山平は758メートルである。ちなみにふもとの大湯あたりで272メートル、ここまでおよそ800メートル上ってきたことになる。また、この頂上は越後駒ケ岳の登山口にもなっていて、バスも一便ずつであるが、朝の上りと夕刻の下り便も運行されている。

 この「枝折峠」という名前にはこんな由来がある。平安時代、平清盛が権力を握っていたころのこと、左大臣藤原経房の次男に尾瀬三郎という男がいた。背も高く美丈夫であったうえ、絵もなかなかの腕前であったという。この尾瀬三郎、時のお后にひそかに恋心を抱いていた。あるときお后の絵姿を描いてしみじみと見つめていると、絵筆に含ませた墨がぽたりと落ちた。たまたま落ちたのはお后の胸元である。おなじくお后に想いを寄せていた平清盛、これを知るやいなや「お后の胸元にほくろがあることまで知っているとは…」と、根も葉もない言いがかりをつけて尾瀬三郎を都から追放してしまう。尾瀬三郎は越後の国へたどり着き、湯之谷村の山中を進むうちに道に迷ってしまった。困り果てていると、忽然と童子が現われ、木の枝を折りながら道案内し、峠までやってくると消えてしまったという伝説である。この伝説から「枝折峠」と呼ぶようになったという。

 ところで、峠の上で童子が消えてしまったあと、尾瀬三郎はどうしたか。下の方で沢が川に流れ込んでいるのが見えたので、川沿いに歩いていったところ、二つの川の合流地点にたどり着いた。どちらの川をたどっていくべきかと悩んでいると、一方の川には笠の骨が流れてくるではないか。上流に住む人がいるということだ。そこで尾瀬三郎はそちらの川をさかのぼり、たどり着いた沼のほとりで「打倒、平清盛」の機会をうかがいながら生涯をすごしたという。その沼が「尾瀬沼」であるそうな。

 あまり知られてはいないけれど、この銀山湖は尾瀬への入り口の一つでもある。尾瀬ヶ原から流れ出る沢の一本が徐々に水量を増やして銀山湖へ流れ込む川の一つになっている。湖との合流地点は「尾瀬口」と名づけられ、川に沿って歩いてけば尾瀬へたどり着く。

枝折峠についてもう少し知りたい方はこちらをご覧ください。

舗装される前の枝折峠についてはこちらをご覧ください。


●銀山平へ降りていく●

 さて、峠を越えた私たちは、銀山平へ向かって下っていく。峠に至るまでは美しい紅葉を見ながらであったが、尾根を越えたとたん風景は激変した。同じ一つの山でありながら、反対側はまったく紅葉がないのである。周囲の山々も同様である。日照なのか、風向きなのか、その両方かもしれないけれど、すでに葉の落ちた木々が立ち並ぶだけだ。

 殺風景な景観のなかを激しく曲がりくねりながら進んでいくうちに、私は完全にクルマ酔いになり、気持ち悪さのなかで生あくびを連発する。助手席で黙り込んであくびを続ける私をみて、一生懸命ハンドルを切り回す夫は「こんな道でも眠くなるのか」とあきれたようだけれど、眠いのではなく不快なのである。できるだけ離れた前方を見るように努め、背中をシートに押し付け必要以上に上体を揺らさないようにして峠道を下る。
 これほどまでに左右にくねる道であるから、さぞかし運転は大変であろうと夫に尋ねると「それほど大変ではないんだよ」と涼しい顔で言う。一方通行であるから「対向車が決して来ないということが精神的にとても楽」なのだそうだ。


●記念碑「河は眠らない」●

 下りきったところ、沢が湖に流れ込むあたりが銀山平である。沢にかかる橋から眺めると越後駒ケ岳がは遠くに見える。葉を落とした木々の間を水が流れるさまは、秋というよりも初冬を思わせる。橋のあたりを区切りとして、湖側は釣りができる漁場であるが、上流は禁漁域だ。


銀山平からも越後駒ケ岳が望めます。


禁漁域を示す横断幕。


流れる水はこんなに澄んでいます。


 沢の近くには「河は眠らない」と大書された石碑がある。「フィッシュ・オン」で有名な開高健の碑だ。「作家、開高健氏は銀山平に逗留され、作品『夏の闇』の構想を練りながら、竿を片手に散策を楽しまれた」そうであり、「銀山湖畔の水は水の味がし、木は木であり、雨は雨であった」と作品中に書き記したという説明も添えられていた。開高氏の朴訥な太い字、そのままに刻まれた「河は眠らない」は墓碑のようにも見える記念碑であった。


開高健の記念碑がありました。


 銀山湖には奥只見と尾瀬口を結ぶ連絡船が運航されていて、銀山平にも小さな船着場があった。以前にここを訪れたときは、釣り宿が数軒あるだけのひなびた土地であった。簡単な食堂もあって、銀山湖のイワナを食べさせてくれる。
 今回そちらへ行ってみて驚いたのは、大きな遊覧船が湖上に浮かび、大勢の団体客が今まさに乗船しようと並んでいることであった。彼らは大型バスを連ねてシルバーラインを抜けて紅葉見物にやってきたのである。残念なことに、銀山平周辺はすでに紅葉の盛りをすぎ、葉を落とした木が並んでいるばかりである。これでは遊覧船に乗っても面白みも半分くらいであろうが、旅行のルートに遊覧船が入っているのだろう。もしかしたら船で奥只見ダムまで行ってダムを見学するのかもしれない。
 ここまでたどり着き、紅葉も見るほどのものではないとわかれば、あとは引き返すのみである。何しろ時刻はまだ11時前で、昼食をとるには少し早い。イワナ料理を食べてもよいと思っていたものの、団体さんが大型バスでやってくるようでは、美味しいものはちょっと難しそうである。

 ふもとの街を出発したのは9時半ごろ、およそ1時間半をかけてここまでやってきたのだが、トンネルだらけのシルバーラインを使えば30分ほどでふもとへ戻れるはずだ。私たちはひとまず街へ戻ることにして、夫はハンドルを大きく切り、シルバーラインへ向かってクルマをUターンさせた。