2……下谷神社(2003年1月21日)

所在 東京都台東区東上野3−29−8

 下谷神社は、かつて「東北の玄関」と上野駅から徒歩5分くらいのところにあります。上野駅浅草口を出て、浅草通りをまっすぐに浅草方面へ約500メートル。銀座線稲荷町駅が最寄り駅になります。銀座線は駅と駅の間隔が短くて、歩いてちょっとというところに次の駅があったりしますが、上野と浅草の間は特に間隔が短いのですね。そしてこのあたりの最大の特徴は、上野から浅草にかけて仏壇屋がすごく多いということ。秋葉原が電気屋さんの街であるように、このあたりは仏壇屋さんの街なんです。


 上野駅から歩いていくとこんなふうに大きな赤い明神系の春日鳥居が見えます。そう、下谷神社そのものがお稲荷さんです。


 赤い鳥居をくぐると正面に石の鳥居が見えます。こちらも明神系春日鳥居。正面に門、その奥に拝殿があります。「参拝の栞」によれば、祀られているのは大年神(おおとしのかみ)。「素盞雄尊(すさのおのみこと)の御子で五穀を主宰し厚く産業を守護し給い、倉稲魂命と共にひろく「お稲荷様」として祭られている神様であります」ということです。合祀されているのは日本武尊(やまとたけるのみこと)。そもそもは、聖武天皇の御代天平2年(西暦730年)に峡田の稲置らが、大年神と日本武尊の御神徳を崇め奉って上野忍ヶ岡の地にお祀したのが創めと伝えられているそうです。
 現在の地に移ってきたのは、寛永年間に上野寛永寺を建立するにあたり、いったん下谷神社がひとまず上野山下移転し、その後、延宝8年に現在の神社の近くに移転。「正一位下谷稲荷社」と称されていたため、神社の周囲を「稲荷町」と呼ぶようになったのだそうです。昭和3年の区画整理によって現在地に移転。ちなみに大正12年の関東大震災では、社殿がことごとく焼失したそうですが、第二次大戦の空襲の際には御神徳によりまったく損傷はなかったということです。


 拝殿のガラス扉には稲穂の神紋が大きく入っております。ガラス扉の向こうの暖簾のような布にも稲穂の神紋がいくつも見えます。ここの拝殿の天井画は、横山大観の筆による「龍」が描かれているそうですが、賽銭箱のあたりからはちょっと遠いのと、ガラス扉の反射もあって見えませんでした。


 唐破風というのでしょうか、湾曲した屋根の下の部分にも稲穂の神紋が見えます。その下には見事な鳳凰の彫り物があります。


 拝殿の前には、きつねではなく狛犬がいます。右の狛犬は阿吽の「阿」です。犬というよりも獅子ですね。


 左の狛犬は阿吽の「吽」。こちらも獅子そっくり。


 拝殿の左側には朱色の鳥居があります。こちらもお稲荷さん。隆栄稲荷神社で、宇賀魂命(うがのみたまのみこと)をお祀りしていると書いてありました。家内安全・商売繁盛の守護神なんですって。近づいてみると、お稲荷さんらしいお稲荷さんで、きつねの像がそこかしこに祀ってあるではありませんか。


 御社の反対側には岩が積み上げてあって、そこに子供を抱いたきつねがいました。抱きしめる仕草がなんともかわいらしい。


 こちらは何も持たずにポーズをとっています。なんともいえないスタイリッシュな雰囲気。


 で、足元にはじゃれあう子ぎつねたち。兄弟でしょうか。


 塀のあたりには小さなきつねたちが並んでいます。


 御社はこんなふうになっています。赤い鳥居が数本奉納されていて、いわゆる稲荷らしい稲荷の雰囲気がかもし出されています。


 金属製のきつねはこんなふうに玉を咥えています。そういえば、ここのきつねたちは赤い前掛けをつけてもらっています。なかなかお似合い。


 もう一体は鍵を咥えております。


 こちらの神社には正岡子規の句碑もありました。「寄席はねて上野の鐘の夜長哉」ここでは寛政10年(1798年)に江戸で初めて寄席が行われたそうです。
 上野界隈のにぎやかな表通りから、ほんの少し奥に入っただけなのに、下谷神社には不思議なほど静かな空間が広がっていました。神様が降り立つ場所として作られている神社の功徳というものでしょうか。毎年5月の半ばには、例大祭が行われます。下町らしく御神輿が担ぎ出されて町内を一巡りして宮入が盛大にとり行われるのです。ちょうど浅草の三社祭のころで、この時期には上野や神田など、いわゆる江戸の下町のあたりでは神社のお祭りが次々に開催され、ちょいといなせな兄さんたちが、褌に晒しの腹巻、半被を着て御神輿を担いで練り歩きます。江戸情緒の一端が今も生きている街です。