ドラマ『白線流し』の世界を訪ねて

小川天文台の歴史(3)


岐阜金華山天文台・坂井義雄の思い出

坂井 義人
 

3.三五教(アナナイ)天文活動協力のころ

  皆様の研究室などの壁には、ひょっとしたら「太陽・月・星」と称するカラー版の大型のカレンダーが飾られてはいないでしょうか。充実した内容とカラーの天体写真は、評判も上々のようです。静岡県田方郡函南町の「月光天文台」という法人組織がその活動の一端として提供しているものですが、母体は古来より伝承をされた「日本神道」系の、いわば神社神道とほぼ共通の土壌から出発をした教団であり、宗教法人・三五教(アナナイ教)に始まるものなのです。そして、父、坂井義雄を語るには、避けて通れぬ存在と言っても過言なきものです。
 三五教との関わりは、実は恩師、山本一清先生の存在を抜きにしては、語ることが出来ません。なお、以下に三五教は、カタカナにてアナナイ教と記すことといたします。
 さて、この宗教団体の教義を一言で語るとすれば、「天文と宗教とは一如なり・・・」ということになるのだそうです。もちろん筆者を始め、亡き父もこの教団の信者では決してありません。あまりにも荒唐無稽な教義と言ってしまえば、勿論そのとうりとも思えます。しかし、かの山本一清先生ですら、天文学の一側面から、またその晩年のご逝去の直前まで関わりを持たれたということからして、どうにも意識しようがしまいが、避けては通れぬ気がするのも、また事実です。ここではあまりにも深いところまでは言及できぬことを認めて、その事跡のみをご紹介し、皆様のご判断に委ねるべきこととさせて頂きます。
 アナナイ教との関わりは、岐阜金華山天文台の活動にまで再び遡ります。やはり昭和30年頃のことと記憶します。当時この教団は、中野与之助開祖を中心に、天文に限らずかなりの知識人の協力を受けて、戦後の復興の気運とも相侯っての勢力の拡大を図っていたようです。この事は、その母体たる京都の綾部市を本拠とした大本教団の分派たる事を思えば多分ご納得を頂けるのではないかと思われます。知識人の手助けを借りての教勢の拡大は、アナナイ教に至っては、古事記の記述のさまざまな日本古来の神話を、そのバックボーンとして、その形を変えた現代の稗田阿礼とも考えれば、得心を頂けるかも知れません。蛇足ながら、稚かに日本古来の神話は、天の岩戸神話に見る太陽倍仰を持ち出すまでもなく、興味深い天文的な体系を伝えています。
 それはさて置き、その知識人の一端を受け持ち、どのような経緯が織り成されての結果であったのかは定かでは無いとは言え、恩師の山本一清先生は、みずから進んでこの教団の天文指導に乗り出されて行ったのでした。当然の事ながら、ここに坂井義雄も岐阜天文台から各地の教団天文台建設に駆り出されて、静岡県沼津市の香貫山中央天文台を始め、九州、岡谷、岡崎、楯山、東北、その他に信者の教化はもとより、大衆啓蒙も含めた天文普及を実践して行ったのでした。望遠鏡も口径20センチ程度の屈折を始め、同程度の反射も備えて、現在ですら決して遜色の無い立派な施設構成だったようです。その後、一旦はピークを迎えた天文台建設は、社会の無理解さも含めた受難の時期を経つつも、現在では前出の函南町に沼津市から移転をした月光天文台にほぼすべてが集約をされて、公益法人・国際文化交友会の資質のもと、政教分離ならぬ、天・教分離的に中々に立派な活動を続けています。なお関連事業として、この教団を母体とした活動の一つ、財団法人組織の非政府系開発援助・NGOの組織オイスカ・インターナショナルは、発展途上のアジア・アフリカ諸国への人的貢献を続けており、一種独特な宗教性の発露としての活動も、国連諮問機関などの処遇を得て、長年躍進を続けているようです。

 

 ここで一つ、どうしても山本先生と亡父のみの関係において、語っておかなければならない事跡を、紹介をいたしたいと思います。それは、京都大学の宇宙物理学教室または花山天文台に一時期設置をされていたという、カルバー46センチ反射望遠鏡についての経緯です。この望遠鏡は、実は山本先生の大学教授時代の汚点とも言われつづけた、いわく因縁の付きまとった器材のことです。現在この望遠鏡が、果たしてどこにあるのか、ひょっとしたら遠い昔にすでにスクラップ化されたと、お考えの方もおいでになるのではないかと思われます。しかしながら、実は現在、老朽化のために原形はととどめてはおりませんが、ほぼ完全な形で主鏡始め部品類も、筆者の手に保存されてはおります。既に使用されなくなって、20年程度は経てはおりますが、いまだ修復は可能と考えております。100年以上も昔の古びた反射望遠鏡など、何らの価値も持ちあわせていないと思われるかも知れませんが、ヨーロッパ各地には、ウイリアム・ハーシェルの器材を始め保存復元をされている現状と照らし合わせれば、我が国の天文の歴史の一ページの記憶には、当然残されて然るべきと、我田引水の誇りを受けようとも、ご理解を頂きたいと思います。
 さてこの器材は、当初、山本先生のヨーロッパ外遊中に、イギリス天文協会をフィールドとして活躍をされたウォルター・グドエーカー氏より譲り受けたものと言われております。このあたりの詳細は、山本先生ご自身にて東亜天文学会の天界誌にも紹介をされているはずと思われますので、この事はそちらに譲るとしますが、端的には公費嫌入とはならず、私費の購入器材という事で結果的に退官と同時に称里の滋賀県・上田上村の個人天文台に移設をされ、当時アジア唯一の口径の大きい反射望遠鏡として、東亜天文学会のシンボルとしても長期にわたり活用されたのでした。因みにこの器材は、前世紀に月面の肉眼観測時代、世界初の精密月面図完成に貢献のあったものと言われ、また金属鏡よりガラス鏡放物面への移行の時代的生き証人としても、貴重な存在と考えるべきものです。
 ではここで、アナナイ教とこのカルバー望遠鏡との縁について言及をせねばなりません。実は、アナナイ教の立教の当時、すなわち昭和30年代の初頭、当然の事ながら天文施設としての観測の器材等は、全くの皆無の状態でした。然しながら、国内の望遠鏡のメーカーに30センチクラスの立派な屈折望遠鏡を、沼津市の看貫山頂上に設せするという計画の下にそれは進捗を続けたとは言え、資金繰りの関係から目処も立たず、「この山本が関係するのに、望遠鏡が無いというわけにはいかない・・・、やむを得ないので、カルバー望遠鏡の移設を実施し、急場に備える‥」との方針が出されて、開台にこぎつけたのでした。実は、この2年後の昭和34年1月、山本先生はガンで急逝されるのですが、多少の教団側との意志の疎通を欠いたままに帰郷され、望遠鏡も看貫山に残されたままという不幸な関係が生まれてしまったのでした。因みに最晩年、一見方針の相違が見受けられたものの、「一度自宅へ戻ります・・・」と言い残されて、そのまま病に倒れてしまわれた先生のお気持ちは、いかばかりだった事でしょうか。一つのエピソードではありますが、先生は沼津市西浦の海岸縁に建てられた神聖館という要人接待の施設と、香貫山頂から眺められる霊峰富士の眺めをこよなく愛されたといい、また時に応じて神道形式の祭事には、衣冠束帯姿にて馬上の人となられたり、およそキリスト教徒たる先生のお姿には、未だその足跡とご心情を明らかにせねばならない何事かを感じるのは、果たして一人筆者のみの事でしょうか。
 カルバー46センチ反射望遠鏡は、その後、山本家ご遺族様のご意志により、既に岐阜天文台より立ち退いた父、坂井義雄の斡旋から、岐阜市の学校法人・冨田学園高校天文台に売却をされ、多少の器材の改造等を担当した、父自らの手により納入をされ、高校生たちの実習器材として、永く使用されたのでした。しかしながらその夢もはかなくついえ去り、再び平成4年の頃、不用となった場合には、坂井にて引き取るとの学校側との当時の約束により現在筆者の手元に眠ったままの状態となり、今日に至っております。個人資金の注入もしくは、某かの資金の恩恵に預かり、立派に復元をした後に、出来ればいずれかの博物館もしくは、看貫山天文台の移転先、函南町の月光天文台に永久保存などが実現すれば、山本家および筆者の関係者にも安堵を頂けるのではないかと、思案を続けております。願わくば、この望遠鏡の我が国に果たした天文学的意義の披瀝と継承、そしてこの器材を通じて多くの方々の尊いご努力の足跡を、イギリスよりもたらされたと言うべき初期の天文文化の興隆の証として、永く保存のされんことを切に願いつつ・・・・・。

 
  
 

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