ドラマ『白線流し』の世界を訪ねて

小川天文台の歴史(2)


岐阜金華山天文台・坂井義雄の思い出

坂井 義人
 

2.岐阜金華山天文台のころ

 さて、表題を岐阜金華山天文台とさせていただきましたので、父の思い出としては、そのあたりより語るべきと思います。ただし、長男とは言え、この頃の筆者は未だこの世に生を受けたばかりのこととて、かなりの伝聞推量も加わり、その点の誤りなどあらかじめご容赦を頂きたく存じます。
 岐阜市は、皆様ご承知のごとく、濃尾平野の北に位せし、清流長良川と金華山の風光明媚な観光都市として知られています。また歴史的には、言うまでもなく斎藤道三、織田信長などの群雄が天下統一を夢に見て、幾年も割拠した戦国絵巻を繰り広げた地でもあります。
 その金華山の、それも山頂の岐阜城跡のごく近くに、岐阜天文台を建設しようとしたのが父、坂井義雄の天文人生の始まりでした。
 父は、いわゆる天文アマチュアーとしての、しかしながら少々異端児的な天文人生であったといえるのではないかと思われます。両親ともに若くして死別し、夜間の工業学校に通学する傍ら、仕事と天文を愛好するという、苦学生であったようです。そして多分20代の学業終業を境として、その頃、在野でご活躍をされておられた山本一清先生の、滋賀県上田上村「田上天文台J、現・山本天文台に私的な立場としての志願助手を申し出て、ご指導こ預かったのではないかと思われます。その頃の朋友としては、本会会員の長谷川一郎氏を始め多くの方たちにお世話になったものと想像に難くありません。当時のことを、より理解をしたいと願う今日このごろでもあります。
 さて、以上の経緯を踏まえつつ、果たして田上天文台で何時までご指導をいただいたのかは判然としませんが、天文台建設という公私にわたる一大事実の転換点にさしかかり、田上天文台と岐阜との間の頻繁
な往復を繰り返していたものと考えて、差し支え無いものと思われます。そして、当時の岐阜市長、故・東前豊氏の支援のもと、昭和26年、在野のアマチュアー科学者の夢の実現として、新聞紙上にも報道され、金華山岐阜天文台のスタートを切ったのでした。これは、民主的な市民天文台を各地に建設するという山本先生の指導と考えられます。なお、この間の詳細な経緯は余り語られることも無かったのですが、公的に近い天文施設の建設ということで、地元天文有志の連名になる岐阜天文協会の発足と、また、その運用形態の整備、加えて天文台施設は、金華山頂に既に建設のされていた、旧陸軍の航空気象台の建物を借り受けるという体裁を整えて、兎に角も岐阜天文台は開台を迎えたのでした。ただし、この運営の形体そのものは、あくまでも任意的団体との合意的項事であったためか、数年の後には市長の交代と共に、あえなく頓挫の憂き目を見、閉台の道を辿ることとなるのでした。昭和33年当時の出来事として、今にしてもその政治がらみの終焉は、まことに惜しまれるものであったと思われます。なお、あえて申し上げますと、私共一家の山頂での暮らしは、初期には飲料水の荷揚げに始まり、ロープウェイ開通までは自給的に送り、生活費用なども、実の所、市立の施設に準ずるという毎度の補助金は支給されていたと聞かされてはいるものの、多分山頂の茶店を開いて家計を支えた、母親、静栄の努力に大きく依存していたものと解します。富士の山頂で、私的な気象観測に貢献した伝説的な野中至夫妻の事跡にも等しいものでなかったのかと、しみじみと長男として述懐をいたします。

 

 因みに、閉台に至るまでの岐阜天文台としての科学的な成果としては、口径20センチ程度の反射望遠鏡を始め、数台の器材と共に、市民レベルの天文教育に邁進したこと。特に中学高校レベルの天文合宿を地元の中日新聞社の支援の下に、「サマースクール」として教育界に問い、また、当時未だ珍しかった小口径の「シュミット・カメラ」の試作、更に、太陽及び惑星のスケッチ観測から、山本先生の唱導された、太陽からの輻射と気候変動の関係など、現代にも劣らない観点からのアプローチを試みていたことなどが挙げられるでしょうか。中でも試作品とはいえ、先述の口径12センチ、Fl.2という木辺成麿氏の光学系によるシュミットカメラを駆使しての、ソビエト連邦、スプートニク人工衛星の撮影の成功は、多分特筆に値するものではなかったかと思われます。現在も筆者の手元にその器材は残されており、いずれは博物館的施設での公開なども必用ではないかと考えております。
 なおこの事業は、後にアメリカ合衆国の人工衛星観測、ムーンウオッチに引き継がれ、同国のスミソニアン天文台からも、東京天文台、宮地台長を通じ感謝状が岐阜天文台に届けらたなどの経緯も存在しています。その後も、京都大学の宮本正太郎先生、渡辺敏夫先生、東京天文台の広瀬秀雄先生等ともご交誼を頂き、機関紙・天文岐阜の充実、また、測地分野での掩蔽観測への貢献なども、散見されます。なお、皇室の地方行啓には、義宮殿下(現・常陸宮様)の天文台ご訪問に際して、ご進講役も務めたようです。
 その他、全国的にもまだ珍しかったツァイス社のプラネタリウム設置、また、東京天文台の乗鞍コロナ観謝所誘致にも多少関係はしたようですが、多分公式的な記録などとは無縁の立場での貢献ではなかったかと思われます。

 
  
 

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