中山明慶 書簡集

 

 私の師であり、また友人でもある 中山明慶さん(神学、音楽学、美学)から米子リート研究会に度々書簡を戴きました。その中から1995年頃の書簡を集めて掲載させていただきます。内容に富んでいて、話題から話題への飛躍に富んでいて、知っている人には良く分かり、知らない人には良く分からないという中山さんの独特な言いまわしが絶妙です。私が今、音楽にのめり込んでいるのも、昔、この中山さんの話が分かるようになろう!としたことから始まります。ともかくも、1曲1曲の音楽から少し遠ざかって音楽観そのものを育てて行こうとされる方には、示唆的と思います。楽しんで下さい。

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満嶋 明様   1995年3月17日 

 イエス・キリストの聖名を賛美いたします。主イエス・キリストは、昨日も今日もいつまでも変わることはありません。我々のためにいつも働いて下さっています。

 今頃になって、新年の挨拶と言うわけではありませんが、君からの僕に対する、変わらぬ思いのある年賀状を頂きありがとうございました。いま、1月17日の阪神大震災の真っ只中の西宮市に住んでます。幸い、イエス様のお守りによって、(もう少し1秒遅く寝床から起きていれば死んでいたかも、仕事のため起床した直後の大地震でした)命があり、元気に仕事に、伝道に励んでいます。わが住まいは、大きな建物で、建築後40年たった鉄筋コンクリートの建物を3年前に内装を一新したものでしたが、建物の継ぎ目に亀裂が入ったこととか、水道管が破裂して漏水したり、断水が約1ケ月間あり、都市ガスも長いこと1ケ月半止まったことで、多少の不自由をしましたが今日でちょうど2ケ月たった今でも、避難所生活を余儀なくされている人達が約80万人もおられるのですから、そのことを思うと我々はかすり傷のようなものでした。今やっと平常な生活ができるようになりましたので、こうしてワープロに触れることが許されました。

 君の今年の年賀状に、確か、感性を高めたい様なことが書いてありました。今年の君の年賀状をどこかへやってしまい、うろおぼえなので、確かと言う言葉を入れたのです。僕には、もうそれに対して答えられるかどうか、この頃余り書物を読んでいませんのですが、大学を去りますと、いろいろと客観的にものが見えてきます。大学では見れなかったこと、特に、何のためにこれまでの学問が必要であったか、重箱の隅をつついて暮らしていたように思われてなりません。大学のときにも感じていましたが。まだ、満嶋君の研究のほうは具体的で人間の生命に直結している問題でしょうから、やっていても肉体的な疲れが殆どで精神的疲労は、僕などと違うと思う。僕のやってたことは、目に見えない世界をまさぐっている程度で、適当に解釈してたように思います。人類のために貢献しているとはいい難いように思います。今現在は、違います。これについては、また別の機会にゆずりましょう。 

 さて、満嶋君は、今でもコーラスの仕事をしていますか。こんな話しを君にしたことは、ありませんでしたか。孔子の言った言葉で、どこに書いてあるかは、忘れましたが。「人間の体は、百骸九穴からなっている」と言うことです。即ち、百骸とは、多くの骨で人体が構成されていますが、穴はたったの九つしかありません。これは、男性ですが、女性は1つ多い。この穴が感性と深い係わりがあるようです。孔子曰く、この穴を満足させながら人間は生活をエンジョイしているのです。すなわち、この穴の殆どが、頭部にあります。目2ケ、鼻2ケ、耳2ケ、ロ1ケ、ここだけで7ケ所、そして、下には、排泄口(生殖含む)2ケがあり、合計9ケとなります。人間に限らないとは思いますが、人間はこの穴を満足させるためにいろいろと生活の営みをしているようです。これまでの、西洋文化の心理学者たちにも通じるものです。ここでは、芸術関係について言いますと、目は、見たい、知的には知りたいものを見たい。絵画や彫刻、建築(これには日常的なことも入りますが)など。鼻は、嗅覚に関係しますが、料理などと口にも関連していますが、勿論、料理は他にも視覚のことも関連していますが、わが国でも「香道」なるものがありますから、匂いを嗅ぐ。きき酒やコーヒーのカップテスターが入ります。耳は、やはり左右必要ですが、物理的にだけではなく聴覚に関連したもの、卑近な例ですが、井戸端会議的なうわさなど聞きたくて聞きたくて、しょうもないものまで、含まれます(現代の雑誌、特に週刊誌は視覚ですが噂話でいっぱい)。口は食欲など言うまでもありませんが、うたを歌うことや井戸端的な噂を喋りたいことまで含まれます。下の方では、排泄(これは生命維持のために一番大切ですが)の他に、セックスの性的営みの満足感も含まれています。人間はこの穴の満たされ方が欠乏すれば、不満たらたらとなります。例えば、女性にしかヒステリーという言葉が適用されないのは、女性の子宮のことをギリシャ語でヒステリコスといいますから、ここが満たされないとヒステリーになるのです。このようにどこかの穴が満たされないと、ストレスがたまりますし、目の見えない盲人や耳の聞こえない障害者にはその欠けた感覚を補うために残りの他の感覚が強力に働くことになるようです。江戸時代の検校や勾当などの盲人の音楽家が多く活躍しました。目の代わりに耳が異常に敏感に働き素晴らしい才能が育まれたのでしょう。このほかにも、この人達は、他の感覚も異常でした様です。中山太郎の日本盲人史(鳥取大学の僕のいた研究室に置いてありました、公費で図書館で買いましたので)読んでみてください。今、僕のあとに新しい音楽学の女性の内藤先生がおみえのようですが。彼女の専門は、スラブ系の音楽ときいています。話しは余談になりましたが、ようするに、このように、人間は九の穴を満足させながら生活を無意識のうちにしているように思います。芸術のほうでは、これらを満足させながら作品を制作しているように思います。でも、ある特定の感覚を強調したり、中には媚びるようなドゲツイ表現になることもしばしばあります。特に、音楽の方で、オペラなどでは、英雄的な人物のある部分(声の素晴らしさや容貌など)を強調したり、プリマが、観客にそれをこびるような表現をしたりしています。 

 芸術の表現で、一番大切なのは、神(ヤーウェなる神、全知全能の神)をたたえるために生まれたものが多くあります。ルネッサンスやバロック時代の絵画、彫刻、建築(教会建築)、そして音楽にはその素晴らしいものが多くあります。ルネッサンスの絵画や彫刻では、ミケランジェロやダビンチ、音楽ではジョスカン・デ・プレやハインリッヒ・イザークやラッソなどの巨匠の作品があります。勿論この時代は、すでに、世俗的なものまで制作、作曲されていますが。しかし、この時代の作曲者は、世俗的な作品の中より選んでそれを改変して、いわゆるパロディして、聖的な作品にしてそれを高めて主に捧げています。ルネッサンス時代のドイツのハンス・レオ・ハスラーの「恋のうた」をバロック時代では、我が国の賛美歌136番「ちしをしたたる主のみかしら」でよく知られていますが、J.S.バッハのマタイ受難曲(パッシオン Passion)のなかにも登場しますし、同じバッハのクリスマス・オラトリオのなかにも登場するコラールに用いられています。パッション(受難曲)に、このコラールを用いているのは、主の熱い思い(パトス)をあらわすためと思われます。我々人間が恋をしますと熱い心の思いが現れますのと同じように、この恋の歌をイエス様の人類に対する熱い思いを象徴的(あるいは表象的)に表すためにこのメロディを用いているのです。更に、これがクリスマス・オラトリオのほうに用いているのは、「救い主」はすでに十字架を背負ってお生まれになることを象徴しているのです。ここには、バッハの深い神学上の解釈が作品の中に生かされているのです。バロック音楽をすこしかじったのでこのことが理解されるのです。

 話しは少しそれますが音楽史の流れのなかで、単旋律が強調される音楽の時代(AD580〜1000頃)は、強力な権力者が君臨していたことが偶然のようですがあるのです。たとえば、単旋律だけの曲は、こ存知のようにグレゴリアン・チャント(グレゴリオ聖歌と訳されていますが、グレゴリュウス聖歌と言うほうがよいようです)の時代ですが、この聖歌はl 9世紀を経て今日までも作曲されてはいますが、特に中世の、この時代は、ローマ法王が絶大な力を持っていたのでした。その象徴の一つです。また、バロック時代(l600一l750)のヨーロッパの諸国には、絶対君主の殿様が、ちょうど日本でも戦国時代と一致しますが、君臨しており、ここでも、メロディは単旋律が強調される音楽がでています。オペラが、それで、歌手が朗々とハッキリした旋律を歌っています。これに対して、庶民的な人間の本質(父なる神から離れる)が出てきだしたルネッサンス時代は、ポリフォニー音楽の時代になっています。バロック時代も中期から後期(本来後期という言葉は良くない、盛期の方がよい)にはオペラの二極性、善玉と悪玉の原理、これの音楽構造は、通奏低音(ゲネラルバス)即ち、ソプラノとバスの二極性、ここには、バッハやヘンデルなどでは、特にバッハでは、この上にポリフォニーが内包されています。これも、同じ単旋律と言う音楽上の表現でも、ローマ法王の時代とは様相が違います。しかし、絶対的なものの下では.やはり単旋律の音楽が中心となっているのです。わが国の音楽でも、天平時代の雅楽にも、ひちりきの笛のメロディは天皇の権力を象徴しているように思われます。また、能楽の囃子の音楽や、江戸時代に流行した三曲合奏(箏、三味線、胡弓または尺八)など聞いて比べてみてその時代背景を感じ取ってみて下さい。単旋律から進化してポリフォニーになったという進化論的な考えではなく、もっと深く時代精神と音楽の構造との関係を感じて下されば、とおもいます。

 長々と、だらだらとまとまりの無いことを羅列してきたようですが、初めに孔子の考えを紹介しましたように、感覚は、それぞれが補いあって磨かれていきます。音楽だけでなく、他の芸術との関連が新しい感性を生み出すことになるとおもいます。例えば、音楽を聞いていると酒に酔ったような体験がよくあります。これは、アフリカの狩猟民族が縞馬(ゼブラ)とかキリンなどを捕ってきて、それを解体し、肉を御馳走になったあと、そこの種族たちは、太鼓のリズムだけで、徹夜で踊り、へとへとになり、ちょうど酒に酔っぱらったようになっているVTRをみたことがありますが、酒の味を知っている人の音楽とそうでない人の音楽や芝居の役者の演技は多少のズレがあります。しかし、酒に酔ったことの無い人の演技はどこか迫力にかけますが、しかし、本当に酒を飲んで酔ったままの演技は、これまたみられませんが。しかし、音楽では、この体験をもっている人は、人(観客・観衆)をジワジワと少しづつ酔わすことができます。長い時間の曲になればなるほど、マーラーやブルックナーなどのシンフォ二一などはこのことが大切のように思います。酒を知らなくても前述のアフリカの人達の体験は、また、大切なものとなりましょう。セックス的体験も芸術にはよく現れています。この酒のような体験と同様なところがあります。

 何だかまとまりがありませんが、この辺で。殆どのいい本は古本屋が持っていき、処分しました。ガラクタの雑な本は今でも、湖山の家のダンボール(沢山積んでいる)にあります。楽譜もまじっています。ですから、思いつくまま書いてみました。暇があれば、じっくりと読んでご意見下さい。それでは、これで失礼します。このワープロを打ち始めたのは朝11時で終わりが17時でした。この間いろいろの用件かあり、つじつまが合わないところがあると思いますがご寛容のほど宣しく。

お元気でご活躍下さい。奥様を大切に。お子様のすこやかな成長をお祈りいたします。

 


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満嶋 明 様  1995年6月29日

 主イエス・キリストの聖名を崇め・賛美いたします。イエス・キリストは、昨日も今日もいつまでも変わることはありません。

 リートの会の会報が届きました。気の着いた点を任意に羅列致します、お許しを。文字が大変小さいので中身が濃いのは読まなくても分かります。しかし、とても難しそうな印象を与えています。問題意識のある人には大変に充実感を与えます。しかし、「するめ」を噛むような感じです。そのうちにうま味が出てきます。この「味」と言う字は、将来分かると言うことでしょう、「未」が入っています。すぐには察知できないと言うことでしょう。

 『リートって何?=入会のおすすめ(満嶋 明)一再掲載一』 これは前回のものに手入れがなされていましたね!詩はこの前紹介しました白川静著「漢字の世界」(東洋文庫/平凡社)とか大野晋著「日本語をさかのばる」(岩波新書)などを見ますと、詩は(言)+(寺)ですが、この(寺)は志の「シ」の音から来ており、借音です。意味は志の方で、「誌」の方の意味になります。ご確認を。これが日本における本来の「うた」の意味に近いものです。「うた」に関して、日本語に「名のる」と言う言葉は、朝鮮語(韓国語)で、ノレと言う発音でうたの意味があります。天平寺代、奈良時代、平安時代には朝鮮文化が日本全国を風靡していました。名のる時、「われこそは一一一OOOOであ一る」(これは現代の言葉を遣いましたが)のように歌のように、毎年、正月15日、「宮廷歌会始め」のあの和歌の朗詠のような調子で名のっていたのではと思います。神社の宮司が祝詞(のりと)を上げますが、ノリトはこの朝鮮語のノレから来ているのではとおもわれます。「歌」は(哥)+(欠)からなっていますが、(食)+(欠)が飲と言う字になったように、(哥)は音を伸ばす○−○一のように、(欠)は人が立って「あくび」をしている状態ですから、「うた」そのものより、歌っている状態に当てはめたようにおもわれます。また、謡は「うたい」そのもので、うたいながらなにかの動作をあらわしているので、能楽がそのものずばりです。NHKが昭和20年代後半に歌謡曲と言う言葉を作りました。これは流行歌と言う言葉は全国に放送する立場ではちょっと品性に欠けるというので歌謡曲と言う新しい概念を打ち出したのでした。意味は勿論流行歌のことです。うたは、「疑い」とか「うたた寝」とか「うたた荒涼」と言うことばと関係しており、果てしなくどんどんとつづくことを意味しています。ドイツ語の Weise については、今の私には調べようがありません。MGGの音楽百科事典も今は山本喜三さんところですし、ドイツ語の小さな辞書ではメロディーと出ているだけですから、語源の探索は出来ません。ドウデンのエチモロギーなど引いて見てください。詩 = 誌の意味にちかい「うた」(日本本来の歌の意味)に近いように以前鳥取大学に在職の頃に調べたことを記憶していますが、自信ありません。詩吟は、漢詩を日本語に訳し、それを日本流に節付けたもので、詩は中国の漢詩の作法で作られますが、うたは我が国独特の節し回しです。私もある流儀の詩吟を習いましたのでこれについては多少の理解があります。中国人でしたら四声をうまく遣って日本の詩吟とは異なっております。しかし日本で詩吟のために漢詩を作るときは漢詩の作法によりますし、なんとも日本的です。うまく文化を融合しています。

 リートについて私の感じたことは、常識はさて置き、 Volks-、Kunst- のことについて一言申しますと、ドイツ人はとにかく物事を考えるときは、ものを分けて考えているようです。分析的です。考えやすいからです。しかし、ここでわたしの言いたいのは、例えばシューベルトの「冬の旅」の中の「菩提樹」のうたは、クンスト・リートのでは、やはり一連の中で即ち連作歌曲として意味が出てきてこそ、クンストになるのです。しかし、ウィーン少年合唱団が単独で歌う「菩提樹」では、中の部分がありません。これらは巷に広まった歌いやすい部分のメロデーを取り上げています。大衆化したものですから、作曲者が明確に分かっていてもフォルクス・リ一トとなってしまいます。その逆もあり、フォルクス・リ一トがクンスト・リートとして作曲者が改変したものもすくなくありません。モーツァルトやブラームスのメロディはこのフォルクス・リートをあたかも自分のオリジナルの曲と思わせるほど芸術的な歌曲としているものもあります。ですからモーツァルトのメロディはとても親しみがあると言われるのはここから来ているのでは。これは推察ですので真偽は問えません。 

 「うた」は我が国では今アジヤの諸国にも影響をあたえているカラオケがあります。これはアメリカで、ピヤノ協奏曲の独奏部分をカットして録音されたレコード、また、弦楽四重奏の各パートを一声部抜いて録音されたレコードや更にはドイツ・リートの歌を除いたピアノ伴奏だけのレコードが今から50年位まえにあったようです。これをマイナス・ワン・レコードといって、カラオケの先駆があったのでした。この前置きはさて置き、カラオケは日本の新しい音楽文化ですが、よくよく観察しますと、とても「うた」の意味を表しています。ある人がマイクを持ちますと延々とうたが続き、マイクをはなさないですね!これぞ「うたた寝」「疑い」と関連していることがうなずけますね。「うたた寝」はとても気持ち良く、なが一く眠ったような気になり、「疑い」は、疑いだしたらドンドンとつぎから次に疑いがつづくでしょ。どうですか、少しは理解されますか。うたについてはひとまずここまで。思いつきにて失礼。 

後はまたの機会に。全部読んでからに致します。お元気で。

 


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満嶋 明 様    1995年7月7日

  主イエス・キリストの聖名を崇め・賛美いたします。イエス・キリストは、昨日も今日もいつまでも変わることはありません。

  海外出張でお忙しい時に電話で失礼致しました。お帰りになりましたらご一報下さい。鳥取の湖山に荷物の整理をしに返りたく思っています。もし、時間的に貴君と会えるならばいろいろの雑な本を差し上げてもと思います。役に立たないかも知れませんが。さて、前回の続きですが、吉田旅人さんのドイツ・リ一ト論についてはユーモアにあふれたところ、また、真面目な大切な常識を越えた論述のところは大変に参考になりました。ドイツリートを歌わなくとも(演奏にたずさわらなくとも)他のある分野の演奏に対しての姿勢を学ばされました。ドイツ人に限らずヨーロッパでは演奏するまえに、演奏曲のイメージを作るためにこの曲のための様々の勉強・研究をしています。今回の吉田氏のリート論は基本的なことでこれはドイツリ一トを歌うための修得条件のようなもので、曲に対するイメージはこれ以外のところから曲のイメージを作っていかなければなりません。演奏は表現ですから。 

 表現とはexpression と英語で言います。ドイツ語でもこれに相当する言葉は、Ausdruk ですが、これは ausdr殘en の動詞からきているのですが、英語の expression は、もともとラテン語の exprimo の農業用語で「果実をしぼる」の意味からきています。ドイツ語の方は多分医学用語の「膿を絞り出す」ところからきています。いずれにしても「ためた」「たまった」ものを絞り出すところからきています。これが19世紀になってから芸術的な表現にまた哲学的な思想表現に用いられてきました。つまり演奏するには、演奏者の中に「なにかがなければ」は表現ができません。いわゆる「果実」がなければなりません。(エキス)+(プレス)ですから。その果実を実らせるために、様々のイメージをわかせるための「肥やし」が必要です。その「肥やし」のために「演奏される曲」の研究(この言葉はやや堅くるしいのですが、適当な言葉がありません)が必要となるのです。痩せた果実やひねた果実、しなぶけた果実(こんな言葉ありましたかな?)のままの演奏では聴く人の心を満足させられないと思います。この次の韻律入門(貴君のもの)も、前述同様のもので続けて掲載し啓蒙して下さい。 

 最後に西洋音楽では五線譜を用いますが、これが絶対的な音程ではないこと、楽譜は歴史的に音程(高さ、低さを書いていますが)五線譜では表すことの出来ない音が西洋でもありますし、日本は、例え日本歌曲でも、アラビヤやギリシアの音楽と同様(これらは東洋に属しますが)五線譜に書けない、また書かれた音でも五線譜の音程ではありません。ドイツ・リートにもあるように思いますが、ここでは余り神経質になることは良くないでしょうが、しかし歌手によっては多少あると思います。音程と言っていいのか音色と言っていいものか判断に苦しみますがこの点は余りにもここでは論外とした方が良いと思います。しかし、いつか感じていただける時期もあると思います。例えば、フィッシャー・デイスカウの演奏で、シューベルトの「冬の旅」の全曲演奏(レコード)を第1回目とその次とを比較されるとこの問題がでてきます。大変な作業になりますが曲のイメージづくりに参考になると思います。これはこれだけにならないでこれをするまえの作業は前述のことが大切です。イメージ作りは楽曲分析から始まりますが、この楽曲分析をする場合でも、歴史的な研究(この中はとても広いものです)、音楽通論的(楽典的なものは前述の韻律論やドイツ語の発音などの常識の中に入ります、といいますのは、かなりの高度な数学研究で数学者が因数分解が出来なくて、因数分解をマスターしてから新しい研究をするようなことではなしに)な研究が必要です。 

長々となりましたが今日のところはこれにて失礼します。

では体に気をつけて元気に帰国して下さい。

 

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満嶋 明 様   1995年12月21日

 主イエス・キリストの聖名を崇め・賛美いたします。クリスマスおめでとう。

 今回は、お知らせのためにお便りを致します。

  ・・・・・・・・・中略(私信)・・・・・・・・・

 前回の手紙で、<会報の中で小生の「expression」のところで、ドイツ語で、これに相当する言葉は、Ausdruk・・・云々・・・英語のexpressionはもともとラテン語のexprorer(つづりあやしいのでラテン語の辞書で調べてください)の農業用語で「果実をしぼる」の意味からきています。のところですが、会報7ページの下から7行目のexprimoの綴りでよかったですか。どうも違っているようにおもいます。>のところですが多分expressioの綴りのようです。ので、訂正ねがいます。ではこれで本日のところは失礼します。奥様、お子様も主のお守りがありますように。

 


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満嶋 明 様  1996年l月8日

 主イエス・キリストの聖名を崇め・賛美いたします。イエス・キリストは昨日も今日もいつまでも変わること無く、私達を守り、恵んでくださっています。 

 新年明けましておめでとうございます。年賀状有難うございました。旧約聖書の伝道者の書の1章2節と、般若心経の色即是空、空即是色などを思いだしました。 

 昨日、一昨日に、2年半ぶりに鳥取の湖山の家にかえりました。いろいろと整理しました。また、近いうちに参ります。今月の終わり頃か、2月に入ってかに帰ります。その時、雪か降ってこなければいいのですが、言が降って来るようでしたら、3月になるかも知れません。また連絡いたします。久しぶりに帰ってみますと、大変に周辺がきれいに区画整理され、予定どうりではありますが少し感慨に耽りました。また、鳥取大学の周りの道路も「わかとり国体」までに予定されていたものがやっと完成していて、これまた感激でした。小生にとっての過去が無くなってとても素晴らしいものとなりました。嬉しくなりました。 

 家の整理と昔のものを片付けていましたところ、吉田征夫氏の「美しき水車屋の娘」のリサイタルのPR用新聞記事が出てきました。持ち帰っているつもりでしたが、見当りません。たしか4〜5年位前の日本海新聞に小生がこの演奏会(日本キリスト教団鳥取教会での)の紹介文を書いていました。この演奏会の意義などを書いています。ドイツ・リートの日本での一つのあり方を述べています。これは我が国での西洋音楽の演奏(クラシック音楽の)あり方にもちょっとふれています。彼、吉田氏は小生がNHKの”FM夕べのひととき”を退く記念演奏会でも、ドイツ・リートを歌って下さいました。同じ方法で、自分で訳したドイツ語の内容を日本語で自ら朗読し(あらかじめ録音していたものを流した後)ひき続いて原語で歌われたのです。ですから、ご存知のように、日本人(日本語で育った人をここでは指します、といいますのは外人でも日本語しか耳にしていない、このひとのことをさす)には、内容が少々理解されたあとは、ドイツ語の響きやピアノの響きなどからその内容の意味がさらに深まって行くことになるのではなかろうか。これは、他の器楽音楽でも同様に考慮しないと、単なる音の組み合わせだけの音響効果ぐらいで、そこに多少の感情か感じられるかもしれませんが。しかし、その感情も自分がこれまでに培ってきた範囲内で、決してそれに相応しいものであるかが分かりません。

 例えば他の芸術ですが、今までそんな馬鹿なことはなくなっているとは思いますが、かつて、ボストン美術館に行った美術家の人の話ですが、日本の絵巻物が西洋の絵画の様に陳列されていました。と言うのは、この絵を見るのに進路の矢印が西洋風に左から示して有ったのです。我が国では絵巻物は右からですので、ここの美術館の学芸員が誤ったか、これまでの自分の知識・感覚や考えで張りつけたのであろうか。我々にも、同様のあやまちがひょっとするとあるかも知れません。最近バロック音楽や中世ルネッサンス音楽の古楽器で、その時代の演奏法によって演奏されていますが、ベートーベンの第九シンフォニーでさえその傾向があります。レンブラントの「夜警」の絵画はここl 5年ぐらい前までは、うす暗いものとして見られていたり、画集でもそのようなものが載っていました。ところが、バチカンの礼拝堂の「最後の審判」などで知られるようになった、絵を洗浄することがはじまり、昔のオリジナルの輝きが復活したわけです。「夜警」も同様に輝きを放ちました。それで、新しい画集ではこの輝きを取り戻したものが載っています。音楽でもこれと同様に当時の響き、これには調律の問題が現れますが、これについてはここでは置いておきますがオリジナルの響きはこれまでのロマン派の影響によるものとは全く違った意味があらわれています。 

 こんなことを考えていますと、音楽の本物とは、本物の演奏とは何なのかなどの疑問が湧いてきました。このことについては、またの機会に譲りましょう。今日はただ、絵のほうでの、版画やエッチングなどの存在とよく似たところがあるということだけを指摘して貴殿にもいろいろと意見をいただきたいのです。今日はこれで失礼します。

ご一家に平安がありますように。シャローム。

 


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