悪性腫瘍の告知について(医療機関の皆様へ)

最近、ある症例を経験し、告知について考えさせられることがありました。
88歳のおばあちゃんで、胃がん術後・癌性腹膜炎・癌性疼痛で在宅医療のお申し込みがありました。
疼痛は緩和ケアのおかげで、デュロテップパッチ(2.5)で完全にコントロールされ、全く痛みはありませんでした。

家族の希望で告知されていないということで、気丈なおばあちゃんで、踊りなどもするくらいの方で、家族の話によると、「非常にがんこで、自分の気持ちをまげない人だ」ということでした。

初めて訪問に言った日、話し掛けてもすぐに返事をしてもらえず、しかたがないので、私自身の話などをして、「これからすこしづつ、仲良くなってください。又きますから、夜でも来てほしかったら、来ますから」と告げて帰りました。
 顔貌は、誤解をおそれずにたとえて言えならば、まるで「カニ」のように警戒心を剥き出しにしているようでした。

順調に往診をして、趣味の踊りのことなどを、昔の写真などを見せてもらいながら、話をしました。すこしづつ慣れてきていただいて、私の訪問を待っていてくださるようになりました。

私も調子にのって、趣味のオカリナを吹いたり、私の家族の話などをしました。印象としては、いつも、なにか不機嫌で、怒っているような表情をしていました。

食欲がだんだんなくなってきた、2週間ほどしたある日、痛みが出現。手持ちのオキノーム散を内服して収まりましたが、私が訪問した折に、ボーっとした表情で、いきなり、「先生、私の病気はなんですかね」と言われました。

ぎょっとした私は、迷いましたが、家族を振り返りもせずに、「ばあちゃんのおなかの中にシコリができていて、それがつかえて食べられんのだと思います。」と遠まわしに答えました。
「そうですか」と淡々と答えるおばあちゃん。

その翌日、数人の親類に「病状を教えてほしい」ということで、お話をしました。
「もう数日ですから、皆さんでご用意をお願いします」と答えました。
家族はかなり動揺しましたが、先日、私が告知したことを受け入れてくれました。
娘さんは感謝の言葉を口にしました。

1−2日してその後急速に胸水がたまり、呼吸困難が出現して、夜中に「苦しいから、先生をよんでくれ」と家人に頼み、私が往診しました。
酸素ボンベをかかえて、タクシーでかけつけた私に、もうろうとした意識の中で、「どうも」というようなことを、おばあちゃんは言ってくれました。

3日後、訪問診療の途中に電話があり、かけつけてみると、すでに呼吸は停止し、帰らぬ人となりました。

家族の希望といえど、悪性腫瘍の患者本人に告知をせずにいくことは、臨床倫理上、大きな問題があります。まず自らの病状を知る権利を、あきらかに阻害しています。明白な人権侵害ともいえるわけです。

2005年のアンケート調査(全国の中・小規模(50〜300床)の一般病院1000か所を無作為に選んで実施。)では、余命6か月以内の「終末期」の患者本人に対し、病院側が病名を告知したケースは、全国の一般病院で平均約46%であることが、尊厳死に関する厚生労働省研究班の初の全国調査で分かった。また本人に延命処置を希望するかどうかを確認する割合は平均約15%だった。
「必ずはじめに患者本人」に告知する割合は、全病院中3・7%だった。

では何故、告知がなされずにいくのでしょうか?昨年10例ほどの悪性腫瘍の患者を看取った経験では、告知されている例のほうが少ないと実感しております。
これをもとに、私なりに考えてみました。

1、医療者がまず家族に告知の是非を問えば、家族に判断をまかせることになる。その際、家族は何が問題で、何が必要なことなのかが、初めてのことであり、医療側の情報以外に材料がない時点で判断を強いられる。となると当然、穏便な方向にいく傾向がある。

2、一般的に、老人の悪性腫瘍患者の場合、家族や医療者も含めて、年齢的な見地から、人権についてあまり深刻に考えない風潮があることも否定できない。

3、結論的には、医療者を含め、すべての市民に「病名の告知」をされないことは、人権侵害の恐れがあり、絶対に告知が必要だという理解をもとめる。さらに、自らの意識がはっきりしている状態で、理解と意思表明をする必要があり、入院時、治療開始時には、それを確認するシステムを設けるべきだと考えます。


基本的な姿勢としての告知は、生命の尊厳、人権の尊重という立場から、100%本人になされるべきだと思います。

しかし、年齢、体力、精神力、認知症の有無、意識レベル、家族の関係などを考えて、なされないケースも、一定の条件で許容できると思われますが、意識や精神力がはっきりしている例では、この症例のような例が、比較的告知必要なケースであったのではないかと考えます。