日田殿(ひたどん)の里





 今から900年前、平安時代のこと、日田地方を治めていた大領(たいりょう)

、大蔵永興(おおくらながおき)にそれは力持ちの永李(ながすえ)という息子

がおったげな。

 母親が女丈夫で、生まれた子どももすばらしい体格の持ち主でした。父は病弱

で永李が15になる前に亡くなりましたが、自分が身体が弱かったので、少年永

李の体力をつけるのに熱心で、毎朝永李に仏前にひと握りの米を上げさせ、次の

日にはもうひと握り、だんだんと量を増やしていきました。

 こうやってとうとう永李15才の元服の日には、1石5斗(約200Kg)の

米びつを持ち上げたというほどです。背丈は6尺以上(2m)で、相撲を取らせ

れば負け知らずで、みんなから鬼太夫(おにたゆう)永李と呼ばれていましたが、

やさしく正義感あふれる少年でした。



 永李16才の時,京都で相撲の節会(せちえ、全国大会)が開かれる事になり、

永李は日田地方の代表として、京都へ向かいました。そのころ、全国で相撲がさ

かんで、優勝する子とはその地方の名誉でもあり、いまでいえば甲子園の高校野

球のように、地元の期待をになって、永李も上京したに違いありません。



 永李は大原八幡宮に参ったのち、慈眼山(じげんざん)永興寺(ようこうじ)

に自らの身代わりとして兜抜毘沙門天立像(とばつびしゃもんてんりゅうぞう)

を奉納しました。これは永李の姿を写したものと言われ、身長2m、胸囲1mあ

るそうです。



 太宰府の手前の小川にさしかかったころ、川原で遊んでいた童女が近寄り、



「もしや、これから京の都に相撲の試合に行かれる、鬼太夫永李様ではありませ

んか?」と声をかけてきました。永李は大変驚きましたが、



「いかにも、私は鬼太夫永李と呼ばれている者で、これから京の都へ行くところ

ですが、」と落ち着いて答えました。



童女は、「あなたの、この相撲大会で一番の強敵”出雲の小冠者(こかんじゃ)

”の事はよく知っていますか?」と尋ねます。



「いや知らない」と答えると



「その大怪力小冠者は全身鉄の皮膚であるが、唯一カ所だけ額の上に柔らかい肉

があるから、それを押せ」と童女は自らの額を右手で押さえた。



「それというのも小冠者がまだ母親の体内にいる時、母親が、”鉄のように固く

強い人間に育ちます様に、その代わり、私は毎日鉄の粉を食べて私の好きなウリ

を食べませんから。”と言って出雲の神様に願かけをしました。しかし燃えるよ

うに暑い夏の盛りに、熱く焼き付けられた砂鉄が喉を通らず、とうとう母親は、

約束を破って、一度だけ好物の甘ウリを食べたのです。」



「そのために鉄のように強く固い男、小冠者も額の所にわずか一寸(3.3cm)

程に円く柔い肉が残ってしまいました。出雲の小冠者に勝つには、そこを強く押

すしかありません。誰も知りませんが、疑わないでください。相撲の節会の当日、

白鳥が西北の空に現れ、額を押す時期を教えるでしょう。」



永李はただ驚き「ありがとうございました。」と頭を深々と下げ、お礼を申しま

した。さて宮中での相撲の節会に勝ち進んだ永李はとうとう決勝戦で出雲の小冠

者と対戦することになりました。色浅黒く眼光鋭く、身体じゅうが力瘤のかたま

りで、身長は低く永李の肩くらいしかないが、胸が厚く、あたかも大地から生え

てきた大木にぶつかるような感触でした。力だけでなく動作が機敏で、相撲の技

に詳しく、特異技は相手の腹を蹴りあげることで、何人もの選手を蹴り殺してき

たのです。



さていよいよ永李は仕切から全身の力をふりしぼって立ち向かった。小冠者は砲

弾のような頭を永李の胸に顎にぶつけてきて、とりつくしまもありません。全身

から油汗が流れ落ち、力瘤がはりさけるように盛り上がり、龍と虎の戦いといえ

るような様子でした。



 西北の空に白鳥が飛ぶのを見て永李は童女の「額の三寸程の柔らかい所を強く

押すしか、勝つすべは有りません。」という言葉を思いだし、そうだ、と、苦し

い中腕を伸ばして、下から、小冠者の額の三寸程の白い部分を押しました。



すると、どうでしょう、今まで永李さんにまたがって、優勢を誇っていた、出雲

の小冠者が突然苦しみ出し、永李さんの首を絞めていた力が急に弱くなって来ま

した。永李さんは、態勢を入れ替え今度は、今までとは反対に上になって、出雲

の小冠者の額を力いっぱいに押し続けました。出雲の小冠者はとうとう額が割れ、

血をタラタラ流しながら、息絶えてしまいました。

 永李は、やっとの思いで、強敵出雲の小冠者を倒し、ついに日本一の相撲取り

になりました。



 会場は今までずっと優勝していた出雲の小冠者が破れたと言うことで騒然とな

りました。やがて天皇の御前に召され、お褒めの言葉をいただき、「なんでも、

そちが望むものを、とらわすから、なんなりともうせ」と申されました。永李は

迷わず「私の今日あるのは日田の氏神様大原八幡宮のおかげです。願わくば日本

一の学者の筆跡を得て奉納したいのです。」

 天皇は永李の欲の少ない神を敬う気持ちを賞賛されて、当時菅原道真なきあと

日本一の書家大江國房に”大波羅野御屋新呂(おおはらのみやしろ)”と書かせ

た額を贈られました。今でも、その額は大原八幡宮にあります。



 慈眼山下の日田神社には、歴代の相撲取りが寄進した、石柱がたくさんあり、

中津出身の名横綱双葉山も横綱になって、奉納の土俵入りを披露しました。



永李はこれ以降49才にいたるまで、15度、相撲節会に召されて優勝を続け、

35年間にわたって日本1という相撲の記録を作ったのです。



しかし49才の時、相撲節会から日田に帰る途中、発熱し、小石原峠を越えて日

田の境界線にさしかかった山中で息を引き取りました。



 踊りや謡曲にも造詣が深く、中央の文化をいち早く日田に持ち帰り、文武両道

にわたって日田の発展のために指導者として働いた永李を、日田の人たちはいま

でも”日田殿(ひたどん)”と呼び、尊敬と畏怖の念をこめて、親しんでいるの

です。



●日田どんゆかりの地めぐりコース

日田どんについては、私もあまり詳しくなくて、資料を紹介しているつもりのペー
ジですが、日田どんゆかりの地として

1、慈眼山永興寺(ようこうじ)
2、その前にある日田神社(土俵もあり奉納試合が行われる。)
3、大原神社(永季がすもう節会で優勝したときに、額を奉納した)
4、前津江村大野老松天満社旧本殿
豊西記に延久三年、日田郡司大蔵永季が相撲節会で、朝廷
より賞を賜ったのは、神助によるものとして、
老松祠を創始したと記されている。(国指定重要文化財)

くらいでしょうか?
大原神社の本社裏手に日田どんの祠がありますので、それにお参りして、大原茶
屋で花てぼ弁当をお昼にお召し上がりになるのもなかなか風流ですよ。(できれ
ば予約したほうがよい)
慈眼山はそのままいっても仏像は見れません。寺村さん(22−5560)とい
う方に連絡が必要だそうです。
ながめが良くて日田市内を一望できるので、眺望もお楽しみください。そこに芭
蕉の句碑もたしかありました。

日田どんというお菓子もあります。市内の松浦菓子店(隈町)ではきさくな松浦
さんがしっかりと説明してくれます。

そのほか小石原の山奥に日田どんが高熱を出して日田にたどり着く前に息をひきとっ
たという岩などもあるそうですが、見物というほどではないので、、、


最終修正99年1月4日

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