祭囃子の歴史U

田村和風翁が昭和29年に書き残した文書を引用します。

  (翁が書いた文書をそのまま、表示している。但し原文は縦書きです。−−編者)

  • 御歴代神武天皇始

    古代囃子控

      昭和二十九年 田村 和風

     囃子由来
    奉祝祭囃子に付きまして一口に是れを申しますと、笛太鼓を用いて 囃子を致します。多くは神前にておこなうものであります。
    古代に傳へ來る江戸囃子。
    私共が少年の頃ですが、

    明治初年時代の古人の方々により申傳へてまいりました。
    其の時代には江戸囃子なぞと云ふてをりました。
    明治十年の頃になって浅草蔵前に植木屋貸席舘賀有った。
    囃子方古老集合致して研究し現在の切囃子に改正になり、私は
    其の節の事より述べます。

    私は昭和二十九午年を迎へ八十九翁になります。
    祭囃子第一般の好み自身にて考へますに、明治十二年に始め十四才で
    ありました。
    自宅には父親の朋友大勢が集り夜になりますと囃子を致します。

    親以來習ひ請けて十人連中にて毎夜廻り宿にて習ひ今日に至ります。
    好みすぎて他へ出掛心配をかけた事もあります。
    この囃子只々楽しみと致せば一番であります。
    次に囃子のいわれを記す。

    囃子い付いて述べますと第一に笛が始とす。
    笛には、七ッの穴があり、之人生をためす上より又は下より中の指を用ひて
    歌を作るものなり。

    屋台の打込を上七ッ下七ッこれを陰陽なり。
    第二は二ッ打ます。
    神前を拝し天地と思ふなり。

    是より地を打ちかみ五ッ下七ッ十二打ッ者也
    中に三手打ちます、同じ十二である。
    囃子の文句五通り其の内に中の切を打込む

    曲打又は詰下し迄で一廻り打終って終わり

    昇殿
    笛の吹込二句より太鼓四ッを打込べし

    天ドンドン天ドンドン天ステツクツドンドンドン
    天天ドド天ツクツツ(コリャ)天天
    一二三四(コリャ)天天ドドドン
    天ドドドン天ドンドド天ステツクドンドンドド
    笛社ロ社ピ
     天天天(止テ)鎌倉になります。

     鎌倉笛吹込有ります

    二の音より太鼓天ンと一ッべし

    笛の言葉ピヒャアオイトロロ天ン天ン
        ドドドンドンドドドンドドドン
        天ンストンドドンヤどど天ン天ン

    笛が七廻りにて鎌倉終り
        打方は一分つまりとも云ふなり
        大間とも云ふなり

    四丁目
     スッテ天スッテ天ストツクツ(コリャ)

     天天コリャツツツ
     天天テケ天テテドンドド
     天ンテテドドドンテテドドドンヤ
     スッテテツクツクテテツクツ
     ドドテテドンドン天トテトドン
                 ドドン「止め
    地を打ち互に打ひ頃合を見て上の人「玉」打ち始めてよい。
    玉の終りを合地打ち上がります。
    笛の文句讀み打終って止める
    下座の人変り玉打っも良し

    笛につきまして切る「ピ」
      社ヲ社ヲ社ライトロ
      テテ天ドドドン二回天ンテテドドテテドドドン
      ドドドントロ社ライトロピトヒイヒヒヒー
      トロヒャライリ「ピ」

    変り物

    屋台、唱殿、神田丸、鎌倉、四丁目、玉上座、玉下座
    御方々二ッヅツ打って笛が切りに変ります
    屋台になって終り
      次の囃子は蛇の目廻りと申します。

    屋台、鎌倉、唱殿、鎌倉二回廻りこの囃子の時は笛の文句、 かわり文句を吹く事になって居ります。故に注意致さなければ なりません。
    囃子は別に変り有りません。

    この囃子は屋台より間奈比唱殿、麒麟、亀井戸止って神田丸へ 入る。中程より四丁目になりまして、元の屋台になって 詰下しにて終る

      次に変り静か物の囃子次の通り

    屋台少し鎌倉より間奈比又は麒麟、恰子(かっこ)、麒麟、 夏祭り、四丁目、屋台に終る

    変わり囃子それ互に注意する
    笛と太鼓調子あわせまして増え吹の思ふ通り何の囃子に出入り するか其の時の打つ御人によって吹きます

    曲目によっては笛を習って皮ちがいの研究囃子楽しいことであります

    右古代囃子前書の如くなり

    私の覚えある古老の名人上手の御方々切囃子改正の時代の人 記し置きます。
    明治十年の頃でした

    私くしのしる人がお屋敷へお出入の方々を始めと致します。

    出羽様お屋敷
       神田     市川鍋次郎(笛の人)
       小村井      藤次郎
       新善寺    宗 与市
       神田だるま    萬吉
       渋江村    浅岡金次郎

    明治十五年時代多く囃子方になりました前書にある集合場所 東京囃子組合皮ちがい曲打祝獅子など決定しました

    頭取  神田大工町   屋根屋喜三郎
    引立世話人深川六間堀     八百岩
      世話人小網町    長谷川金太郎
      〃            梅 長
         日本橋       魚 直
         豊島町       桶 三
                疊屋 治三郎

    亀島槇三郎   田畑金太郎   椿 代次郎
    佐賀町 弥七  町谷七五郎   鎌田己之助
    蛤町 弥太郎  眞戸丑五郎   〃 喜三郎
    川端形願    小松市太郎   蛤町田古安
    蛤町 長平   糸屋 菊    曲金助之丞
    〃  繁三   請地 植半   鎌倉新田清二郎
    小村 与市   鎌倉新田 須藏 〃   カサン
    〃  喜三郎  高井戸 佐武  板橋 金太郎
    〃  兼次郎  渋江 茂平   下平井 魚熊
    木下川 和介  落合 留三郎  下平井 藤三郎
    木下川 馬平  新田 栄三郎  木ノ下 七五郎
    木下川 源太郎 巣鴨 浅次郎  小石川 大熊

    .

    明治十九年時代皮違へ曲芸の心を持ち、太鼓、鉦、笛と 三ツの音を作り囃子も良くなって祭り囃子、 に多く広まりました。
    又、祝い獅子の事、是れは家元は、丹後の(一)と申し まして太神楽曲芸太夫家元より御許しを申請致しまして 始めました。

    日本橋志物町海老一が獅子頭取です。
    東京囃子睦の幕を受取りまして、組々の獅子の元締め を始める事になったのです。

    獅子を始めた方々記します。

    神田喜三郎  一月五組
    二合半柿村松五郎外連中多く

    小石川金富町大工熊さん二組の出
    彦糸村酒井九十郎荒井町小松の甚常さん出方二組
    鹿骨小村井小岩連中
    横川花權さん出方請地連中

    福井町櫛六、太郎臧、鉄さん
    浅草菊岡三助さん

    佐賀町弥七さん出方
    西町竹内武平さん渋江田村佐太郎
    舟橋三之助さん

    六間掘木ノ下岩次郎出方三組
    巴の源さん内弟子多くあり
    深川田古安さん一組当所連中多くあり

    祝獅子道具持、組頭等、始めては、業平石原町が一番早く始めたと云う

    明神囃子睦一同、東京江戸古代囃子世話人一同額奉納明神様の大祭に花束 多く揃いました。

    次に此の時代の世話人御方々記す。

    東京都葛飾区本田渋江町135
            田村佐太郎

    先は笛吹く人
           西丁  竹内武平
           砂村  加藤金五郎
           渋江  田村和風
           万年町 池田弥五郎
           小村井 金子熊次郎
           下小岩 松丸岩次郎
           亀高  蓮勘
           大島  花井
           亀沢町 酒井清次郎
           舟堀  魚屋石松
           行徳新田 林之助
           鹿骨  大橋笛幸
           奥戸  佐 市
           渋江  皆川竹三郎
           篠原  吉野平八
           西丁  高橋源之助
           木場  鉄太郎
           木場  孝太郎
           六ッ目 ぶん平
           六ッ目 銀次郎
           迷井  思田銀三
           迷井  清次郎
    太鼓の人名人
           太郎三勝、石橋鉄太郎
           福井町 櫛六 馬ナ
           浅草  菊岡三之助
           吉田町 土久 細田伊之助
           横川町 油勘、滝次郎
           大平町 花金、亀高、植傳
           木多は世 音次郎、治平新田、新さん
           川端菊田、伊之助、出村鉄太郎
           雑司が谷 繁次郎、渋江、梅太郎
           江古田 彦太郎 渋江 錫太郎
           安宅、政右ェ門、篠原五郎右ェ門
           亀沢町 八郎、四つ木 酒井治郎
           神楽坂 延八、渋江、真田代二郎
           桜川 長寿、木ノ下川 大橋金太郎
           桜川 長作、上平井 鉄五郎
           若宮町 床屋常次郎
           芝神明 覚半、覚蝶
           島村藤次郎、木場、作太郎
           下平井、魚熊、大工町 金次郎
           小村伊之助、六間堀 藤次郎
           六間掘、佐太郎、請地、小宮弥七
           寺島新田 土方平さん、山車清、
           寺島 十五郎、竹内金太郎で終り

    昭和時代そろそろ祭の事になって神輿祭り所々始まり囃子も必要に なって参りました。

             トピイトヒヤラピ
    屋台打込終りまして天天ドドン
     是れより屋台地になります。
     笛につれて都合にてやめる
    唱殿になり笛吹込みます。

      お社らいやい いよいとろ 天どんどん
                    天どんどん
      天すとつく どんどん 天天つく天
    神田丸になります笛と太鼓の文句きいて
      笛
      社いよろしゆう 社いよろ おひやら社いやうーを
      天 天どんどん 天天どんどん天てて助天天

      てけ天 天 天 ててどどどん

      天すてんが 天ててどど 天 天 天

      ててどどててどど ててどど天

      ててすてすて天 ててすてすて天天

      てけ天 天 天 天 どどどん 次になり

      てて天どどどん、てて天どどどん

      ててどど天天ぴい 社いとろ社らいとろぴ

      とひい社らゐとろ とひやう

      とろしをおひやら ひりふをおひやら

      社い社らとろろ社らあとしや(二回返す)

      しゆゐよろよろしゆうしゆうしゆうしを

      社ゐとろろしを、社とろろ社らとろろ

      社ろら、とろ社らゐとろぴ

      とひゐい、とひやうとぴ 終り

    鎌倉笛吹込より

      お社らお社らふう、お社らしやとろ社あ

      社あをゐとろろどど天ン天ン

      どどどん どん どどどんどどどんヨー

      天つくツーツーどど天ン天ン

      おひやらとろい、社ゐ社らとろ

      社いとろと社いとろどど天ンー天

      社いとろとろし社ら社らゐ

      お社らふう社ゐと御しやら

              次に間奈比となる。

    間奈比唱殿
    笛の吹込 おひやら 社らいと社らいと社いと社ら

      天ン  天ン   ドンドンドン
      社イド 社ライト 社イトロ

      天ン  天ン   ドンドンドドン
      社イト 社ライト 社イトウヒラ

      切 天天どんどん天天どんどど天どんすど
      んどどん とひゐぴ 終り

    麒麟 笛言葉良く聞くべし
      おう社ら「吹込次に太鼓打のであります
      天天どんどん天天どんどん天天どんどんどん
      ひゆゐよおひゆゐよおしゆうしゆうひやろら(二回かえる)

      テテドドテテドドテトテト ドンドンドン
      ひりふうひりふううひりふうしふひやろら  次

    亀井戸
      天天ドンドン天天ドンドン天天ドンドン テテツクツ ドンドンドン
      社ライヨ  社ライヨヨイとろ社ット  社ット   しやら「二回返す」

      テテドドドン テト ドンドンドン
      社らゐよろ  社を 社ろらあ   「二回かえす」

    階殿
      天天ドンドン 天天ドンドン天ドド テテドドストンドドン
      社ロトシユウ、イヨイトロ、トロイト社ライオ社ララ  二回かえす

      テテドドドン テト ドンドンドン
      ヒヤライヨロ 社を 社 ろ ら   二回かえす

      天天ドンドン天天ドド  天ドドストンドドン 天天天
      社いと ろ しゆう ゐよと ろ 社 いと と社いとろ 終り

    夏祭り
      天ン  天 ドンドンドンドドドン
      社イトロオ オ 社 オ ヒヤライ

      天ドントン天ドド  ストンドドン
      社イヨロ 社イヨロ トシヤイトロー

     (ヤ)ててどど天天ててどど天ンすてんがててどどどん 二回

      ててどどどん お社いよ御ーーーぽぽ
      ててどどどん お社いよ御ーーーぽぽ
                       終り

    恰子
      テテ天ドドドン天天(ヤ)天天ンテテドドテテドド
      天ンドンドド天ンドンドドテテドドドン
      テテドドテテドドテテドド天ンテテスケ天天
      スツ天天天コリャテドドステドドテトテトドン
      テテンガテテンガテテンガ天ンテテンガ天ンドド
      天テテドンドンテテンガテテドンドン
                         終り

    篭廻り

      天天天テテツクツ テテ天コリヤ
      テテドドテテドドテテドドドン
      テテドドテテドドテテドドドン
      テテンガ天天コリャストンドンドン
      天ドド天ドド天テテドンドン
      テテドド天ンドンドン天
      天天天テテドドドン テレン  終り
         (これは何回まわりも良い)

    寿獅子
      テケ天天天テケ天スケ天天
      スッ天スッドン天ドンストンドドン
      テケ天スケ天ステツクテテスツトンドドンテケ天
     早鎌倉 笛 おひゆいよいとろ

      天天ドドドンドンドドドンドドドンテテストストトン天ンテレン
        笛にもたれ間に小ばちを打つ

    次にもどき
      テケ天コリヤテテツクテドドンドン
      天ンツクテテツクテドドンドンコリヤ
      テテツクステツク天ンテケ天ン
      テッドンテテドンテトドンドン
      テケ天テケ天テケ天天スケ天天

     其の場の都合を見て四ツト云う囃子太鼓にて終る尚又後座のある時は 四ツで切りません、四ツは上りなる時とする

     大国主命尊 大黒天舞

    む津の国つくりかためし大黒天我れを信ずる供がらにはいでや宝を まいらせんいでいでふうきをさずくべし
      天天ドンドン天天ドンドン
      天ンドド天ンデンデン
      天天ドンドン天天ドンドン
      天ンドド天ンデンデン
      家内安全商売益々繁成
      先づは目出度しな目出度しなーーー

    神楽唱殿
       笛 おしやらひやらひやらゐ

      テスケテッテドンドンドドドン
      テスケテッテスケテッテッドンドンドドドン
      テスケテッヤテッドンドドドン
      ケテッドンドドドン
      テスケテッテッドンドンドドドン
           何回共カイス事アリマス  (大拍子)

      

      永代録
    我が日本国二神をひらき八洲をしらき給ひ天照大神歴代ある如く 国家の一員たる家族にも歴代之を必要とす我にも父母あり 五代十代の遠き記録親族の中に種々の事柄あり、其の盛んなる 現代の事を思ひまして私は身心の楽しみ
    東京都古代囃子奉祝祭御用達し明治十年時代の古人の方々の 事柄を考へますに自身の心の中にて祭り囃子これ忠孝の導く 者としる

      

    下葉、藤額、能管、笛

      トヒーイホーシーオピ
      ヒオーシヤアーラアララ
      オーオシヤラーイイオ、オシヤイトロロ
      ホーオシヤイーロロトヒーイピ

      次に三ツ拍子
      天天天テケレン天
      テケレンテテスクスツ天ンステスク
                   天

    本間
      トヒイヒー 天ン天ンテケレン天
    笛 オヒヤラオヒヤイトロ ロ ローー
    太鼓ドンドンドコドン天ン天ンテケレン天
    止メル笛ノバス  トヒイイイイイーーー
      中程に足拍子をふむ
      それより三回メニテ納メ 終り

    山車の囃子 笛の吹方の事
      槍声につれて初め「トヒイピ」高く吹き
      二音より下げて屋台囃子二回り程に
      て中の切りになって止める 次に鎌倉になる

    亀井戸
      ヒャライヨ、ヒャライーヨイー

      トロヒャツトロ、ヒャットヒャラ  二回

      ヒャライトロ、ヒオヒャオヒャラ  二回

    階殿
      ヒャオヒャイヒャイトロ、ヒャライオヒャイオラララー 二回
      ヒャライトロ、ヒオヒャオヒャラ    二回
      ヒャオヒャイ、ヒャイトロヒャイトロ
      ヒャイトロオヒャイトロ チーヒリ チツ

         夏祭り
      ヒャイトロオー フシヤフシヤライ  二回

      ヒャイトローオヒャイトロ、トヒャイトロ

      ヒャイトロヒャイヒャイヒャイトロ |
      オヒャラヒャライトヒャオヒャ   二回

      ヒャライトヒャイ、オヒャイトロ ゝ  ポポ 二回
      ヒャライトヒャイトロ  チヒリ チツ

    次ギカツコ

    鎌倉の手
      オヒャイトロ、オヒャライヤトロイー
      オヒャライトロイー

    聖殿切
      ピーヒリーー フヒャオイトロ
      ピーヒャオイトロロ
      ヒャフワフウヒェラオ ヒャオヒャラ チヒリ ぴ

    神田丸
      ヒャイトロ シュウ ヒャイトロ
      オーヒャラ ヒォ ヒャイヨオーオオ
      ヒャイヒャイトー ヒャラ
      ヒャイヒャイトー ヒャラ
      オーヒャラ ヒォ ヒャイー「ヒャオヒャ」
      トロヒュウ ヒャラ ヒリフワオ
      トロヒャライト ヒャオ ヒャライ
      トロシュウ トロシュウ
      ヒャライト ヒャライト ヒャライト ヒャ
      トロヒオ オヒャラ ヒリフワオ ヒャラ ピ
      トロヒャイ トロヒャイ ヒャイピヒャラ 「チヒリ」
      トヒャラ ピヒャラ トヒャラ ピヒャラ
      ヒャライ ヒャイリ (トオーピ)
      ピーヒャイトロ ヒャライトロ ピッ
      チヒーヒヒャライトロ チヒリ(トヒャラ)
      トロヒオ オヒャラ ヒリフワオヒャラ
      オヒュウ ヒャライト ヒャイヒャラトロロ 二回
      ヒャイヒャラトロロ ヒャラートヒャ
      ヒャイヒャイトーロ ヒャイヒャイトーーロ
      ヒュヒュヒュ ヒオヒャイトロロ
      ヒオヒャイトロ フシャツラホ ヒャオヒャ
      トロヒャライトロピッ
      トロヒャライリヤ チヒヤチヒリチッ

     

    間奈比聖殿、神田丸、麒麟、亀井戸、
    階殿、夏祭り、鞨鼓、
    神田囃子。

    右昭和三十三年本田渋江町田村佐太郎
    翁に傳授を受けて此々に書し置きます。

    江戸古代囃子を五囃子と云ふ事を聞く
    間奈比、麒麟、階殿、亀井戸、夏祭り

    第三章のニ 無形文化財
        (重要無形文化財の保存)
     第五十六條の六
     委員会は重要無形文化財の保存のために必要が
     あると認めるときは、重要無形文化財について自から
     記録の作成伝承者の育成その他その保存のため
     適当な処置を行い、又は保存者若しくは地方公
     共団体その保存に当たることを適当と認めるものに對し
     その保存に要する経費に一部を補助することが出
     来る。

    特に屋台、山車等を作り練物を構えて各町を曳き廻し且御神輿を渡らせ懸聲勇ましく 駕つぎ廻るに到っては極めて威勢のよい急テンポの音楽が必要となった。
     江戸祭囃子の発明者は何人であるか判明しないが当時の伎楽又は狂言師と信ぜられ るが大体徳川八代将軍吉宗の享保年間即南町奉行大岡越前守在職の当時既に盛んに 行われ文化文政の頃にはその頂点にたっした。そして江戸では山王・神田の二社の外 八百八町全部及び当時は郊外に属する品川・渋谷・亀戸・日暮里等江戸祭囃子は祭典 の行事に無くてならない物となった。中にも根津権現、浅草三社、鳥越明神、亀戸天神、 深川富岡八幡、白鬚牛島神社、芝神明宮、品川天王、赤坂氷川、平川天神、日暮里諏訪 神社。その他各町各社の氏子は木遣音頭の声を合わせお祭囃子の音も高く氣分を高揚 させたものである。
     中にも神田囃子の名が最も多くの人々に知られ清元神田祭等に取り入れられて居り 特別の囃子方の様に考えられる向きも有るが、これは神田が江戸の中心に近く且江戸の 代表的祭典たる神田明神で元旦未明より打ち出す太鼓が位置の上から江戸全市の新春を 迎える様相であった事から特に有名となったのであり、後年旗本某の次男が葛飾区金町 の葛西神社に定住して祭囃子を伝えこれを葛西囃子と称する如く唯地名を冒頭に冠した もので凡て一定の奏法である故にこれを総称して江戸祭囃子と云うのが妥当なる呼び方 である。

    神前舞踊としてお神楽の歴史は極めて古くその起源及変遷に関しては後節に於ける 祭囃子の伴奏に合せて踊る岩戸神楽や和歌踊(馬鹿踊)及び獅子舞踊に就いては狂言師 各家元によって種々振付けの異なる者がある。中にも獅子に於ては地方舞踊に於ては 大率二人で操り四足を用いる所謂二人獅子が通例であるが中にも江戸の神楽に於ける 獅子舞踊は大抵一人で操り二足を四足に見せて踊る一人獅子であるのが通例とする。 幕末の頃(一)丹後なる太神楽師がこれを大成し(一)海老一などに伝えたがその後 太神楽は専ら高座芸能に移り平安朝時代に唐より獅子と共に伝來した「刀玉」(とうきく) 「品玉」(しなだま)等の曲芸を行なうに到った。
    黒船到來徳川幕府の倒壊世情騒然として神祭の事も一時停止したが明治維新の後、政府は 寺院破却神祭復興の方針を執ったので祭囃子やお神楽も又復活した明治四年台東区浅草 蔵前の植木屋と云う貸席に江戸以來の神楽同好者が会合し改めて獅子舞踊を振付し これを「寿獅子」と名付け神田の屋根屋喜三郎と云う名人がその元祖となった。

     明治初年 頭取(幕出)海老一 日本橋区桧物町東京組合神田大工町
     明治四年 頭取(元祖寿獅子) 屋根屋喜三郎

     当時世話人 神田の鍋、だるま萬吉、新石町たヾみや治三郎
           日本橋魚直、小網町長谷川金太郎(初代)
           豊島町の桶三、小石川の大熊、六間掘八百屋岩次郎、深川たこ安
           渋江の金次郎 兼次郎、木の下川の喜三郎、利助、
           鎌倉新田長谷川清、奥戸の丑五郎、鹿骨の留七
           椿の代次郎、鎌倉巳之助、田端金太郎、川端大門彦、
           請地の植平、亀戸ちゃん熊、下平井の藤吉
           落合の留吉、板橋の金太、瀧、巣鴨の浅次郎
           埼玉懸野火留の源、新町の常吉、扇橋長兵衛
           佐賀町の弥吉、小村井の與一、
     明治十二年 眞田代次郎(寿獅子二代目)
           六間掘の定次郎、田村佐太郎(九十三才現存中)
           櫛六
     明治四十年 神田長谷川金太郎(二代目)小村井の熊吉、
           砂村の官兵衛、太郎鉄、深川のあめ金、
           六間掘の三味線屋、田村官吉、奥原政太郎
           酒井次郎吉、眞田喜六(寿獅子三代目)
     大正十二年 眞田忠三郎(寿獅子四代目)おかめ會指導
           鹿野金之助(江戸祭はやし保存会おかめ会々長)

    なほ明治初頭本所林町に「えもじ屋と云う名人があった」がその後柳橋に移り 後續を絶たれたが鹿野金之助はえもじ屋の縁戚であり現在、

    ・・・・・・・・以下記述なし(編者)

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