祭囃子の歴史

神田祭を例に神田囃子保存会の資料より引用します。

  1. 祭りの発生

    祭囃子と限らず、古来より何かを打ち鳴らすという儀式、 又は、芸能は、その、展開と要因が、神や精霊の持つ超人的 な、魂に対する儀式に端を発している。
    それは、人間は神の霊の一部が肉体を持ったものだという ことで、その霊が天より降りて来た時から、霊が離れる時ま でを人の一生とするとかんがえられていた。 その為、一年に一回、その霊を天より呼んでその霊に活力を 与えてもらおうとしたものである。これを「祭り」といった。
    その為に、色々な祭事に相応した芸能を行った。
    まず、神霊の鎮魂のために、或いは、神慮を清しめる[慰める] ために「神楽」というものが奉じられた。
    神楽には、宮中で行う「御神楽」と民衆の芸能の「里神楽」とに 分けられる。
    ほかに、田植えの時や苗代田の土を均するような時に演じられた 「田楽」や、その他「猿楽」も当時平安朝の中期以降、京都を中心に 急速に各地に広まっていったものと思われる。
    京都の祇園囃子などもその流れを汲むものと思われる。江戸の祭り も、祇園祭を参考に山車や屋台などが作られたといわれている。 自然にその囃子自体も何らかの形で伝わってきたかもしれない。

  2. 祭囃子の発生

    神田祭の変遷とそこでおこなわれた囃子について考えてみたい。
    古来より伝わってきた祭りが十四世紀頃、江戸に疫病が流行したおり、 その悪病追放の目的でガラリと様式が変わったといわれる。その当時、 江戸に住む人々はその疫病が平将門の霊の祟りの仕業と考えた。その 霊を慰めるために遊行上人により祭礼が復活された。
    江戸の初期まで「水にすべて流す」という信仰から神田祭は、毎年 「舟祭り」を行ったそうである。竹橋から船で、小舟町の神田屋庄右衛門 という者の宅前まで、神幸[神の御渡り]されていたそうである。
    ところが、元和二年[1616年]のころから祭りの形態が次第に陸上の祭り へと変わってきて、美しい行列の形をとるようになった。つまり、神の 分霊の神幸には美しい御輿にお乗せして、祭りの関係者がその前後につき 従って供奉するという行列の様式が出来上がってきたのである。そして たまたま慶長五年[1600年]九月十五日、神田祭りが行われていた最中に 徳川家康が関ヶ原の合戦に勝利をおさめたので徳川家は、これを吉事の 祭りであるとして、代々神田明神を非常に厚くもてなすようになったのてある。 そこで、当時から現在に至るまでその美しい山車や屋台で奏じられていた 祭り囃子は、何時頃から発生して形造られたのだろうか。
    この事に関しての文献等が何一つ残されていないのでいわゆる憶測と数種の 説があるのでここに紹介したい。
    まず、最も古い起源の伝説としては、建久三年、源頼朝が征夷大将軍に任ぜられ た折り、鶴ヶ岡八幡宮の社前で盛大な祭祀が行われた時、その道の達人五人が 選ばれ、五人囃子を奉納したのが始まりであるという。しかし、これは後の 世の人達が自分達の芸により古い起源を求めて権威づける作為であるように思う。
    また、享保年間[1716年]に紀州に「和歌の浦囃子」という大漁の時に舟板を打つ鳴ら した囃子があったそうである。それを、紀州の殿様が江戸へあがる時に持って 来たといわれる。その当時、葛西地区の浦安、一之江等は海辺にあった。 その為、その住人のほとんどが、魚民であったと思われる。その為、紀州から もたらされた漁師の囃子である和歌の浦囃子が、この地方に伝えられた。それを 葛西金町村の鎮守香取明神[葛西神社]の神主・能勢環が当時神社にあった里神楽 と和歌の浦囃子とを手直しして「和歌囃子」なるものを作り若者を集めて教えた という。それが訛って「馬鹿囃子」と呼ばれるようになった。それが江戸の 祭囃子の元になったと言われている。
    ところが、享保年間(1716年頃)にできたと言われている馬鹿囃子であるが、 神田明神の祭りが「舟祭り」であった時代は、1400年代からであり、それが 陸に上がったのが1616年、享保をさかのぼること約100年も前の事である。 そして将軍の上覧を仰ぐ「天下祭り」は、1688年で28年も前から始められていた ことになる。
    それでは、享保以前には、囃子が付かなかっただろうか。ところが江戸時代の 初期には、神輿神幸の際、祇園祭の山鉾を真似た山車や屋台が既につくられていた。 その上で演奏された囃子、またその囃子を演奏した楽器が必ずあったと思われる。 そこで、祇園祭の形態が何らかの方法で伝わってきたのなら祇園囃子も人からの 言い伝えで江戸に入って来たと考えられる。それは、まず楽器の編成から見ても 頷けられる。
    江戸の祭囃子は、摺鉦・締太鼓・大太鼓・笛という編成をなしている。これは、 祇園囃子の能管・摺鉦・締太鼓、それに江戸の里神楽に使う大太鼓を加えたもので、 江戸風に編成を工夫したということではないか。演奏された囃子も、祇園囃子の影響 を受けているとは思うが、数100年の伝統ある京の人々と活気ある新興都市、江戸 の住人との気質の違いが当然出てより活発な賑やかな曲がつくられていったのでは なだろうか。
    又、当時関東地方では、「里神楽」・「太神楽」等が大変流行しいおり、その祇園 流囃子とそれらがお互いに影響しあって、江戸流に一層洗練されていったと思われる。 特に太神楽においては、現在の囃子に使われている曲目が多く入っていることからも その事が裏付けられる。
    太神楽には、尾州流と熱田流とがある。何時頃から江戸に入って来たものかというと 、徳川四代将軍家綱の寛文九年[1669年]正月に吹上の御庭で始めて上覧の栄を 賜った。それが大変喜ばれ以後も毎年続けられた。その為いれを期にこの神楽を演じた 尾州・熱田の人々が多く江戸に移住してきた。そして、享保年間には山王祭にも 出るようになり、庶民の中にも深く溶け込み、又、祭囃子とも深く係わる様になって いったと思われる。

  3. 祭囃子の発展

    最初、江戸の祭りは山車や練物等が主流てあった。それについて歩いた囃子は、俗に 言う「静か物」とか「間物」(まもの)と呼ばれる、比較的ゆっくりしている曲を主に 演奏していたと思われる。勿論、仁羽(にんば)・四丁目(しちょうめ)等の曲も、その 中に組まれていたと思う。特に祇園風、太神楽風の江戸囃子であった。
    ところが、享保年間をすぎると祭りの様相が変化してきた。鳥越・浅草三社等の神輿 主体の祭りも、あちらこちらで始まるようになってきた。そこで、比較的賑やかな 囃子が望まれるようになった。その頃、丁度江戸府内に広まり始めた馬鹿囃子なるもの を多く取り入れるようになっていったと思われる。それがそもそも「屋台」と言われる 物とおもわれる。それが伝統ある神田祭・山王祭にも参加していたが、将軍の上覧祭り という大変大きな祭りの為、なかなかその山車や屋台等で演奏することが出来なかった ので、より一層囃子の技を磨いていった。それが、今まで主流であった江戸囃子と 馬鹿囃子との出会いである。
    そいで、江戸囃子に馬鹿囃子が組み込まれていったのだと思う。これは、後に太神楽に 馬鹿囃子を加えたという文献が残っていることからも察することが出来る。
    ここで、江戸囃子と言う現在の神田囃子の初歩の形が出来上がった訳である。 江戸囃子の完成した当時は、娯楽と言うものが大変少なかった時代で、これが大変 な流行を見せ江戸府内はもとより近郊にも急速に広まっていった。特に、葛西地区 には、数多くの囃子方が生まれた。
    ....これはあくまでも推測である。
    そこで、祭りに係わる一切を受け持つ役職持った人が現れた。
    祭りが近づいて来ると、神田明神の氏子町内の役付けがその頭の所へ囃子の依頼に やって来て、その年の祭りの時に山車・屋台に乗る囃子方を頼む。 頼まれた頭は、 何十組の中から一組を選び、その町内の主だった人の前で一曲演奏させ、彼らの 耳に叶わなければ他の囃子方も呼んで再び審査してもらった。合格してやっと 晴れの神田祭の山車や屋台に乗れたのである。
    当時、囃子方には、俗に言う祝儀というものは出ず、町内からは浴衣と一日三食の 食事が支給されただけであった。遠くの村から、はるばるやって来て囃子をする 割には少々報酬が少ないようであるがそれより神田何々長の山車に乗って囃子を やったという事実、つまり自分達の囃子が神田の旦那衆に認められたと言うことが 彼らにとって非常に名誉な事であった。

  4. 切囃子について

    江戸時代から明治初期の祭囃子はというと、現在の様な組曲ではなかったそうである。 屋台なら屋台、昇殿(しょうでん)なら昇殿のみを一曲づつ別々に取り替えひっ替え 演奏していたらしい。 これらの曲を総称して「江戸囃子」といっていた。それが、明治十年頃に御府内 の囃子方の主だった人々が、当時浅草にあった「植木屋」という貸席に集まった。
    それは、今まで一つ一つ独立して演じられた曲を一つに組んでみたらどうかという 話が持ち上がった為である。
    大変粋な所に囃子方が集まり、二・三年の間、毎日毎日研究を重ね、今の様な組曲を 作りあげたのである。それを「切囃子」と称した。普通演奏している組曲である。
    当時、集まった人たちを紹介する。

    • 神 田   市川 鍋次郎
    • 小村井       藤次郎
    • 新善寺   宗  与 市
    • 神田だるま    満 吉
    • 渋江村   朝岡 金次郎

    これらの人たちによって「切囃子」が、つくられた。
    皮違い、曲打、祝獅子舞等、全部仕上がったのは明治十五年頃のことであった。これ以後 囃子を演じる時には、すべてこの時決められた形に基づいて演じられて、現在もなを手直し されていない。

以上が神田囃子保存会の資料の抜粋である。

その他の資料として、田村和風翁の文書(古代囃子控)

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