1999年7月20日

『東芝サポート問題』は、まだまだ未解決

東芝も、やっと、事の重大さを悟ったのでしょうか?

 今朝の新聞報道によると、東芝は、仮処分命令の申し立てを取り下げました。同時に、やっと、桐谷の判断によると、初めて謝罪の言葉を表明したようです。

 これによって、今回の事件が解決したのでしょうか? もちろん、答えはNo!

 事件を、このままで終わらせてしまってはなりません。今なお、東芝に残っている、このような事件を生む体質を検証しなくてはなりません。

 記者会見によると、今回の担当者とその上司の処分を検討しているとか。これは、従来の東芝の姿勢と矛盾する話だと思います。会社の方針に従って、会社が指示した通りの態度で消費者に接して、会社の公式見解として、間違ってはいないとされていた社員が、今度は処分されて、とかげのしっぽ切りのように、悪いのはその社員とされてしまう。もしかすると、あの電話の方も、実は普通の方で、配置換えで渉外に回されて、やむなく、あのような声で、あのような人間を演じて、大勢の消費者を脅していたのかもしれません。

 今回明らかになったこと。

 東芝に対して、謝罪を求めようとするならば、一ヶ月半をかけて、心ない人々からの、消耗するような攻撃を受けながら、マスコミの取材攻勢も受けながら、何よりも「法的手段」によって告訴されながら、これだけの努力を続けるだけのエネルギーがなければ、東芝は決して謝罪をしない会社だということです。

 東芝が、このような体質を改善するための努力を始めて、それが成功して素晴らしい会社に生まれ変わったという確証が得られるまで、桐谷は検証を続けて、かつ、東芝製品の不買を続けます。

 ちなみに、電気釜は、これまで東芝以外の製品は買ったことがありませんし、ビデオ・デッキは、SVHS Hi-Fi BS ARENA A-BS64以来、常に一台は、東芝製品を使い続けてきました。基本性能は高いし、気に入っているメーカーでしたが、電化製品を買うと言うことは、買うことによって完結するのではなく、使い続けることが大切だと考えるからです。故障するたびに、あのような暴言を浴びせられてはたまりません。

終業式の感懐

 毎回、終業式の「感懐」と名付けている、ある独特な思いがあります。いつか、もっと素晴らしい表現で文章にするつもりですが、簡単にその内容を聞いて下さい。

 いつも、終業式の直前は、生徒たちが学校に来る間に終わらせなければならない仕事がたくさんあります。例えば、最後の授業で配りたいプリント、せめて終業式の日に各クラスを回って配りたいプリント、夏休みに桐谷の机の上に置いてほしい人に持っていってほしいプリントなどなど。

 ところが、終業式の朝まで必死に頑張っても、最後まで出来ないものが、必ず出てしまいます。そんな時、人生を終えるときのことを想像して、ある独特な思いになるのです。それが、「終業式の感懐」。

 いつも不思議に思うのですが、最後まで出来なかった積み残しが出て、あーあと思うとき、実は、その積み残しが、思っていたほどは、大きなものではなかったような気持ちになって、まさに諦観の境地で眺めることが出来るようになります。

 人生でも、同じような思いになるのかなと思うのです。自分が死んでしまうときに、やらないまま終わってしまった、あまりに多くのことに向き合うとき、きっと、人生は、こんなものだよねと、上手に諦めることが出来るような気がします。

 人生で様々な仕事を引き受けて、締切の日に、自分では不完全な思いで、完成品を納品することがあります。特に、作曲の場合。放送局からの帰り道、バックアップのDATテープを聴きながら、少しずつ、あれ、これはなかなかいいんじゃないかなという気持ちになり始めます。放送の当日、比較的好意的な反応が多いことに安心して、そのうち、時間をおいて、もう一度聴いてみると、数曲は、自分にとっても大傑作であるような気持ちになるものです。

 もしかすると、今、僕たちを深い感動で包む、古典的な名曲も、きっと作曲家本人にとっては、作っていた時は不本意な点ばかりだったのかもしれません。まるで神様と交信しながら作曲したとしか思えない名曲の場合でも、本人にとっては終業式の感懐に包まれた作品だったのでしょうか?

 僕は長生きして、素晴らしい作品を残すよ!


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