2000年8月16日(水)

字幕と映像



字幕の困った点

 これまで、一度もまとめたことはないのですが、印刷版"Kirium"で、字幕を無視して映画を観る方法の新連載「余は如何にして字幕不要となりしか」が始まるので、その草稿をかねて、少し書いてみようと思います。

 言うまでもなく、字幕なしで映画を楽しむことは、映画を深く味わうことにつながります。どんなに有名で高く評価されている方の字幕でも、あれ、これは違うぞという部分があります。もちろん、短時間で読んでいただくために、細かい部分は敢えて切り捨てて、その方が作品全体を見渡して、よりわかりやすいように、そのような字幕に変えているのですが、それでは、スターを楽しむことは出来ても作品そのものを味わうことは出来ません。

 劇場の音響に不満がある場合が多いし、早く観たいので、最近では我が家のDVDで観たり、アメリカで観てしまうことが多いのですが、WOWOWで日本語字幕入りのものを観る場合もあります。どんな風に字幕をつけるのか気になって、字幕を観てしまう時に、がっかりすることが多いのです。

 ギャグではない部分がギャグになっていたり、ギャグが反映していない場合などは、仕方がないとあきらめていますが、作品を読み解く上で、正確に理解しなくてはならない、あるフレーズが切り捨てられている場合が多いのです。他の部分のセリフが生きてくるために、あえてそのような言い方をしている部分を切り捨ててしまっては、対比させて理解したい二つの有機的に結びついたエピソードが、単なる二つの出来事になってしまいます。

 ただ、多くの映画ファンは、スターを楽しむために映画館に来るのであって、作品構造を読み解いて、生きることを考えるために映画館に来るわけではないので、このような点は仕方がないのかもしれません。以前勤務した所では、映画を楽しむ方が多かったのですが、作品がわかりにくいことを困ったことと考える方が多かったようです。スタッフが、不思議な出来事として提示したかった部分も、わかりやすくあってほしいと思っているのでしょうか。そんな方にとっては、「パンフレット」はなくてはならないもののようで、「パンフレット」を読んでわかったよ、という話もよく聞きました。

 でも、そんな「わかりやすさ」は、誰かが解釈したものを、追体験するようなもので、自分が作品そのものを観て、自分のわかり方でわかったことにはなりません。もしも、本当にわかりたいのなら、字幕を離れて、作品そのものに向き合うことが必要になります。



映像を見ない人々

 僕は字幕を読まない(というか、字幕のない映画を観る)ので、映像の様々な部分を、集中して読もうとします。余談ですが、僕は、様々な映画に登場するMacintoshに詳しいのですが、それは、細部まで、映像を詳しく読んでいる結果です。ちなみに、映画に出るコンピュータは、オフィスの場面をのぞくと、九割以上がMacintoshです。この話題は、いつか、また。

 映像のピントがどこにあっているのかは、とても重要です。さらに、その場面を描くために、なぜ、そのアングルからのショットにして、どのように編集しているかも、とても重要なポイントです。あるエピソードを描くためには、無数の映像化がありうるのですが、その中で、なぜ、そのような描き方をしたのかは、作品の構造を示す重要な鍵になります。同じように、映像が、どのようにパンするかも大切ですね。つまり、その場面を、どのようなショットに切り取ったかが大切です。

 今日本でビデオで見ることの出来る作品で例をあげると、"The Sixth Sense"の、あの秘密についてですが、僕のような読み方をする人には、作品の途中で、あの秘密に気がつきます。監督は、とてもフェアな描き方をしていて、あっ、こう企んでいる、というのが、とてもよく見えてきます。

 登場人物の視点の先も重要です。言うまでもなく、人物の表情、話し方等、演劇と重なる部分もありますが、映画の場合は、映像のズームまたはパンによる表現と、モンタージュ(編集)が重要なので、様々な細部を読み解くことが大切です。

 もっと書きたいことがありますが、このような鑑賞のことを、僕は、アナリーゼ読みと言っています。音楽を聞く時も、僕はアナリーゼ聴きをしていて、ロックの場合も、頭にスコア譜が浮かぶので、一般の方と違う聴き方をしてしまいます。あっ、今のモチーフは、最初に出てきたものの逆行だ、とか、今のベースドラムと、ベースギターは、アクセントが、このような形になって、からみあっている、とか、今のシンセサイザーのソロは、Korgの、往年の名機Wavestationと、TrinityをMIDIで同時にコントロールして、あの波形をあのようにして、作った音色とプリセットのあの音色を混ぜて使っている、とか、一般の方には、どうでもよいことを聴いています。

 クラシックの場合は、同じ曲を、様々な演奏家が演奏するし、さらに、音楽としての研究そのものが進んでいることもあって、たぶん、作曲と演奏の両方をされる方でないと、理解してもらえないような聴き方をしています。

 映画の場合は、監督を中心とするスタッフ一同の、想像を絶する努力の賜としての映像なので、細部に重要なことが、たくさん隠されていますが、その多くは、気がついてほしいとは思っていないものです。努力に気がついてくれなくてもよいから、作品そのものを楽しんでほしい、というのが、創造する側のささやかな希望です。

 でも、日本で公開される外国語映画を観る人々の多くが、字幕を追うあまりに、映像の絶対に気がつかなくてはならない細部を、見もしない場合も多いのです。字幕を読んでしまうと、見落としてしまうものが増えるのです。明日は、この話の続きを。



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8/11「教室の内壁塗り替え」の内容を読む
8/10「インターハイ空手道閉幕」の内容を読む
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