2000年7月4日(火)

命の「限り」


全てには終わりがあるけれど

 時々、人生を生きていると、このまま時が止まって欲しいと思うときがあります。でも、そんな時は、自分がある程度長い間生き続けているはずだという無意識を前提にしています。多くの人は、自分が今日死ぬかもしれないことは忘れていて、未来があることを当然の前提にして、人生を生きているようです。

 十代の半ばに、生きるのが苦しかった頃、みんなのように集団で楽しく過ごすことが出来ない自分について悩んで、今日死ぬかもしれない自分を生きようと考えて、とても楽になりました。当時の自分が考えたのは、普通の人々は、今日死ぬかもしれない人生だからこそ、今日という日を楽しもうと考えて、集団でも楽しく過ごすのだろう、でも、自分にとっては、そのような過ごし方は楽しくないどころか、苦痛になってしまう、ならば、常に、今日終わりを迎えるかもしれない自分の生を、どんな時も見つめて、自覚的に生きよう、ということでした。

 その頃からずっと人生の基本的な生き方は変わらず、今に至っています。僕が比較的苦悩に強く、元気そうに生きているのは、今日死ぬかもしれない我が身にとっては、今日一日の苦労は今日一日で足るからです。

 でも、僕は、これまでずっと、今日死ぬかもしれないと考えながらも、実際には死なない日々が続いてきました。死ぬかもしれない(けれど、とりあえず今日までは死ななかった)人生と違って、間違いなく三週間後には死ぬという宣告を受けた人生は、「死ぬかもしれない生」から、「絶対に死ぬ生」にかわります。

 僕たちは、「終わるかもしれない生」に、どんなに真剣に向き合っても、「絶対に終わる生」に向き合っている人の前では、あまりに無力です。でも、「絶対に終わる生」に向き合う人と対話するときに示されるのは、本当に「終わるかもしれない生」を深く受けて生きる生は、「絶対に終わる生」を背負う人と、深く結ばれることです。



「限り」を、より強く見つめて

 昔から、「絶対に終わる生」を背負う人と深く語り合うことが多くありました。そんな時、お互いに気がつくのは、「限り」が、よく見えていることです。この世は、「限り」が見ていない人が、なんと多いことでしょう。

 「限り」が見えている人に出会うことは、「命の『限り』」を見つめ続ける人にとっては、とても心強い励ましになります。うまく表現できないのですが、あなたにも見えていたのですか、という驚きのような感じです。たとえば、四半世紀前、フロンガス等のせいでオゾン層が破壊されることに気がついている人に会うことは、やはり、驚きでした。人生を、どのように生きるかを深く見つめようとする時に、一般的な人々が、もう、これ以上は関わらないようにしている部分を、どこまで深く見つめようとする生は、やはり、主流ではないようです。というのも、自分にとっては生きる基本であることを誠実に"What's New"に書くと、その部分から、元気ではないのではないかと誤解されてしまうことが多いのです。

 自分が二週間後までには、死ぬことがドクターに示されて、様々な症状が、その方向に進んでいることが実感できて、ドクターが示したことが間違いではないと、よくわかる時に、世界は本当に美しく見えます。僕は、今、世界が本当に美しく見えるし、このいとおしさは、限りなく深く、かけがえのないものですが、そのうち、見つめている「限り」が、具体的な期限付きになったときに、世界は、さらに美しく完璧な美を見せてくれることでしょう。これまでに見た完璧な美は、まだまだ完璧ではなかったのかと、深い驚きに満たされるのでしょう。



落ち穂

 そばは、普通七月下旬に蒔かれて、九月頃、美しい花を咲かせて、十一月頃に、あの美味しい新そばになります。今日の画像は、そば畑に、今咲いているそばの花。蒔いたわけではないけれど、残っていて、今、そば畑を美しく輝かせています。

 この畑も、あと一ヶ月もしないうちに、地肌を見せて、秋の始まりの信州を楽しむ頃、満開の花になって、正倉院展の頃、あの味になります。今年味わえるかどうかは、誰にもわからないことですが、味わえなくなったときに、深い味が心を満たして、最高の喜びも味わえることでしょう。

 人生は、長さではなく、深さと豊かさなのだと、心から思います。


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