2000年6月15日(木)

燈台もと暗し


今日の大発見!

 もう三年目を迎えるので、校内の植物にも詳しいつもりでいましたが、今日初めて気がついたことがあります。古典の授業の最中に、今日は暑くて窓が開いていたこともあって、教室の後ろ側の外にある枇杷の実が、突然目に飛び込んできました。どうして、それまで気がつかなかったのだろうと思うのですが、視野には入っていたはずなのに、認識していなかったのですね。

 あまりのうれしさに、つい発見した喜びを語ってしまったのですが、生徒たちには伝わったかな? 四月から二十回以上も授業があったのに、窓の外にある木を授業の話題として語ったこともあるはずなのに、今日発見したことの喜びは、言葉で表現しようとすると、陳腐な言葉になってしまいます。本当にすごいことは、奥深いことであればあるほど、言葉で表現すると、平凡に見えてしまいます。

 もしも、来年この教室の授業を担当したら、きっと、四月の最初から成長を楽しみにして、枇杷の実がふくらむまで、毎日の変化をじわじわと味わうことでしょう。毎年、年を重ねるごとに、まわりを見つめる目が深く鋭くなります。年を重ねるせいで、失ってしまう何かもあるはずで、たとえば、目の色を感じる部分が変化していて、若い頃に見ていた絵も、実は違った色合いに見えてきます。それでも、失ってしまう以上に、若い頃には感じることが出来なかった感性を研ぎ澄まして生きていきたいものです。



言葉の勘違い

 以前にも書いたことですが、幼い頃は、「灯台もと暮らし」だと思っていて、岬の灯台に暮らす人々のことを言う言い方だと思っていました。小学校の高学年の頃に、辞書を調べる習慣が出来て、どんどん語彙が豊かになっていって、「燈台」が、昔の燭台のことを言っていて、油に芯が浸されていて、灯がともっている燭台が、その油を満たしている皿の部分があるせいで、真下の部分を照らすことが出来ず、台の下の部分が暗くなっているということから、人間が自分の身近な部分を見落としがちであることを言うと知りました。ちょうど「濡れ手に粟」が、「泡」ではないことを知った頃のことです。

 そのようなことを生徒たちに話すと、へーと言ってもらえて、そもそも「粟」なんて、全く実物が思い浮かばない単語のようですが、濡れた手にたくさんくっつくことを話すとイメージ出来るようです。

 現代ではすっかり意味が変わってしまったようなのは、「情けは人のためならず」ですね。真剣に、情けをかけると本人のためにはならない、と思っている生徒も多いのです。言うまでもなく、誰かに情けをかけることは、他人(その人)のためにすることではなく、善行をつむことによって、まわりまわって、自分にも帰ってくるのだから、実は、人のためではなく、自分のためにしているんだよ、という意味です。

 今週の週末は水泳の付添、来週の週末は二泊三日の空手の付添で、丸三週間休みがありません。過労で倒れないように、上手に休まなくては。




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