世界をまわるのは、一生をかけて!

around the world in eighty years

第十回 村のまなざし

1996年5月28日第13号掲載

 いつの頃から、日本の国は、みんなと違う人を排除するようになったのだろう? 僕の子どもの頃は、心がみんなと違う人も隔離されずに、町のみんなと友だちで、楽しそうに過ごしていたものだ。あの頃(三十年前)は、町ものんびりしていたし、何よりも、僕たちみんながささやかな幸せを味わうことができたのだ。
 前回の続きから始めたい。


 村を散歩しているうちに、僕の好物のフルーツが生えていて、みんなが取って食べさせてくれた。南の地域では珍しいことではないけれど、この貧しい東北部にスターフルーツが生えているのは珍しかった。いつも思うんだけど、フルーツが自生する地域の人達は、独特のやさしさがある。若い頃に放浪した沖縄がそうだった……。
 物乞いのおじさんが近づいてきた。背も低く、とても細くて、頭も小さかった。一バーツ(約四円)欲しいという。みんなの話だと、頭が弱くて、一日物乞いをするそうだ。いつもなら、都会の物乞いのためのお金を用意しているけれど、今日に限って何も持ってなかったけれど、ポケットの底に一バーツコインが一つだけ見つかった。みんなに相談したら、あげたいならあげた方がいいと言う。大切にしてねと言いながら渡したら、にっこり微笑んで、どこかに消えてしまった。


 村の探検から戻ると、ごちそうが待っていた。もち米。おひつのかわりに、篭の中に入っていて、産地だけあって、ただでさえおいしいタイ米が、実においしかった。
 青いパパイヤのサラダのソムタムが添えられて、ちょうど大根を細長く切った酢の物のような外観だけど、とにかく辛い。辛いけどおいしい。外人さん向けに辛くないのも作ってくれたけど、やはり辛い方がおいしかった。今まで食べたソムタムの中で、一番おいしかった。
 東北地方独特の料理で、僕が初めて食べたのは、バンコクの中央駅前で、ござを敷いたお姉さんの路上レストランだった。天秤棒のカゴに材料を入れて歩いてくる、もっとも簡素な屋台で、東北地方出身の何も仕事が見つからない人が始めるのがソムタム屋なんだと、教わった。確かに、ウィスキーとソムタムを出すお姉さんの表情は、決して明るくなかった。
 水牛のビーフジャーキーも出て、魚の煮物や、白菜もあって、おまけにビーフンのケチャップあえまであった。きっと、苦しい生活の中で、精一杯のごちそうを出してくれたのだ。あまりのおいしさにぱくぱく食べている時に、下の弟の表情に気がついた。
 たぶん、僕たちが残した物が、彼らのお昼ご飯のごちそうになるのだ。


 家のすぐ隣の空き地にバレーボールのコートが作ってあった。地面もでこぼこして、草も生えているけれど、ネットが張ってあった。
 ブノームくんの友だちが大勢来たので、さそってみたけど、恥ずかしがって誰ものってこない。
 いつも、僕がするように、手をつかんで、引っ張って、無理矢理誘ったら、しぶしぶ始めてくれて、とても上手だった。生徒たちのレベルなので、すぐについていけなくなってしまった。

 小さな子どもたちが、村の道を笑いながら、走っている。あの子たちはいつも笑ってるんだよ、と教えてくれた。本当に素敵な表情で、近頃見たことのない、子どもの笑顔だった。


 通訳のTumrongさんと、幸福論の会話が始まった。村の人々は冷蔵庫、ビデオが欲しいわけではなく、生活の必要を越えてお金を稼ぐ必要はない。
 毎日の食事が出来る幸せを実感しているわけで、彼らは競争する必要などないのだ。
 足ることを知る幸せは、人間の幸福の中で、とても大きなものだ。日本では、どれだけ稼いでも、万が一のことを考えて、どれだけ働いても、成果をあげても、満足できず、たぶん、一生走り続けている。
 村人たちの幸せは、あの物乞いのおじさんへのまなざしに表れていたと思う。
 夕方、もう一度、彼にあったとき、もう僕のことを覚えていなくて、また一バーツをせがんだ。
 村人たちが、あの人に、昼間にもらったじゃないかと、やさしく語りかけながら、もう忘れてしまって、と笑う声も、限りなくやさしかった。
 彼は、あの村で、きっと今も安心して暮らしているに違いない。僕たちの国にも、いるはずの、あのおじさんを、この国は、いったいどこに隠してしまったのだろう……。


第十一回 何のテーマにするか考えています。(十二月下旬掲載予定)

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