世界をまわるのは、一生をかけて

around the world in eighty years

第一回 生まれて初めての国境
1995年2月13日創刊号掲載

 たぶん、桐谷に対するみんなのイメージは、世界を飛び回る旅人というものがあるのではないか。桐谷は、確かに生まれながらの旅人で、物心ついた時には、旅をしていた。
 日本全国は、くまなく旅しているけれど、初めての海外は、実は、まだ最近のことなのだ。そろそろ、初めて日本を出てからのことを文章にまとめてもよい時期になったような気がする。
 どうか、これから、桐谷の旅のレポートに毎回付き合ってみて欲しい。もしかすると、少しは参考になるかも知れない。いつだって、旅は、人生そのものなのだから。


 桐谷は、ものすごい貧乏に生まれついているので、なかなか海外に出ることが出来なかった。
 本当は、高校を卒業したら、ロンドンに渡って、世界のスーパースターになるはずだったけれど、母親が病気になって、孝行息子は、ロックに生きる夢を断念した。彼女が、教師という堅い職業についた息子に安心して死んでいった時、初めて、日本にいてあげてよかったと思った。

 そのかわり、桐谷はヒッチハイクのプロフェッショナルだったので、世界の旅人をもてなしたり、ユースホステルで出会った海外の人達を案内してあげたりして、世界は、いつも身近なものだったし、外国語の勉強は、いつもいつも熱心に続けていた。(英語の力は、今でもそんなに落ちていなくて、映画は字幕がじゃまだし、いつも、誰もに、そんなに上手な英語をどこでマスターしたのかと、誉められることが多いんだよ! 英語は心さ。)

 そんな桐谷に、やっと日本を飛び出すチャンスが巡って来たのは、人生の大きな悲劇の真っ最中だった。いつも、人生のつらい出来事があったとき、桐谷は、旅に出て、旅の力で、癒されて帰ってきた。もう一度、人生に、元気に取り組む勇気が生まれて、いつの日か、人生の悲劇に出会っても、旅に出れば、元気になるからという信頼が生まれていた。人間不信になりそうだったから、旅に出るしかないと思ったし、いよいよ外国に出る時が来たと思えた。

 いつの頃からか、初めての外国は、朝鮮半島にしようと、決めていた。三万円もあれば、一週間、日本からの交通費も含めて、まかなえることは、韓国からの友人から情報を得ていたし、日本とのつながり、日本による侵略の歴史など、知れば知るほど、一度は、行ってみたくてたまらない所になった。
 そのころは、ビザが必要で、徳川園の近くの大韓民国領事館に申請に出かけて、光州の大虐殺やKCIAのことを思って、どきどきした。今では何とも感じなくなってしまったけれど、無事ビザがおりるのかどうか、自治会の金大中支持の署名活動のことや、大虐殺に反対する集会のことで、入国できなくなるんじゃないかと、不安でたまらなかった。もちろん、翌日には、あっけなくビザが発給されたのは、言うまでもない。

 青春18切符を使えば、当時なら二千二百円で下関まで行くことができたけれど、中国自動車道を通って、陸路はヒッチハイクにすることに決めていた。
 クリスマスの午後、リュックを背負って、本郷の東名高速の入り口に立って、長距離トラックを乗り継いで、関門海峡のサービスエリアに、翌日に到着した。実は、釜山への便は、夕方五時に出るから、三時までには出国手続きをしなくてはならないので、夜に走り続けることに決めたのだ。

 フェリー乗り場で、往復チケットを一万五千八百円で、買った。一割だけ安くなったけれど、実は、片道だけ買って、帰りを釜山で買った方が、本当は安かった。
 オーストラリア・アクセントの外国人が、バナナを沢山持って行列していた。他の人たちもバナナを持っている人が多くて、後になってわかったけれど、当時の韓国はバナナの関税が高くて、親戚にバナナをおみやげに買っていったり、韓国でバナナを売るために買っていく運び屋が多かったのだ。

 船内には銭湯のようなお風呂があって、前夜の汗を流すことが出来たけれど、荷物の盗難が恐くて、貴重品は全て袋に入れて、浴槽に持って入った。日本海の荒波で、船は揺れに揺れて、入浴も大変だった。
 船室は、二等の、雑魚寝のカーペットの大部屋で、毛布にくるまって、出会った人たちといろんな話をした。もちろん、ハングルの発音や、使える表現をどんどん習って、明日から二週間続く、朝鮮半島サバイバルに備えたのは言うまでもない。
 若者はもちろんのこと、運び屋のおばさん達も、とても、僕に優しくしてくれて、盗難を恐れた自分が恥ずかしかった。翌朝、入国審査で、事件に巻き込まれることも知らずに、初めての海外の夜に興奮していた。



続きの 第二回「入国審査」を読む


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