横山厚夫さんのエッセイ
   


吾妻小舎
- 横山厚夫さんのエッセイ -

with Beautiful Nature & Stars


- 吾妻の山々と吾妻小舎 -



 吾妻小舎を度々訪れる横山厚夫さん、低山愛好家としてはもとより、近代山岳史の研究においても著名な方で、関係書籍を多数出版されています。 その横山さんが、吾妻小舎の本ホームページに素敵な文章を寄せてくださいました。 今回から連載を始めたいと思います。


吾妻の山々と吾妻小舎

 まず、はじめに

 私が最初に吾妻の山々を歩いたのは1972(昭47)年の7月、今からちょうど35年前のことになる。
 このときは安達太良山にへ登る前の小半日を費やした、いってみれば「ついで登山」であった。朝の急行で福島駅へ、そして.バスでお昼少し前に浄土平にあがったあとは、午後の野地温泉へ下るバスが出るまでの急ぎ足の一切経山登山であり鎌沼半周だった。
 正直いって、私はそれまで吾妻という山に相当の偏見があった。「なんだ、観光道路の通じている山ではないか」というわけである。
 しかし、よく晴れた、その夏の日の午後、一切経山の山頂にたってずいと周りを見渡したとき、私はこれまでの不明を恥じた。
 これは、なんと素晴らしい山々の連なりではないか。ことに西の彼方に奥深く続いていく濃緑の山並みを見ては、ただ呆然とするばかりであった。
 さらにそればかりではなく、この吾妻というところには、実に多くの美しい水が存在しているではないか。五色沼、鎌沼などのほか各所に点在する池塘を目にして、私はすっかり嬉しくなってしまった。入道雲の隙間からもれる夏の強烈な日差しを反射して、みなまぶしく光っている。私は吾妻であろうとどこであろうと、いつもこうした沼や池塘を見るたびに、山の上に水のあることの不思議に魅せられて見飽きることがないのだが、ことに鎌沼の岸辺を歩いたときには、その一見、北欧を思わせる景観にすっかり感激してしまった。
 あぁ、吾妻とは、なんて好い山だろうか。私はこの日から吾妻の発散するオーラに捕らわれ、以後、度重ねて通うことになった。さらに82年の6月、その年の連休から小舎に入るようになったという遠藤さん夫妻と知り合ってからは、その頻度はいっそう増していった。
 車道からそれほど離れてはいないにもかかわらず、桶沼のかげに隠れて、いつも静かな山の宿。昭和9(1934)年建設という、ほぼ昔の面影を残すがっしりした丸太作りの、つねに掃除の行き届いた気持ちのよい吾妻小舎。
 そして、この小舎に一夜をおくって、よく晴れた朝、これから山を一歩きしてこようという前の食事時に、遠藤さん夫妻と談笑を交わしながらバターと蜂蜜をたっぷり塗ったトーストを食べていると、私は「わが人生の幸福、ここにあり」という気分になってくる。

*

 さて、これまで述べたように今年(2007年)で私と吾妻との付き合いは35年になるし、遠藤さん夫妻と知り合ってからでも25年の歳月がたった。これは私の人生の中でもけっして短い時間ではなく、吾妻の山や小舎を通じて多くの人と出会いながら、数々の楽しい思い出を残してきた。あのときは、あの人がどうしてこうしてと懐かしく思い出されるエピソードも少なくない。
 例えば、一切経山に登れば、かつての日、望月達夫さんとこの山頂を越して滑川温泉に下った日のことが思い出されるし、残雪の東吾妻山に登れば池田仙太郎さんと一緒だったときのことが思い出されてくる。望月さんも池田さんももうこの世の人ではないが、お二人とも吾妻の山を通じて、いまも私の心の中に健在だ。これから、そうした人々の思い出とともに、「私の吾妻」を語っていくことにしようと思う。
 題して「吾妻の山々と吾妻小舎、出会った人々」の何編かである。


 吾妻の山々と吾妻小舎、思い出す人々
 1.望月達夫さん

 ご存じとは思うが、一応、ここで望月さんについて説明しておきたい。
 望月さん(1914~2002)は麻布中学校入学と同時に登山に開眼し、東京商科大学(のちの一橋大学)にあっては山岳部員として往年の名クライマー小谷部全助ほかとともに北岳バットレスなどの開拓に力があった。早くからヒマラヤの研究にいそしみ、メイスン、ロングスタッフなどのヒマラヤ名著の翻訳も多い。日本山岳会では機関誌『山岳』の名編集者といわれ、副会長を勤めたのち名誉会員にも推挙されている。『遠い山近い山』『折々の山』などの著書でも知られるように、ヒマラヤ研究もさることながら人知れぬ、そして静かな山を丹念に探し出しては登るのがお好きだっだ。望月さんの山登りはクライミングよし藪漕ぎよしのオールラウンドにわたるものであり、ことに藪山で道を探すとなると水を得た魚のように本領を発揮し、とても楽しそうだった。
 私は望月さんと130回ほどの山行をともにし、そのうち吾妻へは以下の2回、ご一緒している。

 1.1975年8月 米沢駅=白布温泉=北望台−人形石−西吾妻山−西吾
        妻小屋泊−西大巓−馬場谷地−白布峠=猪苗代駅
 2.1983年7月 福島駅=浄土平−東吾妻山−吾妻小舎泊−一切経山−家
        形山−滑川温泉=峠駅

 そこで、これらの山行のうちで、いまもはっきりと思い出すエピソードを2,3書いてみることにしたい。
 一つは1985年、西吾妻山に登った帰りの磐越西線の車窓風景である。猪苗代駅から乗った列車が中山峠にさしかかる辺りで背丈の伸びたススキの穂が列車の風に大きくなびくのを見て、「まだ8月というのに、もう、この辺はすっかり秋の気配だな」と感じたこと。それにもう一つ、前の席で健康優良児的によく寝ている望月さんの姿を、いまもはっきりと覚えていている。望月さんは山の帰りの車中では実によく眠っていた。確か阿武隈の帰りだったと思うが、列車が動き出してすぐ「お腹がへったねぇ」と駅前で買ってきたタイヤキを食べ始めたのはいいが、その尻尾を口から出したまま、早くも気持ちよさそうにお休みの姿を見て思わず噴きだしたこともあった。
 また、望月さんと吾妻を歩いて2度目の83年の夏、滑川温泉へ下ったときの一情景もいまに忘れられない思い出だ。それは山から下り温泉で汗を流した後、峠駅へ行く宿の送迎バスに乗ろうとしたときのこと。大きな湯宿には近在の農家のお婆さんたちが湯治に来ていたが、そのうちの2,3人がやはりそのバスで帰ろうと乗ってきた。すると、見送るお婆さんたちが窓越しに口をそろえて「バッチャン、来年も元気でくるんだぞぉ、死ぬんじゃないんだぞぉ」。
 その時は、望月さんともども大いに笑ってしまったが、この歳になると、いかにそれが心のこもった見送りの辞であったかがよく判る。
 望月さんが亡くなって今年で早や5年がたつが、あの滑川温泉でのバッチャンたちの見送り光景を思い出すにつれ、もう一度望月さんと吾妻小舎に泊まり、一切経山や釜沼の辺りを歩いてみたくなってくる。そして、その日の朝食には、美味抜群のトーストを、望月さんにも、ぜひ、賞味してもらいたいと思う。私は吾妻小舎の朝、バターと蜂蜜をたっぷりぬったトーストを食べるとき、これ以上の幸福がこの世にあるだろうかと思うのが常だが、たぶん遠藤さんも望月さんの来泊に気をよくして、「これはよく焼けていますよ」という格別の1枚を選んでくれるに違いない。
 なお、望月さんと同じ一橋大学山岳部の出身で先輩格になる吉沢一郎さんにも吾妻小舎で出会ったことがあった。吉沢さんは望月さん、深田久弥さん、諏訪多栄蔵さんとともに日本のヒマラヤ研究では四天王といわれて、戦後、日本からヒマラヤを目指した人たちにとっては、「まず、吉沢さんに相談を」と頼りにされた方だった。1903年、深田さんと同年の生まれで亡くなったのが1998年。私が吾妻小舎でお会いしたのは、当然、それよりも何年か前の残雪の季節になる。地元の山岳会の人たちとスキーを楽しんだついでに小舎で一休みされていったのだが、私はその折に諏訪多さんや望月さんの噂話などを話したのを覚えている。


▲望月さん 1982年2月撮影(中央沿線 赤芝・)

 2.池田仙太郎さん

 池田仙太郎さんは福島の街中に住んで、毎週のように小舎にあがってくる常連の一人だった。私が親しくなったのは、その晩年の10年ばかりの間に過ぎないが、いまでも小舎の遠藤さんと折にふれ思い出話をすることがある。「あのおじいさん、なかなかしゃれた格好をしていた」とか「僕が最初,池田さんに会ったときは精々60ぐらいだと思ったのだが、あれで、もう、80歳に近かったんだ。元気なおじいさんだったねぇ」などなど。ことに、池田さんの口から、思いもかけぬマロリーやアーヴィンなどという名が飛び出したときのことは、忘れられない楽しい想い出だ。
 それは1986年の4月24日のこと。
 私たち夫婦は、その年の開通一番バスで小舎にあがろうと、早い時間に福島に着いた。バスのキップを案内所に買いに行くと、たまたま池田さんもそこにいて一緒になった。よく晴れた日で、小舎にあがってから私たちは東吾妻山に登り、池田さんはスキーをやるといい蓬莱山のほう出かけていった。
 夕食は6時、池田さんと私たち2人のほかに数人のお客さんがいた。遠藤さんが「今日は今シーズンの開所式みたいなものだから」とお酒を出したが、下戸の私と家人は精々コップに半分くらいのビールがよいところ。しかし、ほかの皆さんはよく飲んでおしゃべりが楽しそうだった。池田さんは少し離れた斜め奥に座り遠藤さんと話がはずんでいるようだったが……
 「イエローバンドをマロリーとアーヴィンが登っていって感激したぞい」
 私は、あれ、と驚いた。その声は池田さんに間違いはないが、ここで、唐突に大昔の英国隊によるエベレスト登山のカタストロフィが出てくるなんて、いったい、どうしたことだろう。しかし、それに相槌を打つ人は誰もいないようだ。私は大急ぎで、頭の中のエベレスト登山史のページをめくった。
 「うん、オーデルがそのときの二人の最後の姿を見ていますよね。1924年のノートンが隊長のときで」
 なんとか池田さんの独り言?に話を合わせるくらいの知識は私にもあった。とっさのことで、それもほんの軽い気持ちで話をつなげたのだが、それを聞くと、池田さんは一瞬だまったまま酔って赤くなった顔をこちらに向け、ましまじと私のほうを見た。
 よくぞ、話が判ってくれる人がいた、欣快至極といった面持ちだった。あとで「あのときは涙がでた」といったくらいだから、よほど嬉しかったに違いない。
 思うに、池田さんは程よくお酒がまわるにつれ、何十年か昔の忘れられない思い出がよみがえってきいて、遠藤さんと山の話をするうちに、つい口にでてきたのだろう。
 1924年というと、池田さんは15,6歳の頃だったが、山好きの少年の一人として英国隊のエベレスト登山にも関心をもち、マロリーとアーヴィンの遭難を知って悲痛な思いをしたに違いない。
 それにしても1924年を和暦にすれば昭和を通り越してまだ大正の13年、当時の日本では、幾ら山登りをやっていますといっても、遠いヒマラヤの登山活動にまで興味を持つ人はごく少なかったろう。もちろん今のような山岳雑誌はなく、そうしたニュースは日本山岳会の機関誌『山岳』のほかには、新聞の外電として報じられるくらいのものではなかったか。しかし、それを日本の地方都市の少年が読んで終生忘れられないほどの感動をいだくとは……
 そう考えると、私は胸のあつくなる思いがし、いっそう池田さんが好きになった。以後、亡くなるまでの間、年の差はあるにしても親しい山の友達として過ごした。遠藤夫人の雅子さんをまじえて雪の東吾妻山に登ったこともあったし、遠藤さんの車で駒止湿原へ遊びに行ったこともあった。
 なお、後日、この池田さんとのエベレスト談義を望月さんに話したことがあった。すると、ハントの『エヴェレスト登頂』の訳者でもある望月さんは、わが事のように「それは楽しかったねぇ」とにこにこされたのを、今もよく覚えている。
 池田さんは1995年に88歳で亡くなった。


▲池田さん 1986年4月撮影(吾妻小舎)

 3.柿原謙一さん

 私は望月さんを通じて一橋大学山岳部出身の何人かの先輩方と知り合うようになった。お歳の順には先の吉沢一郎さんが一番の長老格で、あとは近藤恒雄さん、村尾金二さん、柿原謙一さん、佐々木誠さんとなる。また、私よりほんの少し若い山本健一郎さんもそうだったが、今年の春にその山本さんが亡くなると、ここでお名前をあげた方々はみな彼岸の人となってしまった。なお、吉沢さんとは、その機会がなかったが、他の方々とは何度か一緒に山に登っている。
 柿原さんは秩父の旧家に生まれて、秩父鉄道の社長、会長まで勤められた方である。お家も秩父市の街中あって奥武蔵の丸山や笠山に便がよく、私は何度か、そうした低山にご一緒したし、奥秩父、西上州、奥日光、吾妻の山々にもいっている。
 柿原さんとの吾妻山行は1987年の5月初めの残雪期、吾妻小舎に2泊して東吾妻山と一切経山に登り、最終日は微温湯温泉に下り汗を流してから帰った。
 微温湯はその名の通りのぬるい温泉だが、柿原さんは、その尋常ではないぬるさにはびっくりし、とても我慢できないと、飛び出すようにして上がってしまった。「人肌ぐらいしかありませんよ」と最初にお断りしておいたのだが、それほどとは思わなかったのだろう。あとあとまでも、「あれには驚いた」といっていた。
 なお、このとき小舎には、前記の池田さんも居合わせて、初対面ながら、このお二人はずいぶん話がはずんでいた。池田さんはすっかり柿原さんと意気投合したしたようで、ずっとあとになっても、私の顔を見るたびに「社長さん、社長さん」と懐かしんでいた。私が柿原さんと吾妻へ登ったのは、この1回だけだが、さらにまた登って2度3度と池田さんとも会う機会があったら、池田さんは、さぞ喜んだに違いない。いま、吾妻小舎にいて池田さんを思い出せば、しぜんと柿原さんとご一緒した日のことも思い出されてくる。
 柿原さんと登った年の残雪は少なく、例年ならば雪の上をとぎれなくたどっていける東吾妻山もところどころで藪が出ていた。私は柿原さんの履く、まるでヒマラヤ装備のようなプラスチックブーツのためにも、もう少し雪があればよいと思ったのをよく覚えている。ことに微温湯温泉に下った日は途中から雪がなくなり、柿原さんのプラスチックブーツは箱をひきずっているようでずいぶん歩きにくそうだった。でも、柿原さんは「この靴なら絶対足は冷たくならない」と奥武蔵のような低山でも雪があれば必ずこの靴をご愛用だったので、ご本人にすれば、はたで見るほどのことはなかったのかも知れない。
 一橋大学の山岳部時代、柿原さんは望月さんの1年先輩だったと聞いているが、社会人となってからも、よく山行をともにしていた。西上州、奥日光などでは、私もこのお二人のあとについて登ったことがあり、ときには、お互い山岳部の頃のエピソードをうかがったものである。望月さんからは「柿原さんは南の地蔵岳のオベリスクから落ち、新聞種にもなった」などと聞いた覚えもある。
 柿原さんは池田さんより5年、望月さんよりは2年早い2000年の春に亡くなった。


▲柿原さん 1987年5月撮影(東吾妻山)

 4.寺田政晴さん

 昨年(2006年)の秋、私とは約30年の間に200回を超す山行をともにした寺田政晴君が急逝してしまった。まだ、60歳前で、いまの時代からすれば早すぎるとしかいいようがなく、痛恨極まりない。
 寺田君の家は八王子市片倉にあったので、一緒に出かけたのは双方に便のよい中央沿線の山々が多かった。東北の山は朝日連峰の縦走と山形の葉山、それに吾妻くらいのものだが、葉山の帰りに吾妻にたちよったのは1994年の8月下旬のことだった。山から下りてきて山形の街でもう一泊すると、そのまま帰るのはもったいないといいだした挙句の、いわゆる「帰りがけの駄賃登山」だった。午後のバスで帰る間の小半日の吾妻滞在であり、私たち夫婦は鎌沼一周だけだったが、寺田君は東吾妻山に登りにいった。
 そのすぐあとの同年9月下旬、私は館山君を交えて寺田君と、もう1回、吾妻にいっている。残念なことに、このときは2泊したにもかかわらずお天気にめぐまれず、栂平へいっただけで終ってしまった。
 なお、ここで名のでてきた館山君は私の高校の同級生で、寺田君とも何回か一緒に山にいっている。説明は省くが、遠藤さん夫妻も「斜山さん」として、彼をよくご存知のはずだ。寺田君は常々「館山さんはとても好い人だ」といい、信服していた。館山君も寺田君の急逝には信じられないと絶句したひとりだった。
 いま、これを書きながら考えるのは、この夏、また吾妻へいくときには館山君を、ぜひ、誘ってみようということ。彼自身も、私が先の6月初めにいってきたと話すと、「あぁ、もう一度、吾妻へ行ってみたいな」といっていた。
 次回の吾妻小舎では、多分、寺田君の想い出が多く語られることになるだろう。

(2007.6)


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