「宮澤賢治の東京における足跡」を歩く−日本橋編−
   

「宮澤賢治の東京における足跡」を歩く−日本橋−


Kenji & Tokyo

取材:2006年2月〜2008年6月

- 賢治の足跡の今を訪ねて -


      

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東京における賢治の足跡 日本橋界隈

      
【2回目の上京:1916(大正5)年7月30日〜9月7日】
 @ 三井銀行(三越)
 A 日本橋
【3回目の上京:1917(大正6)年1月4日〜1月7日】
 B 本石町
 C 宮城館(両国橋)
 D 明治座
【4回目の上京:1918(大正7)年12月27日〜1916(大正8)3月3日】
 E 小林六太郎宅
【7回目の上京:1926(大正15)年12月4日〜1916(昭和元)12月30日】
 E 小林六太郎宅
【8回目の上京:1928(昭和3)年6月8日〜6月24日】
 D 明治座
 E 小林六太郎宅
【9回目の上京:1931(昭和6)年9月20日〜9月27日】
 E 小林六太郎宅


日本橋界隈の地図(現代)
▲日本橋界隈の地図(現代)




@ 三井銀行(三越)
▲現在の三井本館
▲同看板
時期:
《賢治2回目の上京:1916(大正5)年7月30日〜9月7日まで・賢治19歳・盛岡高等農林2年生》
年譜:
1916(大正5)年8月1日(火)〜8月30日(木) 神田区猿楽町17、東京独逸学院で催された「独逸語夏季講習会」を受講する。
1916(大正5)年8月17日(木) 〔消印による推定〕帰省(山梨県北巨摩郡駒井村)中の保阪嘉内あて封緘葉書(書簡19)。 これによると麹町三丁目の栄屋旅館に移っており、高橋秀松も同居している。 この封緘葉書にはドイツ語講習のありさまや東京の短歌二〇首が認められている。 この中に版画のうた四首がある。
関連作品など:
《書簡19 1916年8月17日 保阪嘉内あて 封緘葉書》 多分は宅に御出でのことと思ひます。 この間事によったら帰省の途中で訪ねて御出でになるかと待つて居りました。 私は毎日神田の仲猿楽町迄歩いて行つて居ります。 ワス イスト ダスなどははるかに丁度岩手さんの七合目から二合辺を見下した様に威張つて居ります。 例すれば丁度一週間に次のやうな課をやりました。(略) (以下、葉書に書かれた歌稿より) うすれ日の三井銀行その中の弱きひとみのふつとなつかし
当時の住所:
日本橋区室町3丁目
現在の住所:
中央区日本橋室町2丁目1番1号

 賢治は2回目の上京時、麹町の旅館に宿泊しながら神田の東京独逸学院でドイツ語を学んでいました。 東京独逸学院のあった神田界隈以外の場所として、この三井銀行、日本橋なども訪れていたことが保阪嘉内への葉書に書き留められた歌稿からうかがうことができます。
 賢治の訪れた三井銀行は、1874(明治7)年に三井両替店からスタートし、1876(明治9)年に日本初の私立銀行として開業しています。 1902(明治35)年に本店本館を竣工していますが、関東大震災で被災したために1929(昭和4)年に建替えられたものです。 つまり、今ある三井本館は、賢治存命中の建物ではありますが、賢治が「うすれ日の三井銀行その中の弱きひとみのふつとなつかし」と詠んだものは違う建物ということになります。
 現在の建物は、アメリカのトローブリッジ・アンド・リヴィングストン事務所設計によるもので、国の重要文化財に指定されています。 三井本館として、三井不動産の本社、三井住友銀行日本橋支店、中央三井信託銀行日本橋営業部などが入居しています。
 訪問には、東京メトロ地下鉄銀座線の三越前駅下車、A7出口(三井本館出口)が便利です。

 上写真左側は、三井本館を交差点から撮影したものです。 この建物の後ろ側には、日本銀行本店があります。
 上写真右側は、西側にある日銀側の入口上部にある飾りの部分です。 「三井本館」と書かれています。

 この写真は、三井本店の壁面にあるプレートです。 建物全体を見渡すと、「いかにもアメリカ」的などっしりとした建築です。

 この写真は、賢治が訪れた当時の三井銀行の建物です(明治40年撮影)。 当時は、現在の三井本館の西側だけが三井銀行の敷地でした。

 この写真は、三井本館のすぐ向かいにある三越日本橋店(中央区日本橋室町1丁目4番地1号)です。 こちらも迫力のある建物です。
 1914(大正15)年に建築された建物を、関東大震災後に大改造し、1927(昭和2)年に竣工となったものです。 わが国初の自動扉付きエレベーターやエスカレーターが設置されて話題となったデパートです。
 三越デパートについては、賢治の童話「ビヂテリアン大祭」に、 「私は三越でこさえた白い麻のフロックコートを着ましたが、これは勿論、私の好みで作法ではありません。」 と引用があります。
 三越の設定が「洋服の仕立て業」を意図した説明になっています。 現代では「百貨店」ですが、当時は歴史ある三越呉服店としてのブランドがあり、賢治もその認識で三越の名前を記したのでしょう。 三越のホームページにはその歴史を紹介した歴史再発見のコーナーもあります。



A 日本橋
▲日本橋
▲日本橋の袂にある解説板
時期:
《賢治2回目の上京:1916(大正5)年7月30日〜9月7日まで・賢治19歳・盛岡高等農林2年生》
年譜:
1916(大正5)年8月1日(火)〜8月30日(木) 神田区猿楽町17、東京独逸学院で催された「独逸語夏季講習会」を受講する。
1916(大正5)年8月17日(木) 〔消印による推定〕帰省(山梨県北巨摩郡駒井村)中の保阪嘉内あて封緘葉書(書簡19)。 これによると麹町三丁目の栄屋旅館に移っており、高橋秀松も同居している。 この封緘葉書にはドイツ語講習のありさまや東京の短歌二〇首が認められている。 この中に版画のうた四首がある。
関連作品など:
《書簡19 1916年8月17日 保阪嘉内あて 封緘葉書》 多分は宅に御出でのことと思ひます。 この間事によったら帰省の途中で訪ねて御出でになるかと待つて居りました。 私は毎日神田の仲猿楽町迄歩いて行つて居ります。 ワス イスト ダスなどははるかに丁度岩手さんの七合目から二合辺を見下した様に威張つて居ります。 例すれば丁度一週間に次のやうな課をやりました。(略) (以下、葉書に書かれた歌稿より) 日本橋この雲のいろ雲のいろ家々の上にかゝるさびしさ。
当時の住所:
日本橋区(柳原河岸、西河岸、裏河岸、魚河岸に隣接)
現在の住所:
中央区日本橋1丁目、日本橋室町1丁目

 賢治は2回目の上京時、麹町の旅館に宿泊しながら神田の東京独逸学院でドイツ語を学習していました。 東京独逸学院のあった神田界隈以外の場所として、この日本橋、三井銀行なども訪れていたことが保阪嘉内への葉書に書き留められた歌稿からうかがうことができます。
 賢治の見た日本橋は、景観こそ違いますが、現在ある日本橋と同じものです。 1911(明治44)年4月3日に開通したもので、全長49.5m、幅27.5mで、花崗岩などによる石造り2連アーチ橋(欠円アーチ構造)です。

 東京オリンピック前の高速道路整備で、1964(昭和39)年にその上を高速道路(首都高速都心環状線)が通過し、橋の下の橋となってしまいました。 この写真はお隣の西河岸橋から撮影した日本橋です。

 上写真左側は、現在の日本橋です。 高速道路の橋の下にあります。 最近、高速道路を撤去して景観を取り戻そうという話題が出ていましたが、勿論賛成です。
 上写真右側は、日本橋の解説板です。 中央区日本橋1丁目側にあります。 以下解説板より。  国指定重要文化財 日本橋 所在地 中央区日本橋一丁目 日本橋室町一丁目
 日本橋がはじめて架けられたのは徳川家康が幕府を開いた慶長八年(一六〇三)と伝えられています。 幕府は東海道をはじめとする五街道の基点を日本橋とし、重要な水路であった日本橋川と交差する点として江戸経済の中心となっていました。 橋詰には高札場があり、魚河岸があったことでも有名です。 幕末の様子は、安藤広重の錦絵でも知られています。
 現在の日本橋は東京市により、石造二連アーチの道路橋として明治四十四年に完成しました。 橋銘は第十五代将軍徳川慶喜の筆によるもので、青銅の照明灯装飾品の麒麟は東京市の繁栄を、獅子は守護を表しています。 橋の中央にある日本国道路元票は、昭和四十二年に都電の廃止に伴い道路整備が行われたのを契機に、同四十七年に柱からプレートに変更されました。 プレートの門司は当時の総理大臣佐藤栄作の筆によるものです。
 平成十年に照明灯装飾品に修復が行われ、同十一年五月には国の重要文化財に指定されました。 装飾品の旧部品の一部は中央区が寄贈を受け、大切に保管しています。
 平成十二年三月 中央区教育委員会

 隣には、1936(昭和11)年4月に日本橋区により建てられた「日本橋由来記」の碑があります。

 この写真は、日本橋横の「元標の広場」にある日本国道路元標(複製)です。 本物は道路の真ん中にあります。 「元標の広場」には各地への距離を示す「里程標」もあり、それによれば、 「横浜市二九粁(キロ)、千葉市三七粁、甲府市一三一粁、宇都宮市一○七粁、名古屋市二七○粁、水戸市一一八粁、京都市五○三粁、新潟市三四四粁、大阪市五五○粁、仙台市三五○粁、下関市一、○七六粁、青森市七三六粁、鹿児島市一、四六七粁、札幌市一、一五六粁」 となります。
 また、かつて日本橋の道路の中央に建てられていた、「東京市道路元標」もあります。




B 本石町
▲旧本石町
▲日本銀行本店
時期:
《賢治3回目の上京:1917(大正6)年1月4日〜1月7日まで・賢治20歳・盛岡高等農林2年生》
年譜:
1917(大正6)年1月4日(木)〔消印による推定〕上京、前年末、政次郎が残した商用を果たすためで、叔父宮沢恒治も用をもって同行。 この日賢治は神保町、本石町と歩き、疲れはてて両国橋畔の宮城館に叔父と泊る。 岩谷堂出身者が営む、母方の本家(宮善)の常宿である。 保阪、高橋の両友へ上京を報じる。(書簡26・27)
関連作品など:
《書簡26 1917年1月4日 保阪嘉内あて 葉書》 東京へ宅の用で出ました。 神保町本石町両国橋とさまよひ果て労れ果て今小さな宿屋の室に叔父の来るのを待ってゐます。
《書簡27 1917年1月4日 高橋秀松あて 葉書》 うちの用でこちらに参りました。 今日はじめて不思議なゲルドの経験を得ました。 神保町、本石町、両国橋とあてなくまたあてあってさまよひ労れ果てて今両国の橋の袂の宿に叔父と一緒になりました。
当時の住所:
日本橋区本石町1丁目〜4丁目
現在の住所:
中央区日本橋本石町4丁目、日本橋室町4丁目、日本橋本町4丁目付近

 江戸通りに面した一帯で、現在でも日本各地の金融機関の東京支店が立ち並ぶ金融街となっています。
 賢治は、高橋秀松あての書簡で「今日はじめて不思議なゲルドの経験を得ました。」(書簡27)と書いていますが、本石町が当時の東京の金融関係の拠点であることと一致しています。 (賢治全集の書簡27にある備考によれば、「*ゲルド……金(貨幣)。ドイツ語で正しくは「ゲルト」」とあります。) 年譜にある「政次郎が残した商用」は、恐らく金銭関係の用務であったのでしょう。

 上写真左側は、新常盤橋交差点から江戸通りを撮影したものです。 銀行の看板が目立ちます
 上写真右側は、日本銀行本店(中央区日本橋本石町2丁目1番地1号)です。 辰野金吾設計の本店は、今もまだ残されています。 1896(明治29)年完成の建物ですから、賢治と同い年です。 歌稿に三井銀行が出てくることから、この日本銀行近くも歩いていたことでしょう。
 なお、賢治の東京滞在における重要人物、小林六太郎の当時の住所は、同じく日本橋区本石町ですが、別掲としました。

 この写真は、日本銀行本店の真向かいにある日本銀行金融研究所貨幣博物館(中央区日本橋本石町1丁目3番地1号 日本銀行分館内)です。 とても立派な施設で、(しかも入場料も無料)太古から現在までの貨幣の歴史を見ることができます。 賢治の時代の貨幣も見ることができます。 (当時は今と較べると、なんと大きなお札を使っていたのでしょう!・・ここで「不思議なゲルドの経験」を!)




C 宮城館(両国橋)
▲現在の宮城館
▲宮城館(看板)
時期:
《賢治3回目の上京:1917(大正6)年1月4日〜1月7日まで・賢治20歳・盛岡高等農林2年生》
年譜:
1917(大正6)年1月4日(木)〔消印による推定〕上京、前年末、政次郎が残した商用を果たすためで、叔父宮沢恒治も用をもって同行。 この日賢治は神保町、本石町と歩き、疲れはてて両国橋畔の宮城館に叔父と泊る。 岩谷堂出身者が営む、母方の本家(宮善)の常宿である。 保阪、高橋の両友へ上京を報じる。(書簡26・27)
関連作品など:
《書簡26 1917年1月4日 保阪嘉内あて 葉書》 東京へ宅の用で出ました。 神保町本石町両国橋とさまよひ果て労れ果て今小さな宿屋の室に叔父の来るのを待ってゐます。
《書簡27 1917年1月4日 高橋秀松あて 葉書》 うちの用でこちらに参りました。 今日はじめて不思議なゲルドの経験を得ました。 神保町、本石町、両国橋とあてなくまたあてあってさまよひ労れ果てて今両国の橋の袂の宿に叔父と一緒になりました。
当時の住所:
日本橋区薬研堀町41番地(奥田弘「宮澤賢治の東京における足跡」による、なお、「東京旅館案内」(東京市役所発行、1937)による住所は、「両国48番地」となる。)
現在の住所:
中央区東日本橋2丁目4番9号 宮城館ビル

 東京メトロ浅草線東日本橋駅の近くです。 賢治にとって3回目の上京時に叔父恒治と共に宿泊した宿の場所です。
 奥田弘「宮澤賢治の東京における足跡」では、「大正五年の一二月の上京の目的は、不明であるが、前記の高橋秀松氏宛の新発見の書簡によって、宿泊先が、ほぼ推定できる。 略図Hがそうだろうと思う。 『東京案内』(東京市編、明四〇年発行)によると、「両国橋」をはさんで、墨田区と中央区側に、七、八軒ほどの旅館がある。 その中で、福井屋と永田屋がもっとも「両国橋」に近い (古老によると、震災前の橋の向きは、現在地よりやや下流にあったという)。 しかし、これは断言できないので、推定の範囲にとどめておきたい。」とあります。
 当初「四次元」に掲載されたこの文章は、やがて小沢俊郎編「賢治地理」(學藝書林、1975)に収録されるにあたり、文末の補註により次のとおり訂正されています。 「一三二ページの足跡一覧表、No.9の「両国橋の袂の宿」は、その後の調査で判明したので、次のように訂正する。 この宿は「宮城館」である。 日本橋区薬研堀町四一番地(現、中央区東日本橋二丁目)にあった。 また、このときの叔父は、母方の宮澤恒治である。(略)」
 この文章にある「日本橋区薬研堀町四一番地」から現在の番地を割り出すことを試みたのですが、関東大震災後の区画整理で旧町名が分断されていて、地図上から現在の町名・番地を判断するのは困難でした。
 ところが、奥田弘著「宮沢賢治研究資料探索」(蒼丘書林、2001)に収録された「八幡館・宮城館のこと」(初出「銅鑼」34号(1979))により、「所在地 両国四八 交通機関 市電両国橋より南一丁、浜町川岸ヨリ北二丁」とあり、区画整理後の町名が「両国48」であることが判明しました。 日本橋区両国であれば、現在の町名に置き換える作業も、地図から容易に行うことができます。 この時点で、現宮城館の場所が「日本橋区2丁目4番」の一角であることが判明しました。(賢治が訪れた地点とは異なることに注意)
 そこまで予め調べ、実際に行って探して見たらすぐ見つけることができました。

 上の写真を見てください。 かつて旅館であった宮城館は、普通のビルになっていましたが、旅館名を「そのまま」残し、「宮城館 MIYAGIKAN BLDG.」となっていました。

 上写真左側が、現在の宮城館ビル(中央区東日本橋2丁目4番9号)です。 ちょうど角地にあって、もし旅館であれば立地条件が良さそうです。 手前の道路は御幸通りです。
 宮城館主人は、年譜にあるとおり、岩手県岩谷堂出身で、賢治の本家(宮善)の常宿なっていたといいます。 (ホームページ賢治にかかわりのある江刺の人々より)
 上写真右側は、宮城館ビル入口にある看板です。 「MIYAGIKAN BLDG.」とあります。 このビルには、グローリー・エフ・アンド・シー株式会社という券売機やICカードリーダーなどを扱う企業が入っています。

 この写真は、両国橋近くの道端にあった「東日本橋両国商店会案内図」看板を拡大したものです。 「宮城館ビル」の名前を見つけることができます。

 この写真は、両国橋のそばの両国橋西交差点です。 江戸時代には「両国広小路」と呼ばれ、盛り場として賑わった場所と言われています。 賢治の時代には、この場所に市電の乗り場がありました。

 この写真は、現在の両国橋です。 震災後に1932(昭和7)年に震災復興事業の最後の橋として、墨田川に架橋されたものです。
 賢治上京時の橋は、1904(明治37)年に鉄橋として架けられていたもので、現在の場所より20mほど下流に位置していました。 (この写真の撮影地に相当)
 写真奥に見える対岸の街は、墨田区で、両国駅方面です。 この橋のすぐ北側で、神田川が合流しています。

 両国橋については、賢治の童話「ビヂテリアン大祭」に、 「日本の花火の名所は、東京両国橋ですね。」 と引用があります。 江戸時代からの花火の名所で、現在でも隅田川花火大会として続けられているほか、錦絵においても歌川広重の「東京名所図会 両国大花火」が知られるところです。
 上の地図は、関東大震災前の地図です。 宮城館の名前が記されています。




D 明治座
▲大正時代の明治座跡
▲現在の明治座
時期:
《賢治3回目の上京:1917(大正6)年1月4日〜1月7日まで・賢治20歳・盛岡高等農林2年生》及び 《賢治8回目の上京:1928(昭和3)年6月8日〜6月24日まで・賢治31歳・羅須地人協会時代》
年譜:
1917(大正6)年1月5日(金)浜町の明治座を一幕見。 一番目「平相国」二幕(山崎紫紅作)、中幕「阿波の鳴門どんどろ大師門前」「鳥辺山心中」(岡本綺堂作)、二番目「名工柿右衛門」(榎本乕彦作)三幕、大切り「身代り聟」(作者不明)。 出演者 五代目市川小団次、三代目中村歌六、初代片岡仁佐衛門、二代目市川左団次一座。 一幕見なので、中幕の「阿波の鳴門」を見たか。 巡礼おつるのご詠歌が童話「蜘蛛となめくぢと狸」を思わせる。 (以下、《下段 注記》より) 一月六日消印の保坂嘉内あて葉書(書簡28)に「昨夜」のこととして「明治座を一幕だけのぞきました」とあることによる推定。
1928(昭和3)年6月21日(木)メモ「図書館 浮展」「図、浮、本、、」。 浮世絵展は本日より第四回(二一日から二五日まで)の陳列替えで、初期版画一二一枚、東洲斎写楽七〇枚が出品された。 「本、、」は本郷座、明治座の意味か。 (以下、《下段 注記》より「明治座」補足) (一日から二五日まで)一番目「碇知盛」三場 舞踊劇 田辺尚雄作「与那国物語」一幕 中幕 岡鬼太郎作「鞍馬源氏」 二番目 河竹黙阿弥作「極附幡随院長兵衛」 三幕 大喜利「勢獅子」 中村右衛門、坂東三津五郎、沢村源之助、坂東秀調、大谷友右衛門、中村福助 大喜利「勢獅子」
関連作品など:
《書簡28 1917年1月6日 保阪嘉内あて 葉書》 昨夜ふと明治座を一幕だけのぞきました。 東京へ来ると神経が鋭くなって何を見てもはっとなみだぐみます。 弱いことは申しません。 今日YOKOHAMAに参りましてこれで用事終り。 今夜首尾よくふるさとの岩手けんに帰りまする。 さよなら。
「MEMO FLORA」手帳(使用時期は1928(昭和3)年6月と推定)104頁のメモに 21 図、浮、  本、 の記載があります。(年譜にあるとおり、「明」が明治座と推定されます。)
当時の住所:
(開業時〜関東大震災まで)日本橋区久松町37番地(石黒敬章著「ビックリ東京変遷案内」(平凡社、2003)より)、 (移転後=1928(昭和3)年3月以降)日本橋区浜町2丁目21番地(「古地図ライブラリー別冊古地図・現代図で歩く昭和東京散歩」(人文社、2003)より)
現在の住所:
(開業時〜関東大震災まで)中央区日本橋浜町2丁目10番地(アイランズ編著「東京の戦前昔恋しい散歩地図」(草思社、2004)より)、 (現在の明治座)中央区日本橋浜町2丁目31番地 浜町センタービル

 賢治は上京中にいくつもの劇場を訪れています。 書簡などの記録(推定含む)から、歌舞伎座、明治座、市村座、本郷座、新橋演舞場、築地小劇場などが挙げられます。 この明治座は年譜の記述によれば、1917(大正6)年と1928(昭和3)年の上京時に訪れています。
 槌田満文「東京文学地名辞典」(東京堂出版、1997)の「明治座」では、 「明治六年四月に日本橋久松町〔中央区日本橋久松町〕に開場した喜昇座は、一二年六月に久松座、一八年一月に千歳座と改称したが、二三年五月自火によって消失した。 初代市川左団次が座主となって明治座(宗兵蔵、横川民輔・設計)を新築したのは二六年で一一月一日に開場式を行っている。 木村綿花『明治座物語』(昭3)によれば、「歌舞伎座と市村座とを折衷した洋風の構造で、外部を鼠色に塗り、屋上高く『明治座』と書いた三文字は、菅原白龍の揮毫」だったという。 総建坪約三七二坪、座付の芝居茶屋に日野屋、花屋、猿屋、橋本など一一軒があった。 こけら落しの狂言は「石橋山」「扇屋熊谷」「遠山桜天保日記」で、左団次一門と権十郎に団十郎が加わっている。 三九年に襲名した二世左団次は、第一次外遊から帰国後の四一年一月、明治座で茶屋・出方廃止などの革新興行を行ない、松居松葉作の「袈裟と盛遠」、坪内逍遥訳「ベニスの商人」を上演したが、内外で不評を買う結果となった。 左団次が、明治座を井伊蓉峰に譲渡し、松竹の専属俳優となったのは大正元年九月で、八年には松竹がこれを買い取っている。 一二年九月の関東大震災で焼けた明治座は、昭和三年に日本橋区浜町二丁目〔中央区日本橋浜町二丁目〕に現在地に場所を移して開場した。 昭和二〇年三月の戦災で消失したうえ、戦後復興してからも昭和三二年に失火で焼け、翌年再建されている。」 とあります。

 上写真左側が、1917(大正6)年に訪れたとき明治座のあった場所です。 現在の中央区日本橋浜町2丁目10番地付近で、それぞれ東京トヨペット(日本橋浜町2丁目10番地5号)、日伸ビル(日本橋浜町2丁目10番地1号)が、明治座の正面に相当すると推定されます。 この道路横(画面外の右側)に浜町川が流れていました。
 上写真右側は、現在の明治座です。 槌田満文「東京文学地名辞典」(東京堂出版、1997)の解説では、1958(昭和33)年の再建が最後ですが、現在のビルは、1993(平成5)年に浜町センタービルとして竣工したさらに新しい建物です。 賢治が1928(昭和3)年に訪れたときの場所です。

 上側の写真は、1905(明治38)年頃の明治座の建物です。 賢治3回目、1917(大正6)年の上京時には、この建物を訪れたと思われます。 下の図は、当時の地図に写真の撮影場所がわかるように示したものです。 浜町川の対岸から、久松橋の前に建つ明治座を撮影していることがわかります。

 この写真は、関東大震災後に現在の場所に移転したばかり(1928(昭和3)年〜1930(昭和5)年頃)の撮影で、ちょうど賢治が8回目の上京で訪れた当時の写真です。

 上の地図は、明治座の場所の移転前と移転後を示したものです。 全集の年譜において、賢治3回目、1917(大正6)年の上京時の場所が「浜町の明治座・・・」となっていますが、この時期の明治座は日本橋区の「久松町」と思われます。 賢治が宿とした「両国の橋の袂の宿(宮城館)」からもほど近く、書簡28において「昨夜ふと・・・」とあることから察することができるとおり、近距離であったことが明治座で公演を見る理由にもなったと考えられそうです。

3回目の上京時の明治座
8回目の上京時の明治座



E 小林六太郎
▲鈴和ビル
▲鈴和ビル1階(拡大)
時期:
《賢治4回目の上京:1918(大正7)年12月27日〜1919(大正8)3月3日・・賢治22歳・盛岡高等農林研究生、》、 《賢治5回目の上京:1921(大正10)年1月24日〜1921(大正10)年8月中旬・賢治24歳・無職》及び 《賢治7回目の上京:1926(大正15)年12月3日〜1926(昭和元)年12月30日まで・賢治30歳・羅須地人協会時代》。
(《賢治8回目の上京:1928(昭和3)年6月8日〜6月24日まで・賢治31歳・羅須地人協会時代》、《賢治9回目の上京:1931(昭和6)年9月20日〜9月27日まで・賢治35歳・東北砕石工場技師》にも小林六太郎との関わりが年譜に記されているが、具体的な訪問の記録はありません。)
年譜:
1919(大正8)年1月15日(水)母イチの帰郷を、上野駅へ送る。 (略)
 母を見送ったあと市電で日本橋区本石町の小林六太郎家へいき、五〇円を受けとる。 この夜、トシ受持ちの望月医師が内科へ移ることになり、トシも伝染病室から内科病棟へ移った。 (略)(書簡113)。

1919(大正8)年1月21日(火)花巻から送られた葡萄汁を小瓶に分けて持ってゆく。 トシ朝は三六度六分。 午後も同様で気分もよい。
 日比谷図書館へ行き、帰途日本橋区本石町の小林六太郎家に寄って容態の順調をはなし、また父から頼まれている月おくれ雑誌を古本屋に探した。 トシ、夜は三七度八分である(書簡122・123・124)。

1919(大正8)年1月26日(日)(略)
 午後日本橋区の小林家へゆく。 三一日の病院支払分を受けとりにいったが、日曜日のこととで在金なしということで五円だけもらう。 小林家への預け金三〇〇円のうち、これまで一〇五円受けとったので、残金は一九五円となる。(略)

1919(大正8)年2月4日(日)節分。 午後は温暖だったが夜は寒気烈しくなる。
 日本橋区の小林六太郎商店へ従弟の岩田豊蔵が来ているかと思い、また病院の退院費用も受取りかたがた行く。 行ってみると来ているのは関徳弥で、しかも外出中だった(関は鎌善こと岩田金次郎家で働き、一九二三年三月金次郎長女ナヲと婿養子縁組婚姻し岩田姓になった。父政次郎とは従弟となる)。 小林六太郎から金五〇円受けとる。(略)

1921(大正10)年1月24日(月)上野午前八時三〇分着。(略)
 賢治は「あてにして来た国柱会には断られ実に散々の体」(書簡186)、お金は三、四円しかなく、万止むを得ず、日本橋区本石町の小林六太郎家を訪ねて泊めてもらうことにした。 小林六太郎は事情をきき「おとうさんを改宗させようたっていろいろ事情があって無理なことだ。早く花巻に帰って安心させなさい。」とさとしたが、それに対し反駁もせず、うんうんと頷いていたという。
 同夜〔消印による推定〕、保阪あてに上京を報じる(書簡182)。

1921(大正10)年1月25日(火)小林家を出、通三丁目の丸善へいき、予約の本を取り消し、二九円一〇銭を受けとり、原宿の明治神宮に参拝する。(書簡185)。 夕方、本郷区菊坂町七五(現、文京区本郷四丁目三五番地五号)の稲垣信次郎方二階に間借りした(書簡183・185)。 (略)
1926(大正15)年12月15日(水)父あてに状況報告し、小林六太郎方に費用二〇〇円預けてほしいと依頼(書簡222)。
1926(大正15)年12月20日(月)前後父へ返信(書簡223)。 重ねて二〇〇円を小林六太郎が花巻に行った節、預けてほしいこと、既に九〇円立替てもらっていること、農学校へ画の複製五七葉額縁大小二個を寄贈したことをしらせる。
1926(大正15)年12月23日(木)父あての報告(書簡224)。 調べもだんだん片附き重荷もおりたような気がすること、二一日小林家から二〇円だけ受けとったこと、二九日の夜発つことをしらせる。
1931(昭和6)年9月27日(日)(略)
 小林六太郎は日本橋区本石町なので八幡館へは市電で須田町で乗替え、二〇分もかからない。 この篤実で親切な、またたびたび青年期から厄介になった人と夫人から帰国するようすすめられては、父の命もあり、従わざるを得なかったろう。 小林六太郎は手際よく始末をし、その夜の二等寝台をとり、乗車させ、見送ったのである。(略)

関連作品など:
《書簡185 1921年1月30日 関徳彌あて 封書》 (略)第二日には仕事はとにかく明治神宮に参拝しました。 その夕方今の処に問借りしました。 はじめの晩は実に仕方なく小林様に御厄介になりました。 家を出ながらさうあるべきではないのですが本当に父母の心配や無理な野宿も仕兼ねたのです。 その内ある予約の本をやめて二十九円十銭受け取りました。 窮すれぱ色々です。 (略)
《書簡224 1926年12月23日 宮沢政次郎あて 封緘葉書》 皆様お変りもなく大慶に存じます わたくしもお蔭で無事勉強を続けて居ります 調べもだんだん片附いてやうやう重荷も下りたやう手足も自由になったやうな気がいたします。 小林様から一昨日内二十円だけいたゞきました。 次一年の仕度をすっかりして二十九日の晩にこちらを発って帰って参ります。 そちらは今年は大へんな雪とのことですがどうか皆様お大切にねがひあげます。

当時の住所: 日本橋区本石町4丁目
現在の住所: 中央区日本橋本町4丁目7番地10鈴和ビル(昭和通り拡張以前)
中央区日本橋本町4丁目3番地2(昭和通り拡張以後)

 小林家と宮沢家の関係については、【新】校本宮澤賢治全集の年譜篇の脚注に簡潔にまとめられています。
 宮沢家と「永いあいだ親類同様なつきあいをしていた」「化粧品問屋」(関『随聞』二七頁)。 昭和一三年、五一歳で没。 「曾祖父の代に、西洋ろうそくを発明」「だるまろうそく」の名で発売していた。 小林家と宮沢家の交際は、政次郎の「妹ヤスの夫岩田金次郎が、商用で上京した際、」「懐中無一文になって」困窮した時、「先代の小林六太郎が事情を知って」援助、これを伝え聞いた政次郎がお礼に上京して小林家に参上したのが契機だという(奥田弘「東京に於ける賢治の足跡(二)」「四次元」一九六号、昭和四二年八月一〇日)。

 上写真左、消火栓の前付近のビルが鈴和ビルです。 隣には、ビジネスホテル「日本橋東急ステイ」があります。 また、今の昭和通りには、首都高速1号上野線の高架もあります。
 上写真右は、鈴和ビルの1階を撮影したものです。 「麻婆豆腐専門店 真房」があります。

 奥田弘「宮澤賢治の東京における足跡」では、「妹トシの病状を知らせる父あての多数の書簡については有名であるが、この書簡の中で、しばしば、「小林六太郎様」「小林様」の名が見られる。(略) 「日本橋本石町で化粧品問屋」を営んでいた。(略) 小林家は、長野県小諸市の出身である。(略) 店舗は震災前は、昭和通りが開通する前の細い道に面していたが、震災後、昭和通りを広げるに際し、(略)現在地にひきさがった。」とあります。

 この写真は、江戸通りと昭和通りの交差点側から撮影した鈴和ビル方面です。総武本線の新日本橋駅から鈴和ビルに向かう場合の眺めになります。手前の店舗はうなぎの老舗「大江戸」です。創業は寛政年間という有名店です。

 この写真は、すぐ近所にある昭和通り拡張後に移り住んだ小林六太郎邸付近です。 右側の店舗がその地番になります。 現在は「たんぽぽ」というカレー店になっています。 昭和通りの拡張工事、すなわち帝都大復興事業が完了したのが1930(昭和5)年頃のことですから、賢治が旅館八幡館で病に倒れた際に、父政次郎の連絡を受けて小林六太郎が向かったのは、この場所からということになります。

 上の地図は、賢治が訪問した当時の小林六太郎の店舗敷地を赤色で示したものです。(大正元年日本橋区地籍地図に基づく推定) 関東大震災後の帝都大復興事業の一環で、道路が拡張されたため、賢治が1921(大正10年)家出上京した際に訪問した時期の小林家敷地の多くが、現昭和通りの下になってしまったことがわかります。 前記のとおり、震災後は、小林六太郎は日本橋本町4丁目3番地2に「ひきさがった」とありますから、賢治最後の上京時に八幡館へと向かった際には、もうこの場所に住んでいなかったわけですね。







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