「宮澤賢治の東京における足跡」を歩く−神田編−
   

「宮澤賢治の東京における足跡」を歩く−神田編−


Kenji & Tokyo

取材:2006年1月〜2月

- 賢治の足跡の今を訪ねて -


      

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東京における賢治の足跡 神田界隈

      
【2回目の上京:1916(大正5)年7月30日〜9月7日】
 @ 東京独逸学院
 A 神保町
 B ニコライ堂
 C 万世橋の停車場
【3回目の上京:1917(大正6)年1月4日〜1月7日】
 A 神保町
【4回目の上京:1918(大正7)年12月27日〜1916(大正8)3月3日】
 D 水晶堂
 E 金石舎
【7回目の上京:1926(大正15)年12月4日〜1916(昭和元)12月30日】
 F 上州屋
 G タイピスト学校
 H 東京国際倶楽部
【8回目の上京:1928(昭和3)年6月8日〜6月24日】
 F 上州屋
 I 日活館
 J 須田町食堂
【9回目の上京:1931(昭和6)年9月20日〜9月27日】
 K 八幡館


神田界隈の地図(現代)
▲神田界隈の地図(現代)




@ 東京独逸学院
▲現神田神保町2丁目24番地
▲旧研数学館
時期:
《賢治2回目の上京:1916(大正5)年7月30日〜9月7日まで・賢治19歳・盛岡高等農林2年生》
年譜:
1916(大正5)年8月1日(火)〜8月30日(木)神田区猿楽町17、東京独逸学院で催された「独逸語夏季講習会」を受講する。
関連作品など:
《書簡19 1916年8月17日 保阪嘉内あて 封緘葉書》 多分は宅に御出でのことと思ひます。 この間事によったら帰省の途中で訪ねて御出でになるかと待つて居りました。 私は毎日神田の仲猿楽町迄歩いて行つて居ります。 ワス イスト ダスなどははるかに丁度岩手さんの七合目から二合辺を見下した様に威張つて居ります。 例すれば丁度一週間に次のやうな課をやりました。(略) (以下、葉書に書かれた歌稿より2首) ぎこちなる独文典もきり降ればなつかしさあり八月のそら。 独乙語の講習会に四日来て又見えざりし支那の学生。
当時の住所:
神田区中猿楽町17番地(宮沢賢治記念館企画展示図録「「東京」ノートの〈東京〉」(栗原敦監修・解説)の「仲猿楽町17番地」の町名を当時の住居表示名に改めたもの。)
現在の住所:
千代田区神田神保町2丁目24番地付近(推定)

 神田神保町交差点から水道橋駅方面に白山通りを歩いて行くと、三崎町交差点までの間、通りの西側が旧中猿楽町になります。 賢治が書簡19の中で、「歩いて行つて居ります。」とした場所です。 (賢治は「仲猿楽町」と記していますが、これは慣用的に使われたいた表記です。当時の住居表示では「中猿楽町」と記されます。)
 一方、【新】校本宮澤賢治全集の年譜(P114)では「神田区猿楽町一七」とあるので、住所のとおりであれば、白山通りの東側(現在の神田神保町1丁目58番地付近)になります。
 宮沢賢治記念館企画展示図録「「東京」ノートの〈東京〉」(栗原敦監修・解説)では、賢治の書簡19記載の町名を採っており、「仲猿楽町17番地」となっています。 とすれば、白山通りの西側、通りに沿った一帯がその場所です。
 2002年3月開催、宮沢賢治学会春季セミナー講演「宮沢賢治の見た〈東京〉」(講師杉浦静氏)配布資料「大日本職業別明細図」の印に基づけば、現在の神田神保町2丁目24番地付近の一角となります。 上写真の付近であることは間違いなさそうなのですが、現在のどの建物が東京独逸学院のあった場所なのか、具体的に特定することはできませんでした。

 旧中猿楽町には、旧研数学館(千代田区西神田2丁目8番地15号)東京校舎本館建物があります。 1929(昭和4)年建築の建物ですから、賢治が訪れた頃にはまだ建てられていませんでしたが、創立1897(明治30)年の日本最古の予備校として知られています。 受験生の減少を理由に2000(平成12)年3月に予備校業務を停止。 現在は立正大学大学院立正大学神田校舎の建物と、通りの角に面した部分はなんと居酒屋「和民(わたみ)」の店舗となっています。
 研数学館は、宮沢賢治の実弟清六氏が盛岡中学を卒業した後、1922(大正11)年12月に上京し、本郷区竜岡町に寄宿しながら学んだところです。
 付近には、クラシック音楽の愛好家であった野村胡堂(あらえびす)の愛用していた蓄音機「クレデンザ」のある富士レコード社(千代田区西神田2丁目26番地1号)もあります。 野村胡堂は、石川啄木、金田一京助、そして賢治とも交流があったことが知られています。 富士レコード社は、有名な奥野カルタ店のお隣です。

 この写真は、神田神保町交差点近く、靖国通りにある「千代田区町名由来板・中猿楽町」です。
 解説によれば、かつてこの地に猿楽(のちの能楽)の一派「観世座」の家元や一座の人々の住む屋敷があったことに由来とあります。
 また、1872(明治5)年に「中猿楽町」が誕生し、1934(昭和9)年に神保町2丁目と西神田1丁目の一部に組み込まれたとあることから、賢治の生前は中猿楽町と呼ばれていたことがわかります。




A 神保町
▲神保町交差点
▲駿河台下交差点
時期:
《賢治2回目の上京:1916(大正5)年7月30日〜9月7日まで・賢治19歳・盛岡高等農林2年生》及び 《賢治3回目の上京:1917(大正6)年1月4日〜1月7日まで・賢治20歳・盛岡高等農林2年生》
年譜:
1916(大正5)年8月1日(火)〜8月30日(木) 神田区猿楽町17、東京独逸学院で催された「独逸語夏季講習会」を受講する。
1916(大正5)年8月17日(木) 〔消印による推定〕帰省(山梨県北巨摩郡駒井村)中の保阪嘉内あて封緘葉書(書簡19)。 これによると麹町三丁目の栄屋旅館に移っており、高橋秀松も同居している。 この封緘葉書にはドイツ語講習のありさまや東京の短歌二〇首が認められている。 この中に版画のうた四首がある。
1917(大正6)年1月4日(木) 〔消印による推定〕上京、前年末、政次郎が残した商用を果たすためで、叔父宮沢恒治も用をもって同行。 この日賢治は神保町、本石町と歩き、疲れはてて両国橋畔の宮城館に叔父と泊る。 岩谷堂出身者が営む、母方の本家(宮善)の常宿である。 保阪、高橋の両友へ上京を報じる。(書簡26・27)
関連作品など:
《書簡19 1916年8月17日 保阪嘉内あて 封緘葉書》 多分は宅に御出でのことと思ひます。 この間事によったら帰省の途中で訪ねて御出でになるかと待つて居りました。 私は毎日神田の仲猿楽町迄歩いて行つて居ります。 ワス イスト ダスなどははるかに丁度岩手さんの七合目から二合辺を見下した様に威張つて居ります。 例すれば丁度一週間に次のやうな課をやりました。(略) (以下、葉書に書かれた歌稿より) 神保町少しばかりのかけひきにやゝ湿りある朝日は降れり。
《書簡26 1917年1月4日 保阪嘉内あて 葉書》 東京へ宅の用で出ました。 神保町本石町両国橋とさまよひ果て労れ果て今小さな宿屋の室に叔父の来るのを待ってゐます。
《書簡27 1917年1月4日 高橋秀松あて 葉書》 うちの用でこちらに参りました。 今日はじめて不思議なゲルドの経験を得ました。 神保町、本石町、両国橋とあてなくまたあてあってさまよひ労れ果てて今両国の橋の袂の宿に叔父と一緒になりました。
当時の住所:
神田区北神保町、南神保町、表神保町、裏神保町
現在の住所:
千代田区神田神保町、神田小川町付近

 独逸語夏季講習会に参加するため上京した賢治は、麹町3丁目の北宸館、栄屋旅館に宿泊しながら神保町を通り、中猿楽町の東京独逸学院まで通っていました。 (下地図参照。)
 翌年始めには、家の用事で叔父と上京。 その際にも神保町に出かけています。
 書簡26、書簡27に出てくる地名「本石町(ほんごくちょう)」は、当時の日本橋区本石町1丁目〜4丁目。 日本銀行にも近く、書簡19の歌稿に見られる三井銀行も付近にありました。 現在の中央区日本橋本石町4丁目、日本橋室町4丁目、日本橋本町4丁目付近です。

 上写真左側は、駿河台下交差点から撮影した三省堂書店(中央やや右のビル)、上写真右側は神保町交差点からの岩波神保町ビル(画面左側の大きなビル)です。
 神保町は古書店街で有名ですが、賢治ゆかりの場所も多数あります。 「神田日活館」(映画館)、賢治の使った星座早見盤は「三省堂」(書店)、本の交換を願って手紙を書いた「岩波書店(岩波茂雄)」…、皆この界隈に位置していました。

 この写真は、すずらん通りにある東京堂書店(千代田区神田神保町1丁目17番地)です。 1890(明治23)年創業の歴史あるお店です。 出版事業も手がけており、1964(昭和39)年に出版部門の東京堂出版と小売部門の東京堂書店に分離独立されました。

 通りの向かい側には1886(明治19)年創業の冨山房(千代田区神田神保町1丁目3番地)があります。 賢治の伝記資料としておなじみ、佐藤隆房著「宮沢賢治」(1942年)の出版元です。 冨山房も大きな書店でしたが、現在では書籍の小売販売は撤退し、ドラッグストアがその場所で営業しています。

 賢治2回目の上京で、関連する地名を現在の地図上にまとめてみたものです。 左側の半蔵門近くにある北宸館と栄屋旅館が宿泊場所でした。 ここから、地図中央上寄りの東京独逸学院へと徒歩で通ったわけです。 ルートとしては、半蔵門から靖国神社方向に向かい、靖国通りを東へ進み、九段〜神保町へ、そして白山通りに入る方法でしょうか。
 地図中の●印は、書簡19の歌稿に出てくる地名も加えたものです。 他に地図外ですが、「大使館」(フランス大使館)などがあります。




B ニコライ堂
▲ニコライ堂(北側から)
▲ニコライ堂(敷地内正面から)
時期:
《賢治2回目の上京:1916(大正5)年7月30日〜9月7日まで・賢治19歳・盛岡高等農林2年生》
年譜:
1916(大正5)年8月1日(火)〜8月30日(木) 神田区猿楽町17、東京独逸学院で催された「独逸語夏季講習会」を受講する。
1916(大正5)年8月17日(木) 〔消印による推定〕帰省(山梨県北巨摩郡駒井村)中の保阪嘉内あて封緘葉書(書簡19)。 これによると麹町三丁目の栄屋旅館に移っており、高橋秀松も同居している。 この封緘葉書にはドイツ語講習のありさまや東京の短歌二〇首が認められている。 この中に版画のうた四首がある。
関連作品など:
《書簡19 1916年8月17日 保阪嘉内あて 封緘葉書》 多分は宅に御出でのことと思ひます。 この間事によったら帰省の途中で訪ねて御出でになるかと待つて居りました。 私は毎日神田の仲猿楽町迄歩いて行つて居ります。 ワス イスト ダスなどははるかに丁度岩手さんの七合目から二合辺を見下した様に威張つて居ります。 例すれば丁度一週間に次のやうな課をやりました。(略) (以下、葉書に書かれた歌稿より) するが台雨に銹たるブロンズの円屋根に立つ朝のよろこび。 霧雨のニコライ堂の屋根ばかりなつかしきものはまたとあらざり。 青銅の穹屋根は今日いと低き雲をうれひてうちもだすかな。
《書簡21 1916年9月2日 保阪嘉内あて 葉書》 あなたが手紙を呉れないので少し私は憤ってゐますがまあ今日から旅行の話を致します。 今日はその序であります。 今博物館へ行って知り合ひになった鉱物たちの広重の空や水とさよならをして来ました。 又ニコライの円屋根よ。 大使館の桜よ。 みんな さやうーなら。
《書簡25 1917年1月1日 保阪嘉内あて 葉書》 去年中はいろいろ御世話になりましてありがたう存じます。 扨又首尾よく本年となりまして御互に誠に慶賀の至りでございます。 遥にあなたの御壮健を祈り又雪の中に立ち出ましてニコライの司教のやうに手をひろげる人をおもひます。
(以下、《備考》より補足) ニコライの司教のやうに手をひろげる人……前年の保阪の『短歌日記』八月十七日の項に「ニコライの司教のごとく手をひろげ曠野の夕、神に感謝す」。
他に、「東京」ノート(1928(昭和3)年の滞京時の取材から書き始められたとする東京での作品群を整理するためのノート)に収録された作品。 「高架線」(作品日付 1928(昭和3)年6月10日) (略)/いまこのつかれし都に充てる/液のさまなす気を騰げて/岬と湾の青き波より/檜葉亘れる稲の沼より/はるけき巌と木々のひまより/あらたに澄める気を送り/まどろみ熱き子らの頬より/汗にしみたるシャツのたもとに/またものうくも街路樹を見る/うるみて弱き瞳と頬を/いとさわやかにもよみがへらせよ/緑青ドームさらに張るとも/いやしき鉄の触手ゆるとも/はては天末うす赤むとも/このつかれたる都のまひる/いざうましめずよみがへらせよ/(略)
の「緑青ドーム」もニコライ堂(再建中)を指すかも知れません。
当時の住所:
神田区駿河台東紅梅町2(「古地図ライブラリー別冊古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社、2003)より読図)
現在の住所:
千代田区神田駿河台4丁目1番地3号

 JR線「御茶ノ水駅」聖橋口(または地下鉄千代田線「新御茶ノ水駅」B1出口)を出て、小川町交差点へ向かう広い坂道を下りるとすぐ右手に大きなニコライ堂の建物が見えてきます。 日本ハリストス正教会の本部で、「ニコライ堂」は通称。 正しくは「日本ハリストス正教会復活大聖堂」といい、1891(明治24)年に建てられたものです。 設計には、旧古河邸(東京都北区)などいくつかの著名建築に携わったジョサイア・コンドルも加わったことでも知られています。 現在は国の重要文化財に指定されています。

 上写真左側が、北側の通りから撮影したものです。 塔屋のある鐘楼がちょうどいい位置に見えます。
 上写真右側は、拝観日に敷地内で撮影したものです。 付近にビルが建ち並び、(まるで札幌の時計台のように)肩身の狭い風景になってしまいましたが、創建当時は、東京のランドマークとしてあちこちから見ることができました。
 賢治が見た後に、関東大震災でドームや鐘楼に大きな被害を受けますが、1929(昭和4)年に再建され復興。 最近では1992(平成4)年から9年をかけた大改修が行われ、美しい姿を見ることができるようになりました。

 この写真は、真正面から見たニコライ堂です。 鐘楼の下が玄関になっています。 (取材日は好天に恵まれ、「タキス」の空も満喫。)

 この写真は、北側の入口にある解説板です。 「昭和三十七年六月二十一日文部省指定 重要文化財 東京復活大聖堂(通称二コライ堂)この聖堂は明治十七年三月に起工し工期七年を以って同二十四年二月完成したもので、設計者はロシア工科大学教授シチュールポフ博士、工事監督は、英国人コンドル博士です。頂上までの高さ三五米 建坪三一八坪 壁厚 一メートル乃至一、六三メートル 日本最大のビザンチン式建造物として知られております。日本ハリストス正教会教団」 とあります。




C 万世橋の停車場
▲旧万世橋駅跡
▲初代万世橋駅(模型)
時期:
《賢治2回目の上京:1916(大正5)年7月30日〜9月7日まで・賢治19歳・盛岡高等農林2年生》
年譜:
1916(大正5)年8月1日(火)〜8月30日(木) 神田区猿楽町17、東京独逸学院で催された「独逸語夏季講習会」を受講する。
1916(大正5)年8月17日(木) 〔消印による推定〕帰省(山梨県北巨摩郡駒井村)中の保阪嘉内あて封緘葉書(書簡19)。 これによると麹町三丁目の栄屋旅館に移っており、高橋秀松も同居している。 この封緘葉書にはドイツ語講習のありさまや東京の短歌二〇首が認められている。 この中に版画のうた四首がある。
関連作品など:
《書簡19 1916年8月17日 保阪嘉内あて 封緘葉書》 多分は宅に御出でのことと思ひます。 この間事によったら帰省の途中で訪ねて御出でになるかと待つて居りました。 私は毎日神田の仲猿楽町迄歩いて行つて居ります。 ワス イスト ダスなどははるかに丁度岩手さんの七合目から二合辺を見下した様に威張つて居ります。 例すれば丁度一週間に次のやうな課をやりました。(略) (以下、葉書に書かれた歌稿より) 甲斐に行く万世橋の停車場をふっとあわれにおもひけるかな。
当時の住所:
神田区須田町
現在の住所:
千代田区神田須田町1丁目25番地

 現交通博物館のある場所です。 JR線「秋葉原駅」、同「御茶ノ水駅」、同「神田駅」のほぼ中間地点に位置していて、賢治の時代、特に関東大震災以前は、東京の交通要地の一つとして大きな賑わいを見せた場所でした。

 交通博物館は、2006年5月14日閉館し、建物は取り壊しになる予定です。 場所を埼玉県に移し、鉄道博物館(さいたま市大宮区大成町3丁目、同北大成町4丁目)として、2007年10月14日にリニューアル・オープンします。
 上写真左側が、現在の交通博物館(2006年2月撮影)です。 この手前の角(実際には敷地前庭の展示車両「善光号」付近に位置)に、日露戦争の英雄「広瀬中佐杉野兵曹長」の銅像があり、東京の観光名所の一つになっていました。 1947年7月に撤去され、現在は見ることができません。
 上写真右側は、初代万世橋駅の模型(縮尺1/150)です。 初代駅舎は、東京駅の設計者辰野金吾・葛西萬司によるもので、1912(明治45)年開業。 駅舎の前にある小さな像は、先に説明した広瀬中佐の銅像です。 煉瓦と漆喰の美しい駅でした。
 賢治が「ふっとあわれにおもひけるかな。」と見たこの駅舎は、1923(大正12)年9月の関東大震災で被害を受け、2代目駅舎ができたのが1930(昭和5)年、その後1936(昭和11)年に交通博物館を併設。 周辺の交通網の整備が進み、駅としての任務は1943(昭和18)年11月に終了しています。

 この写真は、万世橋駅開業当時の初代駅舎の風景を描いたものです。(「千代田区町名由来板連雀町・佐柄木町」より) 上の模型と比べてみてください。

 この写真は、震災後に旧駅舎を利用して建てられた2代目駅舎です。 初代駅舎に比べると、なんとも地味な佇まいです。 賢治は1931(昭和6)年、9回目の上京時、神田の八幡館まで「円タク」で移動しています。 上野駅から中央通りを経て、須田町交差点で靖国通りに入るルートを利用していると推定できますので、この前を通過していることと思われます。




D 水晶堂
▲水晶堂ビル
▲水晶堂ビル(拡大)
時期:
《賢治4回目の上京:1918(大正7)年12月27日〜1919(大正8)年3月3日まで・賢治22歳・盛岡高等農林研究生》
年譜:
1918(大正7)年12月29日(日)(略)滞京中職業問題に熱意を示し、この日神田小川町水晶堂、金石舎に石材(岩手産の蛋白石、瑪瑙など)の売込みを交渉した。 (書簡100により推定)。
1919(大正8)年2月2日(日)(略)さて問題は東京での職業についてで、一層の具体案を詳述する。 神田水晶堂・金石舎などに見る如く、随分利益もあり、しかも設備は極めて小。 仕事の内容は、一、飾石宝石原鉱買入および探求/二、飾石宝石研磨小器具製造/三、ネクタイピン・カフスボタン・髪飾等の製造/四、鍍金/五、砂金及び公債買入/六、飾石宝石改造/そして設備は、足踏研磨器一台約五〇円、鉄槌鑿その他二〇円、電池五円、薬品研磨剤二五円、横炉(飾屋が用いるもの)一〇円、飾石原鉱買入三〇円、公債及び砂金買入若干円、をはじめの資金とし、家も間借りだってよろしい。 (略)(書簡137)。
関連作品など:
《書簡100 1918年12月30日 宮沢政次郎あて 封書》 (略)尚当地滞在中私も兼て望み候通りの職業充分に見込相附き候。 蛋白石、瑪瑙等は小川町水晶堂、金石舎共に買い申すべき由岩谷堂産蛋白石を印材用として後に見本送附すべき由約束致し置候。
《書簡137 1919年2月2日 宮沢政次郎あて 封書》 (略)その前期の仕事は則ち只今神田の水晶堂金石舎等の職業とする所にて随分利益もあり然もその設備とては極めて小なるものに御座候。(略)
当時の住所:神田区小川町2丁目
現在の住所:千代田区神田小川町2丁目2番地7号 水晶堂ビル

 日本女子大在学中の妹トシの入院のため、母イチと上京した賢治は、見舞いの合間に神田小川町の宝石店を訪ね、そこでの見聞を基に、自身の職業について父に提案をしています。 神田にある水晶堂と金石舎を例に商売として有望であることを父に訴えます。
 写真は、水晶堂のあった場所です。 (靖国通り、道路反対側から撮影) 現在は、水晶堂ビルとして飲食店、歯科医院などが入った貸しビル(9階建て、B1〜9Fまで)となっています。

 奥田弘「宮澤賢治の東京における足跡」では、「水晶堂は、山梨県出身で、印材を主として、宝石も扱っていたが、戦後眼鏡店に転じてしまった。」とあります。
 数年前に調査したときには、ビルの上の方のフロアにお店を構えていたようなのですが、今は店舗がありません。 再調査したところ、平成8年から「水晶堂せがわ」(鎌ヶ谷市東道野辺4−13)として、千葉県で営業を続けていることがわかりました。

 この写真は、水晶堂ビルの看板です。 水晶堂の名残を見つけられる唯一のものでしょうか。

 この場所を訪れる時には、地下鉄都営新宿線の小川町駅下車が便利です。 写真の地図にあるように、B5出口が便利で、目の前に水晶堂ビルがあります。 近所の金石舎は、B4出口のすぐ前です。




E 金石舎
▲金石舎ビル
▲金石舎ビル(1階部分拡大)
時期:
《賢治4回目の上京:1918(大正7)年12月27日〜1919(大正8)年3月3日まで・賢治22歳・盛岡高等農林研究生》
年譜:
1918(大正7)年11月29日(日)(略)滞京中職業問題に熱意を示し、この日神田小川町水晶堂、金石舎に石材(岩手産の蛋白石、瑪瑙など)の売込みを交渉した。 (書簡100により推定)。
1919(大正8)年2月2日(日)(略)さて問題は東京での職業についてで、一層の具体案を詳述する。 神田水晶堂・金石舎などに見る如く、随分利益もあり、しかも設備は極めて小。 仕事の内容は、一、飾石宝石原鉱買入および探求/二、飾石宝石研磨小器具製造/三、ネクタイピン・カフスボタン・髪飾等の製造/四、鍍金/五、砂金及び公債買入/六、飾石宝石改造/そして設備は、足踏研磨器一台約五〇円、鉄槌鑿その他二〇円、電池五円、薬品研磨剤二五円、横炉(飾屋が用いるもの)一〇円、飾石原鉱買入三〇円、公債及び砂金買入若干円、をはじめの資金とし、家も間借りだってよろしい。 (略)(書簡137)。
関連作品など:
《書簡100 1918年12月30日 宮沢政次郎あて 封書》 (略)尚当地滞在中私も兼て望み候通りの職業充分に見込相附き候。 蛋白石、瑪瑙等は小川町水晶堂、金石舎共に買い申すべき由岩谷堂産蛋白石を印材用として後に見本送附すべき由約束致し置候。
《書簡137 1919年2月2日 宮沢政次郎あて 封書》 (略)その前期の仕事は則ち只今神田の水晶堂金石舎等の職業とする所にて随分利益もあり然もその設備とては極めて小なるものに御座候。(略)
当時の住所:
神田区小川町1丁目
現在の住所:
千代田区神田小川町1丁目8番地5号 金石舎ビル

 日本女子大在学中の妹トシの入院のため、母イチと上京した賢治は、見舞いの合間に神田小川町の宝石店を訪ね、そこでの見聞を基に、自身の職業について父に提案をしています。 神田にある水晶堂と金石舎を例に商売として有望であることを父に訴えます。
 上写真は、金石舎のあった場所です。 (靖国通り、道路反対側から撮影) 現在は、金石舎(KINSEKISHA)ビルとして自社を含め、法律事務所、会計事務所などが入った貸しビルとなっています。 金石舎は、このビルの最上階で現在でも営業を続けています。
 奥田弘「宮澤賢治の東京における足跡」では、「金石舎は、賢治が訪問したころは、木造二階造りの、どっしりとした白壁の土蔵ふうの店舗であった。 (略)現在の建物は震災後の造りである。 当時と同じように、宝石専門に営業を続けている。 現在も、附近の商店とくらべ古風な店がまえで、昔のたたずまいがしのばれる。 岐阜県中津川の出身である。」とあります。

 時代は変わり、現在ではビルになってしまいましたが、営業が継続されていることは喜ばしいことです。

 この写真は、大正時代の金石舎(【新】校本宮沢賢治全集年譜より)です。
 「金石舎」は、アマチュア鉱物研究家長島乙彦(1890〜1969)が勤めていたことでも知られています。 (以下、大正〜昭和初期の略歴。「中津川市鉱物博物館」ホームページより。)
 1890年(明治23年)9月2日,岐阜県苗木町津戸(現 中津川市)に生まれる/ 1899年(明治32年)東京神田小川町の「金石舎」(鉱物・宝石商)に勤める/在職中に生徒用ブック型標本を考案する/ 1913年(大正2年)独立して東京神田三崎町に鉱物標本店を開く/ 1917年(大正6年)岐阜県中津川町(現 中津川市)の前田光子と結婚する/ 1919年(大正8年)秩父鉄道の「鉱物標本陳列所」のため,神保小虎らと標本800余点を採集する/ 1929年(昭和4年)鉱物同好会を組織し,同人雑誌「趣味之礦物」を発刊する/ 長野県山口村においてペグマタイトを採掘し,多数の希元素鉱物を発見する/ これが縁で,木村健二郎(東京帝国大学理学部)・飯盛里安(理化学研究所)の知遇を得る/ 私立成城中学校の博物科教員となる。
 長島乙彦の出身が岐阜県中津川であり、奥田氏の調査した金石舎の人物との関連や、こういった人物を賢治が知り得ていたのかということ、また同時に金石舎が宝石のみならず、鉱物幅広くも取り扱いをしていたことが察せられ、さまざまな興味が湧いてきます。

 上記の文章を書いたあと、「賢治研究 83号」(宮沢賢治研究会、2000・12)の住田美知子さんの「賢治ゆかりの東京(3)神田駿河台界隈」に「社史、出版本、パンフレット、ご子孫に伝わる話など」からの調査として詳しい文章があり、実際のところを知ることができました。 創業者は高木勘兵衛という人物で、出身は岐阜県の中津川、水晶の発掘を生業として、トパズ(トパーズ)を日本で最初に発見し「トパズ勘兵衛」と異名をとる、とありました。




F 上州屋
▲現神田錦町3丁目13番地
▲現神田錦町3丁目13番地
時期:
《賢治7回目の上京:1926(大正15)年12月3日〜1926(昭和元)年12月30日まで・賢治30歳・羅須地人協会時代》及び 《賢治8回目の上京:1928(昭和3)年6月8日〜6月24日まで・賢治31歳・羅須地人協会時代》
年譜:
1926(大正15)年12月3日(金)着京し、神田錦町三丁目一九番地、上州屋の二階六畳に下宿をきめ、勉強の手筈もととのえる。 夕刻日本橋区本石町の小林六太郎家を訪い、香水・粉石鹸のことをきき、夕食のもてなしをうけ、ふとんを貸してもらうことにした。(書簡220)。
1928(昭和3)年6月8日(金)午前四時五四分発水戸駅着。 茨城県立農事試験場(水戸市外、東茨城郡酒門村大字酒門字塙)の始まる八時まで、偕楽園を見物して時間をつぶす。 その後水戸駅発午後二時三五分の常磐線上り二二四列車、または三時五五発上り二二六列車のどちらかに乗車、上野に向かう。 上野駅到着は、前者は五時五五分、後者は七時二〇分である。 この夜父あてに「今夕無事東京に着きすぐ前の上州屋に泊ることにいたしました。明日以后約十二日はこちらに居りまして予定の調べをいたしたいと存じます。」(書簡236)と報じる。 上州屋は一九二六(大正一五)年一二月に宿泊した神田錦町三丁目一九番地の素人下宿である。
関連作品など:
《書簡220 1926年年12月3日 宮沢政次郎あて 封緘葉書》 お蔭で出京もいたし覚えたいものの手筈も整へました。 表記二階の六畳に間借りして当分はまづ図書館と講習へ通ひます。 (略) (「表記」とは、葉書に書かれた差出人の住所=「神田錦町三丁目十九番地 上州屋内」を指します。)
《書簡236 1928年年6月8日 宮沢政次郎あて 封緘葉書》 今夕無事東京に着きすぐに前の上州屋に泊ることにいたしました。 (略) (「すぐ前の」とは、前回7回目の上京を指します。)
当時の住所:
神田区神田錦町3丁目19番地
現在の住所:
千代田区神田錦町3丁目13番地

 靖国通り駿河台下交差点から、千代田通りを南へと歩いて行くと、左手に正則学園高等学校(千代田区神田錦町3丁目1番地)の校舎が見えてきます。 竣工したばかりの真新しい学校ですが、歴史は古く、明治29年に創立された正則英語学校が前身にあたります。 隣接する錦城学園高等学校(千代田区神田錦町3丁目1番地)は1880(明治13)年創立、神田の地に学校を移したのが1889(明治22)年です。 いずれも、賢治が上州屋に滞在した時期からある学校です。
 正則学園を過ぎ、最初の角を左に入ると、ちょうど高校の裏手の通りに出ます。 この右手の一角が神田錦町3丁目13番地にあたります。
 奥田弘「宮澤賢治の東京における足跡」の地図を参考にすると、東側の道路に面した辺りとなります。
 2002年3月開催、宮沢賢治学会春季セミナー「宮沢賢治の見た〈東京〉」における配布資料「賢治の歩いた東京」P10「(周辺地図)」では、奥田氏の位置と異なり、通りの北側になっています。 (ここでは奥田氏の位置に基づきレポートしています。)

 上写真左は、南東側から撮影したものです。 手前の角にはビルの駐車場、その奥には名古路ビル本館(千代田区神田錦町3丁目13番地7号)があります。
 上写真右は、北東側から撮影したものです。 手前角は「貸駐車場」、その隣には「おふくろ亭」という弁当屋の入った「矢浪ビル」(千代田区神田錦町3丁目13番地1号)、奥には「名古路ビル本館」があります。
 奥田氏の作成した地図では、(現在貸駐車場のある)角地ではなく、やや内側の場所に「自動車修理工場 車庫(上州屋)」と記されていることから矢浪ビルの辺りが上州屋と推定されます。 奥田氏が「四次元」の文章を執筆した時期(昭和42年9月掲載)時代からすでに40年が経とうとしており、自動車修理工場については痕跡も見つけることができませんでした。
 福島泰樹著「宮沢賢治と東京宇宙」(日本放送出版協会、1996)にもこの地を訪れた時のことを記した一文を見つけることができます。 そこでは、「上州屋の跡地と思しき地番をようやく探すことができたのだ、そこには間口二間ぐらいの小さなビルが建っていた。 人家の二階を宿泊に供する程度、侘しい商いをしていたのであろう。」 とあります。

 この写真は、番地を示す区の広報板です。
 奥田氏の解説を引用しておきましょう。 「宿泊先は、神田錦町三丁目一九番地の上州屋である。 (略)同番地は現在一三番地になっている。 上州屋は、薪炭商で屋号のように、上州出身の木村徴次が経営していた。 かたわら、学生などに貸間をしていた。 これは、当時神田近辺のしもたやでは常としていたようである。 だから「表記二階の六畳に間借りして」と父にあてているわけだ。
 この上州屋は、現在、正則学園商業高等学校
(筆者注:1973(昭和48)年に正則学園高等学校へ校名変更)の裏通りにあたるが、戦災にあって今はなく、小さな車庫に、その姿をとどめている。 遺族も同地になく、向島に転じて職を変えている。 近くの同業者、池田屋の老女によると、さほど大きな店構えではなかったという。」
 「戦前昭和東京散歩」(人文社、2004)に掲載された1941(昭和16)年頃の神田区の地図を見ると、上州屋の位置に地図記号「煙突」の印があります。 これは「浴場」を示すものだそうです。




G タイピスト学校
▲現神田美土代町7番地
▲住友不動産美土代町ビル(仮)
時期:
《賢治7回目の上京:1926(大正15)年12月3日〜1926(昭和元)年12月30日まで・賢治30歳・羅須地人協会時代》
年譜:
1926(大正15)年12月12日(日) 午後、神田のYMCAタイピスト学校で知りあったシーナという印度人の紹介で東京国際倶楽部の集会に出席する。 フィンランド公使で言語学者のラムステットの日本語講演があり、その後公使に農村問題、とくにことばの問題について意見をきき、エスペラントで著述するのが一番だといわれる。 この人に自分の本を贈るためにもう一度公使館へ訪ねたい、ついては土蔵から童話と詩の本各四冊ずつを送ってほしい旨を父へ依頼する(書簡221)。
 なお上京以来の状況は、上野の帝国図書館で午後二時まで勉強、そのあと神田美土代町のYMCAタイピスト学校、ついで数寄屋橋そばの新交響楽団練習所でオルガンの練習、つぎに丸ビル八階の旭光社でエスペラントを教わり、夜は下宿で復習、予習をする、というのがきめたコースであるが、もちろん予定外の行動もあった。 観劇やセロの特訓がそうである。

関連作品など:
《書簡221 1926年12月12日 宮沢政次郎あて 封書》 今日は午后からタイピスト学校で友達になったシーナといふ印度人の紹介で東京国際倶楽部の集会に出てみました。 あらゆる人種やその混血児が集って話したり音楽をやったり汎太平洋会のフォード氏が幻燈で講演したり実にわだかまりのない愉快な会でした (略) 実はにこの十日はそちらで一ヶ年の努力に相当した効果を与へました。 エスペラントとタイプライターとオルガンと図書館と言語の記録と築地小劇場も二度見ましたし歌舞伎座の立見もしました。 (略)
《書簡222 1926年年12月15日 宮沢政次郎あて 封書》 (略) 毎日図書館に午後二時頃まで居てそれから神田へ帰ってタイピスト学校 数寄屋橋側の交響楽協会とまはって教はり、夜は帰ってきて次の日の分をさらひます。 (略)
当時の住所:
神田区美土代町3丁目
現在の住所:
千代田区神田美土代町7番地

 神田小川町交差点から本郷通りを南の大手町方面へ行くとすぐ近く、デニーズ神田小川町店のお隣が賢治の通ったタイピスト学校、すなわちYMCAタイピスト学校の場所になります。
 現在は、大型ビルの建築工事中で、囲いの外に張り出された看板を見ると「住友不動産美土代町ビル(仮)2006年6月竣工予定」とありました。 都条例に基づく建築計画を示すボードを見ると、着工が2004(平成16)年5月、竣工が2006(平成18)年6月とあり、地上20階・地下2階、高さ98.9メートルであることがわかります。

 上の写真がその現場です。 左側が1階の様子、右側は、道路の反対側の歩道から撮影した写真です。 全体をブルーで統一した美しいビルです。
 この地は、明治1880(明治13)年、日本最初の東京YMCAが設立された場所です。 財団法人日本YMCA同盟のホームページを見ると、その歴史を記したあゆみを見ると、タイプライターを学ぶ生徒の写真があり、賢治の学ぶ姿が浮かびます。
 賢治が訪れた当時のYMCAの建物は、YMCA同盟のホームページ、日本のYMCA草創期に「初代東京YMCA会館」として掲載されているものでしょうか。 大震災の被害のため、仮設建物のようなものかも知れません。 リンク先のページを見ると、YMCAの先人として内村鑑三、新渡戸稲造の名前もあり、賢治との結びつきも少なからず感じられます。
 下の写真は、関東大震災後、1929(昭和4)年に建てられたYMCA(東京基督教青年会館)のビルで、1988(昭和63)年に取り壊されるまでありました。 以前、天文雑誌の編集長から原稿の依頼を受けた際に、地下のレストランでランチをご馳走になった想い出の建物です。 落ち着いたいい雰囲気の建物だったと記憶しています。 (個人的な思い出話ですみません・・・)

 そのビルが取り壊された後、1990(平成2)年に東京YMCA新館・YMCA国際奉仕センターが建ちますが、バブル期の負債のため売却し、長年続いたホテル業も打ち切り、2003年には事務局も江東区東陽町に移動となっていました。




H 東京国際倶楽部
▲日本学生会館跡
▲センチュリータワーを望む
時期:
《賢治7回目の上京:1926(大正15)年12月3日〜1926(昭和元)年12月30日まで・賢治30歳・羅須地人協会時代》
年譜:
1926(大正15)年12月12日(日) 午後、神田のYMCAタイピスト学校で知りあったシーナという印度人の紹介で東京国際倶楽部の集会に出席する。 フィンランド公使で言語学者のラムステットの日本語講演があり、その後公使に農村問題、とくにことばの問題について意見をきき、エスペラントで著述するのが一番だといわれる。 この人に自分の本を贈るためにもう一度公使館へ訪ねたい、ついては土蔵から童話と詩の本各四冊ずつを送ってほしい旨を父へ依頼する(書簡221)。
 なお上京以来の状況は、上野の帝国図書館で午後二時まで勉強、そのあと神田美土代町のYMCAタイピスト学校、ついで数寄屋橋そばの新交響楽団練習所でオルガンの練習、つぎに丸ビル八階の旭光社でエスペラントを教わり、夜は下宿で復習、予習をする、というのがきめたコースであるが、もちろん予定外の行動もあった。 観劇やセロの特訓がそうである。

関連作品など:
《書簡221 1926年12月12日 宮沢政次郎あて 封書》 今日は午后からタイピスト学校で友達になったシーナといふ印度人の紹介で東京国際倶楽部の集会に出てみました。 あらゆる人種やその混血児が集って話したり音楽をやったり汎太平洋会のフォード氏が幻燈で講演したり実にわだかまりのない愉快な会でした (略) 実はにこの十日はそちらで一ヶ年の努力に相当した効果を与へました。 エスペラントとタイプライターとオルガンと図書館と言語の記録と築地小劇場も二度見ましたし歌舞伎座の立見もしました。 (略)
当時の住所:
本郷区本郷元町
現在の住所:
文京区本郷2丁目2番地

 JR線御茶ノ水駅からお茶の水橋を渡り、外堀通りを左側(水道橋駅方面)へ行くと、順天堂大学本郷キャンパスのビルがありますが、そこを過ぎた辺りにある高層ビル、センチュリータワー付近になります。
 奥田弘「宮澤賢治の東京における足跡」では、 「フィンランド公使と談合したといわれる、東京国際倶楽部も、お茶の水橋を渡れば近いところにある。 日本エスペラント学会の三宅史平氏によれば、現在の学士会館の地階に東京エスペラント倶楽部の事務局があったという。 ただ、東京国際倶楽部は固定した会場がなく、随時、会場をかえていた。 けれども、ここが多く使用されたらしい。」 とあります。
 つまり、推定ということで、事後に作成された、宮沢賢治記念館企画展示図録「「東京」ノートの〈東京〉」(栗原敦監修・解説)や、それを引用した宮沢賢治学会春季セミナー「宮沢賢治の歩いた東京」(2002年3月開催)配布資料では、「場所は不定」として特定を避けてきた経緯があります。
 ここでは、奥田氏の推定を唯一の手がかりとして訪ねることにしてみました。

 上写真左側が、現在のその場所です。 奥田氏の作成された地図にある「日本学生会館」は跡形もなく、近代的な高層ビルとなっていました。 センチュリータワーとよばれるオフィス・ビルで、1991年に竣工、イギリス人ノーマン・フォスターによる設計です。
 上写真右側は、その上部を見上げたものです。 外堀通りの反対側から撮影しましたが、なかなかの威圧感というか存在感・・・。
 下の写真は、「日本学生会館」時代の建物です。 この建物の歴史を調べると、当初「御茶の水文化アパート」という高級アパートとして、1925(大正14)年に(財)文化普及協会により建てられています。 設計は日本の近代建築では著名なあのヴォーリズ。 江戸川乱歩の推理小説の名探偵「明智小五郎」が独身時代に住んでいた「開化アパート」のモデルであったといいます。
 戦後には進駐軍将校の宿舎として使われ、旺文社が買い取った後は、日本学生会館として受験生や修学旅行生の都内宿泊施設として利用されてきました。 奥田氏の調査した時期はこの時代だったわけです。 1986(昭和61)年に老朽化のため取り壊されています。 (「東京人」(都市出版社、2004年3月号)、アイランズ編著「東京の戦前・昔恋しい散歩地図」(草思社、2004年1月)、「にちぶんMOOK荷風」(日本文芸社、2006年3月)ほか参考。)

 下の写真は、1931(昭和6)年に刊行された「日本地理風俗体系2大東京篇」の「お茶の水文化アパート」です。 手前は神田川横を走る中央線です。 当時は付近に大きな建物もなく、かなり目立つ存在であったようです。

 当時の日本学生会館の敷地は、富士見坂の横から順天堂大学の一部(10号館)を含む敷地に及んで建っていたことがわかります。 日本学生会館を取り壊した際に、隣接する部分を買上げしたためでしょうか。




I 日活館
▲現神田神保町1丁目6番地
▲書泉グランデ前から
時期:
《賢治8回目の上京:1928(昭和3)年6月8日〜6月24日まで・賢治31歳・羅須地人協会時代》
年譜:
1928(昭和3)年6月19日(火) 〈神田の夜〉
 メモ「農商ム省」「新、」。 この当時「農商ム省」は農林省(麹町区大手町)と商工省(京橋区木挽町)に改編されているので両省に行ったかもしれない。
 以下、「〈神田の夜〉」の脚注より。 「作品中に「日活館で田中がタクトをふってゐる」とある。 「日活館」神田区表猿楽町二三(現神田神保町一丁目)の神田日活館で、田中豊明が六月一五日から二一日まで「総合曲 謎のトランク」を指揮した(『企画展示「東京」ノートの〈東京〉』栗原敦監修・解説。平成七年八月一日、宮沢賢治記念館)。」
関連作品など:
「神田の夜」(1928年6月19日の作品日付を持つ) 十二時過ぎれば稲びかり/労れた電車は結束をして/遠くの車庫に帰ってしまひ/雲の向ふであるひははるかな南の方で/口に巨きなラッパをあてた/グッタペルカのライオンが/ビールが四樽売れたと吠える/……赤い牡丹の更沙染/冴え冴え燃えるネオン燈/白鳥の頸 睡蓮の火/雲にはるかな希望をのせて/いまふくよかにねむる少年……/雲の向ふでまたけたたましくベルが鳴る/ベルがはげしく鳴るけれども/それも間もなくねむってしまひ/睡らないのは/重量菓子屋の裏二階/薄明 自働車運転手らの黄いろな巣/店ではつめたいガラスのなかで/残りの青く澱んだ葛の餅もひかれば/アスティルベの穂もさびしく枯れる/x八乗マイナスyの八乗をぼくが分解したらばさ/残りが消えてxマイナスyが12になったので/すぐ前の式から解いたらさ/xはねえ、/顔の茶いろな子猫でさぁ/yの方はさ、/yの方はさ/自転車の前のラムプだとさぁ……/いなづまがさし/雨がきらきらひかってふれば/ペーヴメントも/道路工事の車もぬれる/……そらは火照りの/そらは火照りの……/(二十年后の日本の智識階級は/いったいどこにゐるのであらう)/Are you all stop here?/said the gray rat./I don't know./said Grip./Gray rat = is equal to Shuzo Takata/Grip equal....../Grip なんかどうしてとてもぼくだけでない/さうです夜は/水色の水が鉛管の中へつまってゐるのです/ぼくとこの先生がさぁ/日本語のなかで英語を云ふときは/カナで書くやうごくおだやかに発音するとさう云ってたよ/湯屋では何か/アラビヤ風の巨きな魔法がされてゐて/夜中の湯気が行きどこもなく立ってゐる/シャッツはみんな袖のせまいのだけなんだよう/日活館で田中がタクトをふってゐる
当時の住所:
神田区表猿楽町23(賢治全集年譜脚注による)。 宮沢賢治学会春季セミナー講演「宮沢賢治の見た〈東京〉」(講師杉浦静氏、2002年3月開催)配布資料にある「日本映画館名録」の記載では、「神・表猿楽町二〇」、当時の区画整理による新装後の所在地として、「日本映画館名録(昭和五年六月現在)」では、「神田・表猿楽町二五」となっています。
現在の住所:
千代田区神田神保町1丁目6番地1号

 神田神保町交差点から駿河台交差点方面に少し行くと、左手にガラス張りのタキイ種苗店東京支店(千代田区神田神保町1丁目6番地1号)があります。 ここが神田日活館の跡地となります。

 上左側の写真が「タキイ種苗店東京支店」です。 右側は道路の反対側、ちょうど「書泉グランデ」の前から見たところです。
 この店舗の敷地は、靖国通り側の間口は狭いのですが、奥は幅が広くなっています。 タキイ種苗店は京都に本店を持つ種子取扱ほか園芸関係各種業務を幅広く手がける企業で、神田日活館跡地に東京支店を置きました。 下の写真はタキイ種苗店の裏口側です。

 原子朗著「新宮澤賢治語彙事典」(東京出版、1999)の「日活館」の解説では、 「にっかつかん【地】映画館の名。東京市神田区表猿楽町(現千代田区神田神保町一丁目)にあった。 詩[神田の夜]に「シャッツはみんな袖のせまいのだけなんだよう/日活館で田中がタクトをふってゐる」とある。 田中とは田中豊明を言い、当時無声映画の楽隊の人気指揮者(楽長と言った)。 海軍軍楽隊出身。」 とあります。
 賢治の訪れた昭和初期、神田は無声映画館が多数開館しており、数年前まであった東洋キネマ(千代田区神田神保町2丁目、現在は解体済)など、人気弁士を多数抱えた名門と呼ばれる館があったといいます。




J 須田町食堂
▲現在の須田町食堂跡
▲店舗建物を見上げて
時期:
《賢治8回目の上京:1928(昭和3)年6月8日〜6月24日まで・賢治31歳・羅須地人協会時代》 (便宜上、「東京」ノートの主要作品の成立した上京時を用いていますが、関連作品「公衆食堂(須田町)」(「東京」ノートの上の作品日付は1921年に含まれる)の須田町食堂開業が1924(大正13)年3月10日のことであること、「東京」ノートの使用推定時期から、賢治7回目または8回目の上京時が作品取材の時期と思われます。)
関連作品など:
「東京」ノート(1928(昭和3)年の滞京時の取材から書き始められたとする東京での作品群を整理するためのノート)に収録された作品。 「公衆食堂(須田町)」(作品日付 1921(大正10)年) ◎ 公衆食堂(須田町)/あわたゞしき薄明の流れを/泳ぎつゝいそぎ飯を食むわれら/食器の音と青きむさぼりとはいともかなしく/その一枚の皿/硬き床にふれて散るとき/人々は声をあげて警しめ合へり
当時の住所:
神田区須田町(関東大震災後の区画整理のため当時の番地は不明、恐らく8〜9番地付近。)
現在の住所:
千代田区神田須田町1丁目3番地 酒亭じゅらく神田店

 作品「公衆食堂(須田町)」が、「須田町食堂」そのものを指すかどうか断定することは難しいですが、公衆食堂として成功を収め、開業年にすぐさま日本橋、京橋など支店を多数オープンさせるなどその独自の事業展開で知名度を上げていたことは間違いないようで、賢治も東京名所の一つとして訪れていたのかも知れません。
 須田町食堂は、外食、ホテル業などを含めた聚楽グループの前身です。(野沢一馬著「大衆食堂」(筑摩文庫、2005年8月))
 須田町食堂第1号店の場所を調べて訪れてみました。 その場所は、交通博物館にもほど近い路地裏に位置していて、現在の酒亭じゅらく神田店(千代田区神田須田町1丁目3番地)のある場所です。 JR線「秋葉原駅」、同「御茶ノ水駅」、同「神田駅」から徒歩圏内です。

 上写真左側が、現在の須田町食堂の場所です。 聚楽の系列グループの居酒屋が営業しています。 その場所が、交通博物館にあまりに近いので驚きました。
 上写真右側は、現在の居酒屋の建物上部を写したものです。 開業時の建物に改修を加えながら利用しているものかも知れません。
 この場所を見つける際に、お茶の水ホテル聚楽の方にいろいろと資料の提供をいただきました。 お茶の水ホテル聚楽のあった場所は、当初須田町食堂の事務所があった場所だそうです。 1935(昭和10)年発行の「火災保険特殊地図」(都市整図社)の地図を見ると、第1号店店舗や事務所の位置が記されていました。

 この写真は、須田町食堂1号店開業日の朝の記念撮影写真です。 創業者の加藤清二郎ほか従業員が写っています。(株式会社聚楽提供)




K 八幡館
▲現神田駿河台1丁目4番地
▲駐車場入り口
時期:
《賢治9回目の上京:1931(昭和6)年9月20日〜9月27日まで・賢治35歳・東北砕石工場技師》
年譜:
1931(昭和6)年9月20日(日) 「兄妹像手帳」一九五頁のこの日の出費控によれば、宿賃二円二〇銭、茶代五〇銭を支払い、人力車にのり三〇銭払って仙台駅へ着いたと推定される。 「四時仙台発の列車に乗った。 ぐっすり眠っていると、なんだか耳が寒いと思って目がさめた。 すると、あたまも痛いのに気がついた。 向うに乗った人が。汽車の窓をあけたまま降りてしまって、風が吹きこんできたのであった。」
 この時の列車は常磐線であろう。 のち一〇月末と推定される八木源次郎あての書簡には「私事先月末仙台水戸を工場の用にて巡歴致し東京着と共に直ちに発熱」(書簡396)とあり。一方鈴木東蔵あて(書簡395)には「当地着廿日夜烈しく発熱致し」とある。
 つづくメモには、「赤帽 20 自動車 100 茶代 465 卵 30 薬 25 肌着 60」とあり、上野駅から重い荷物を円タクにつみまっすぐに神田区駿河台南甲賀町一二番地八幡(やわた)へ到ったと推定する。 二一日発(推定)鈴木あての手紙(書簡392)には「昨日午后当地に着、早速諸店巡訪致し候へ共」とあるが、もしそうならば手帳に控えておいた神田鎌倉河岸柳瀬商店、京橋区東湊町小川勘助か。 しかしそれならば車代がもっと計上される筈である。 到着後薬や肌着を買い(外へ出たか、依頼したか)厄介になるので先に宿泊代四円六五銭と茶代五〇銭を払っていることからも諸店巡訪は無理な状態であったろう。(略)
 八幡館で働いていた新藤ふさの話によると、「その人、たいへんな熱で、汗をだらだらいかきましたつけね。 ワタシア、何度も、ねまきをとりかえましたヨ、ユカタの−、一日に何度かね、わかりませんヨ、かえるそばから汗で−」云々とあり、滞在中の記憶の重なりで到着したときの様子は判らないが、かなり苦しい状態であったろう。 とにかく二〇夜は烈しく発熱したのである。
 1931(昭和6)年9月21日(月)  鈴木東蔵あて、八幡館便箋(封筒も同館のものと推定)に「昨日午后到着」の連絡を出し(書簡392)、「早速諸店巡訪致し候へ共未だ確たる見込に接せず候。(略)」という。(略)
 そして、一九二八(昭和三)年八月から本年初頭に到る二年五か月余の病臥療養の経験、工場と関係を持った後ときどき発熱療養した体調、それと今回の発熱の状態を比べて不安、危険を感じ、いよいよ運命の刻がきたと考えて父母あて遺書、弟妹たちあて告別のことばを書く。(書簡393・394)
関連作品など:
《書簡392 1931年9月21日 鈴木東蔵あて 封書》 拝啓 昨日午后当地に着、早速諸店巡訪致し候へ共未だ確たる見込に接せず候。何分の不景気には候へ共、充分堅実に注文を求め申すべく茲三四日の成績を何卒お待願上候
 尚仙台にては関口氏出張中にて同氏及び長岡市宿所を訪問敬意のみ表し置候 敬 具

《書簡393 1931年9月21日 宮沢政次郎・イチあて 封書》 この一生の間どこのどんな子供も受けないやうな厚いご恩をいたゞきながら、いつも我慢でお心に背きたうたうこんなことになりました。 今生で万分一もつひにお返しできませんでしたご恩はきっと次の生又その次の生でご報じいたしたいとそれのみを念願いたします。
どうかご信仰といふのではなくてもお題目で私をお呼びだしください。 そのお題目で絶えずおわび申しあげお答へいたします。  九月廿一日 父上様 母上様  賢治
《書簡394 1931年9月21日 宮沢清六・岩田シゲ・宮沢主計・クニあて 封書》 たうたう一生何ひとつお役に立てずご心配ご迷惑ばかり掛けてしまひました。 どうかこの我儘者をお赦しください。
 清六様 しげ様 主計様 くに様  賢治
当時の住所:
神田区駿河台南甲賀町12((宮沢賢治記念館企画展示図録「「東京」ノートの〈東京〉」(栗原敦監修・解説)より)
現在の住所:
千代田区神田駿河台1丁目4番地日本大学お茶の水キャンパス カザルスホール

 JR線「御茶ノ水駅」から明大通りを駿河台下交差点方面に行くと、左手にあるカザルスホールの敷地が八幡館跡となります。 カザルスホールは、1924(大正13)年に建てられた主婦の友ビルを建て直した「お茶の水スクエアA館(現在の日本大学お茶ノ水キャンパス)」内に設けられた室内楽専用のホールです。 主婦の友社が所有していましたが、現在は売却され、日本大学の施設となっています。

 上左側の写真が「カザルスホール」の正面です。 コンサート会場への入り口はこちらからとなります。 画面の左側にお茶の水スクエアB館とC館がありました。
 上右側の写真は、賢治が宿泊した八幡館のあった場所附近です。 建物の横を、明大通りから少し入った場所です。 ちょうど、カザルスホールの真下部分にある駐車場への入口ですが、その右上付近が、賢治の宿泊した8号室です。(「宮澤賢治とカザルスホール」(カザルスホール倶楽部会報、1997年11号)平面図より推定)
 八幡館は、その後場所を変え、現在水道橋グランドホテル(文京区本郷1丁目22番2号)となって営業を続けています。 数年前までは、ホームページで八幡館時代の写真や、賢治宿泊のことを紹介していたのですが、現在では削除されており、見ることができません。

 この写真は、2002年3月21日〜22日に行われた宮沢賢治学会春季節セミナー「賢治の歩いた東京」でカザルスホールに入場した際に撮影したものです。

 この写真もその時に撮影したものですが、「お茶の水スクエア」時代の建物案内図(お茶の水スクエア Information)です。 現在A館はそのまま残っていますが、最近B館とC館は壊されて空き地になっています。
 奥田弘「宮澤賢治の東京における足跡」では、 「彼の生涯にとって、最後の上京となり、宿泊した旅館は、神田区駿河台南甲賀町一二番地、旅館八幡館である。 現在は番地改正によって、千代田区神田駿河台一丁目四番地と変わっている。 その八幡館は戦災にあってすでにない。 主婦の友社裏の空き地が、その跡である。 今はコンクリート塀に囲まれて、バラック風の建物が二棟建っている。
 この八幡館について、当時奉公していた井上てつ氏は、次のように述べている。 「間口の広い造りで階上十二室、階下四室の客室で、東は隣接して明治館がならんでいた。」(略)」
とあります。
 また、同氏による「宮沢賢治研究資料探索」(蒼丘書林、2001)の「八幡館・宮城館のこと」(初出「銅鑼」35号、1979・12)の解説では、 「東京旅館案内」(東京市役所、1937)に掲載された八幡館の概要を引用し、その規模について検討を加えています。 「旅館名 八幡(ヤハタ)館 所在地 駿河台一ノ四 電話番号 神田九七四 交通機関 市電駿河台下西半丁(注 西は東の誤記か)省線御茶ノ水駅ヨリ三分 室数 一六 畳数 一二八 宿泊料 甲 二、五〇 乙 三、〇〇 団体イ 二、〇〇 ロ 一、〇〇以上 備考 茶代ナシ サービス料 一割五分制 設備 卓上電話、水洗便所、応接室」 とあり、掲載された他の旅館と比較し、「中級の旅館」と位置づけています。
 この場所は、賢治の足跡としては文京区菊坂町の稲垣宅同様に良く知られた場所で、東京の文学関連ゆかりの地の探訪を特集した書籍などでも、頻繁に取り上げられています。







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