緑いろの通信 2022年11月
   

KENJI MIYAZAWA NEWS PAGE

緑いろの通信
Office Kenji

Kenji & News 2022.11
(C)1996-2022


- 緑いろの通信 2022年11月 目次 -


緑いろの通信

 「緑いろの通信」へようこそ! 2022年11月号をアップしました。 今月の写真は、東京都美術館で開催されていた岡本太郎展の展示より「太陽の塔」(模型)の頂上にある「顔」の部分です。 全体的に見ると白ペンギンですね。 現物が大阪に保存されていますが、グッズ売り場でも人気の作品でした。 今月もまたよろしくお願いします。




「賢治の事務所」の事務室から
お願い

(各コーナーの写真をクリックすると目次に戻ることができます)


- 「賢治の事務所」の事務室から -


緑いろの通信

 新着情報でも更新ページを知ることができますが、少し紹介を加えたりしてプラス・アルファの書き込みです。 日付を付けて書き加えますので、時々のぞいてみてください。


リンクご希望の際はメールにてお知らせください


  ●賢治の事務所のバナー



リンクご希望の際はメールにてお知らせください


  ●賢治の事務所バナー(小)


11月1日(火)
 晴れ。

 次の写真は「今月の写真」で紹介した「太陽の塔」(模型)の頂上にある「顔」の部分です。


(「太陽の塔」の「顔」 2022年10月23日撮影)

 この「顔」の部分を見て、万博開催中に、塔の上によじ登った人がいて騒ぎになったことを思い出しました。

11月2日(水)
 晴れ。

 抱影の『星三百六十五夜 秋』の今日は「三角と牡羊」。 秋編も最終月となりました。

 夜八時、北落師門がほとんど南中している。 その真上の天馬の大方形と、それにつづくアンドロメダの星の一列が、巨大な北斗七星の形で東北の中空を抑えているのもうまくできているが、その柄の下に小さな二等辺三角形の三角座と、同じく鈍角三角形の牡羊座とが上下に並んでいるのも、そこのブランクを塞ぐ意匠として感心させられる。(略)

 冒頭の短い文章にも感心させられてしまいました。 明日から山梨。

11月3日(木)
 文化の日。晴れ。

 早朝、自宅の用事を片付けて、大急ぎで新宿駅へと移動。 新宿駅からは、中央線特急あずざに乗車し、甲府駅を経て韮崎駅へ。 例年10月開催の「花園農村の碑碑前祭」が、今年(第15回)は、少し時期を遅らせて11月初めとなりました。

 韮崎駅のホームからは大きな富士山。


(韮崎駅ホームからの富士山 2022年11月3日撮影)

 都合で遅刻の心配もありましたが、やりくりの結果、少し早く到着することができました。 韮崎駅で休憩がてら、駅前の韮崎交流市民センター1階にあるふるさと偉人資料館を見学します。 (「ふるさと偉人資料館」はこちら(ニコリ)、 「韮崎市ふるさと偉人資料館」はこちら(甲斐ミュージアムネットワーク))

 ここでは、 第13回企画展・開館10周年記念展「学びの襷、次世代へ 〜生山正方の稲倉塾舎を原点として〜」が開催されていました。 ここ韮崎では、江戸時代の私塾が地域ごとに学びの場として確立され、生山正方から続く私塾の流れには、門下生として保阪嘉内の父、保阪善作の名前も見つけることができました。


(「学びの襷、次世代へ」 2022年11月3日撮影)

 碑前祭会場は、東京エレクトロン韮崎文化ホール前庭です。 駅からはタクシーに乗って10分程度の距離でしょうか。 タクシーを下りてロビーに入ると、もうアザリア記念会の方々が準備作業を始めていました。


(花園農村の碑 2022年11月3日撮影)

  会議室が開く前に、碑前祭の会場づくりで椅子を並べたり、受付場所も用意します。 皆さんベテランが多いので、あっという間に完成です。 その他の準備完了を待って、13時半を少し遅れてスタート。

 アザリア記念会からは代表の向山さんからご挨拶。 今年も仮装(「ビジテリアン大祭」より)しての登場となりました。


(向山さんからのお話 2022年11月3日撮影)

 韮崎市長、山梨県立文学館からのご挨拶を経て、詩碑の朗読、合唱が行われました。

 引き続いて、会場を屋内の会議室に移して、渡辺えりさんの講演「父の遺言と宮沢賢治」です。


(渡辺えりさん 2022年11月3日撮影)

 戦争とお父様のことを中心に、最近公演された演劇作品の話題もありました。


(会場から見た富士山と月 2022年11月3日撮影)

 いつもなら、韮崎のみなさんとご一緒に市内で打ち上げ的に懇親会となりますが、今回は渡辺えりさんとお付きの坂尾さん、アザリア記念会の向山さんと、身延にある下部ホテルへ。 ここは、渡辺えりさんのお父様との思い出の場所で、再度の宿泊となりました。 経緯の詳細は、渡辺えりさんの山形新聞に連載中の記事「ちょっとブレーク」にあります。 ((120)還暦コンサート(上)(121)還暦コンサート(下)

 ホテルに到着後、温泉と夕食。 渡辺えりさん、向山さんとじっくりと賢治のお話。

11月4日(金)
 晴れのち夜にわか雨。

 早起きして温泉、続いて朝食の時間です。 ロビーで待ち合わせをしてホテルをチェックアウト。

 今日は賢治が信仰していた日蓮宗の総本山、身延山久遠寺を訪ねます。 (「身延山久遠寺」はこちら

 向山さんがガイドを手配して下さったので、個人で訪ねるよりも、学びの多い(情報量大な)見学となりました。 ボランティアガイドは久保田さんです。 先ずは、大きな三門から。 すぐ近くの賢治の碑(東京賢治研究会の碑)でも説明を受けます。


(「塵点の劫を…」の前で 2022年11月4日撮影)

 その後、壁のようにも見える、急な石段287段(高低差は104メートル)を登ります。 登山を思えばそれほどでもありませんが、それなりに大変でした。


(石段の上から… 2022年11月4日撮影)

 階段を登り切って、正面にある本堂、続いて祖師堂を拝観。 本堂の天井に描かれた龍の絵は日本画家加山又造によるものとのこと。 (加山又造と言えば、新潮文庫版の宮沢賢治作品のカバーの絵を描いた方ですね)

 本堂から祖師堂に移動して内部を見学します。 ガイドの方が久遠寺の方にお話下さり、通常よりも特別な見学をすることができました。


(久遠寺にて 2022年11月4日撮影)

 見学後は、身延山大学の前から宿坊(覚林坊)で昼食です。 人気の宿坊のようで、昼食時も混んでいました。 食事も良かったです。 (覚林坊はこちら

 食後は、三門前に戻り、そこから再び甲府へと移動します。 市内の道路混雑で、少しはらはらしましたが、無事予定の列車に間に合うことができました。 関係のみなさま、本当にありがとうございました。

 地元に戻って、夜はにわか雨。

11月5日(土)
 晴れ。

 今日は自宅で作業。 暗くなってから、地元の花火大会で、ドンドン音が聞こえています。 以前だと、山に出かけていて地元にはいない時期でした。 (「土浦全国花火競技大会」はこちら

 来週8日夜には皆既月食があります。 (「皆既月食・天王星食(2022年11月)」はこちら(国立天文台))


(2022年11月8日の皆既月食)

 皆既月食そのものは、地球の影の中心に近づくので、まあまあの条件と言えます。 また同時に見られる天王星の食の方も、単に見られるというだけでなく、月の(本影による)暗縁から潜入し、暗縁から出現するというのも、観測者側からすれば非常に嬉しいことです。 何れにしても、天候に恵まれることを期待しましょう。

 ところで、賢治の時代の月食については、これまで何度も取り上げてきました。 今日は、賢治の時代の月食の新聞記事ということで、1932年3月22日の月食(二度目の紹介になります)のことを少々。

 当時の新聞にも日・月食の記事は度々取り上げられますが、この記事は写真つきで掲載されていました。


(岩手日報 1932(昭和7)年3月24日紙面より)

 はつきり見えた
 昨夜の月食
   盛岡測候所觀測

 盛岡測候所で觀測した二十二日夜の月蝕に就て福井所長は次の如く發表した。 二十二日夜午後七時五十九分十一秒五から屋上の觀測所で觀測に着手 十五回に亘り觀測レンズに収めたが寒氣と風で時々雲に邪魔されてはつきりしなかつたが 月蝕のかけ始めは七時五十九分十二秒で左下から欠け始め九時十二分十二秒左の上に食甚し 全圓赤銅色を呈し肉眼でもよく見えたが 十一時五分十二秒上の右に終つたが かけ始めから食甚迄の時間一時間三十三分、 食甚から復圓迄の時間も一時三十三分で 月蝕時間と云ふのは〆めて三時間と六分であるが かけ始めの位置はその年としに依つて異なるものである
(寫眞は八時五十五分七秒觀測撮影による月食かけは初め)

 当時の「岩手日報」の記事です。 句読点もほとんどなく読みにくい文章、そして印刷が不明瞭な月の写真の掲載ですが、それはさておき、天文台ではなくて盛岡測候所が観測していたということにも注目すべきと思います。 気象観測だけではなく、実は天体観測もやっていたということですね。

 これは、水沢にあった緯度観測所が、天体観測の拠点でありながら、気象観測もやっていたという状況とも似ているような気がします。 「観測」の結果についてお互いに補完するような役割を担っていた、或いはそれぞれが必要に迫られて自前でやっていたという状況でしょうか。 なんとなく後者のような気がしますが、例えば、緯度観測所で精密な天体観測を行う場合、機材の運用において、気象条件が大きく影響するためと理解すれば納得できます。

 せっかくですので、記事に掲載された写真の時刻における月食のシミュレーション、加えて当時の月食の詳細データ(計算によるもの)を掲げておきます。


(1932年3月22日20時55分7秒の月)

 19:00 半影開始
 20:00 本影開始
 21:32 食の最大
 23:05 本影終了
 24:04 半影終了

 ところで、新聞記事中に登場している「福井所長」は、宮沢賢治とも交流があった福井規矩三(ふくいきくぞう)です。 賢治から福井規矩三にあてた書簡(書簡231)が残されています。

 盛岡測候所 福井規矩三殿  昭和二年七月十九日 岩手県稗貫郡下根子 羅須地人協会

昨日はご多用のところいろいろとご教示を賜はりまして寔に辱けなく存じます。 お陰様で本日はゥ方に手配を定め茲両三日中には充分安全な処理を了へるかと存ぜられます。 先づは虔しんでお礼申しあげます。

   昭和二年七月一九日
  福井規矩三先生               宮沢賢治

 福井規矩三は、賢治没後のこととなりますが「測候所と宮沢君」という当時の思い出を回想する文章を残しています。 そこには触れられていませんが、詩「月天子」から察するところ、賢治に望遠鏡で天体(月)を見せた人物としても記録しておくべきではないでしょうか。

 次の引用は、雨ニモマケズ手帳に書かれた詩「月天子」です。

   月天子

 私はこどものときから
 いろいろな雑誌や新聞で
 幾つもの月の写真を見た
 その表面はでこぼこの火口で覆われ
 またそこに日が射しているのもはっきり見た
 後そこが大へんつめたいこと
 空気のないことなども習った
 また私は三度かそれの蝕を見た
 地球の影がそこに映って
 滑り去るのをはっきり見た
 次にはそれがたぶんは地球をはなれたもので
 最后に稲作の気候のことで知り合いになった
 盛岡測候所の私の友だちは
 ──ミリ径の小さな望遠鏡で
 その天体を見せてくれた
 またその軌道や運転が
 簡単な公式に従うことを教えてくれた
 (略)

 「三度かそれの蝕(月食)を見た」というエピソードのあとに出てきますが、 「稲作の気候のことで知り合いになった」という福井氏を指すと思われる「私の友だち」が、望遠鏡を見せてくれた時のことが書かれています。

 引用した新聞記事を読むと、福井氏は業務の一部として天文に関する知識を有し、望遠鏡を使うことができたことがわかります。 新聞記事の月食の写真は、月の大きさからして望遠鏡を用いた撮影と思われますが、これは賢治が覗いた望遠鏡(推定では6センチ〜10センチ程度の屈折望遠鏡)による撮影かも知れません。

 先日の花園農村の碑碑前祭、新聞記事で紹介されていました。 (「「みんなの幸せのために生きた」保阪嘉内の碑前で集い」はこちら(朝日新聞2022年11月5日))

11月6日(日)
 晴れ。

 今日は、依頼案件に関する打ち合わせなど。 そしてお仕事。

 昨日、天文二誌を購入しました。


(天文二誌 2022年10月6日撮影)

 『天文ガイド』12月号は、特集が「火星の表面模様観測の好期 12月1日火星が地球最接近」です。 12月1日接近時の火星の視直径は、17.2″で光度は-1.8等です。 それほどではありませんが、その次の条件となるのは2033年(22.1″-2.5等)、さらに大接近は2035年ですから、それぞれのチャンスを大切にしなければなりません。 おうし座の角の間で増光中です。 それなりに明るくなってきました。

 『星ナビ』12月号はプラネタリウム番組「まだ見ぬ宇宙へ」(監督 上坂浩光)、そしておおいぬ座αシリウスの連星(シリウスB)を観測しようという記事など。 個人的には原さん執筆の「天文外史 諏訪天文同好会100年のあゆみ」が面白い内容でした。 あの三澤勝衛から始まる天文同好会の活動は、多くの天文愛好家(観測者、研究者)を輩出し、特に戦後にはアマチュアの一大拠点となりました。 記事に書かれているエピソードの数々も有名なものばかりです。 (本誌付録として、「星空カレンダー2023」つき)

 来年の天文情報を掲載した「年鑑」の類が発売される時期にもなりました。

11月7日(月)
 晴れ。

 抱影の『星三百六十五夜 秋』(中公文庫)の11月7日の記事は、「アーレスに祈る」でした。 ホメーロスからの引用で、最後にちょっとだけ軍神アーレス(火星)への言及。 (前日11月6日は「牧野先生」で牧野富太郎にまつわるお話)


(リボルバー 2022年11月7日撮影)

 ビートルズのリマスター・アルバム「リボルバー」のボックス・セットに封入されていたアルバムと解説をやっと読み終えました。 文字が小さいので膨大な情報量でした。 改めてすごいアルバムだったと痛感。 20代のエネルギーにも圧倒。

 明日の月食撮影のための撮影機材を準備。

皆既月食・天王星食タイムテーブル
=================================
16:41 【日没】
---------------------------------
17:02 半影食始まり
---------------------------------
18:07 【天文薄明終了】
18:09 部分食始まり
---------------------------------
19:07 皆既食始まり
19:59 食の最大
---------------------------------
20:41 天王星潜入
20:42 皆既食終了
---------------------------------
21:22 天王星出現
21:49 部分食の終了
---------------------------------
22:57 半影食の終了
=================================

11月8日(火)
 晴れ。

 このところ好天が続いているので、皆既月食+天王星食も安心して見られそうな気がします。 場所はどこでも観察可能ですが、どうせなら宮沢賢治ゆかりの場所で見ようと思い、都内に出かけてみました。 当然、街中では遮るものが多いということで、広々とした場所を考えるなかで、最終的には隅田川にかかる永代橋近くで眺めることにしました。

 永代橋は、宮沢賢治が1928(昭和3)年6月、伊豆大島への渡航などを目的とした上京時の作品「三原 第一部」(「三原三部」より)に出てきます。 (以下に冒頭のみ引用)

   三原 第一部

 ぼんやりこめた煙のなかで
 澱んだ夏の雲のま下で
 鉄の弧をした永代橋
 にぶい色した一つの電車を通したときに
 もうこの船はうごいてゐた

 宮沢賢治を乗せた船が伊豆大島へと出航してすぐ、遠くにこの橋の上を走る市電(路面電車)が見えたことが記されています。


(現在の永代橋 2022年10月8日撮影)

 永代橋は、1923(大正12)年9月の関東大震災で火災に見舞われ、その後の復興事業で新たに架橋されたものです。 (Wikipedia「永代橋」より)

 永代橋(えいたいばし)は、隅田川にかかる橋。 東京都道・千葉県道10号東京浦安線(永代通り)を通す。 西岸は中央区新川一丁目、東岸は江東区佐賀一丁目及び同区永代一丁目。 下流側には東京メトロ東西線が通る。 日の入りから21時まで青白くライトアップされる。 国の重要文化財(建造物、2007年指定)

 橋の概要
・構造形式
  中央径間: 下路式スチールアーチ橋
  両側: 鋼桁橋
・工法 ニューマチックケーソン工法(日本初)
・橋長 184.7 m
・幅員 25.0 m
・着工 1923年(大正12年)12月
・竣工 1926年(大正15年)12月20日
・施工主体 東京市復興局
・設計 田中豊原案、竹中喜忠設計(意匠面では建築家の山田守や山口文象(岡村蚊象)の関与があった)
・橋桁製作 神戸川崎造船所
・施工 太丸組/間組

 日本初の鉄橋
 明治維新を迎える頃には老朽化していたため、代替となる橋を下流に新たに作る計画が立案された。 1897年(明治30年)、道路橋としては日本初の鉄橋として鋼鉄製のトラス橋が、東京市側は日本橋川を挟んで対岸の現在の場所に再架橋され、それまでの旧い永代橋は廃止された。 頑丈な構造から、1904年(明治37年)には東京市街鉄道(後の東京都電)による路面電車も敷設された(1972年(昭和47年)11月に廃止)。 (略)

 1926年(大正15年)に震災復興事業により隅田川の9橋の再架橋が決まり、現在の橋梁が再架橋された。 「震災復興事業の華」と謳われた清洲橋に対して、「帝都東京の門」と言われたこの橋はドイツの ライン川に架かっていたルーデンドルフ鉄道橋(レマゲン鉄橋)をモデルにし、現存最古のタイドアーチ橋かつ日本で最初に径間長100 mを超えた橋でもある。 帝都復興院で橋梁を担当した田中豊、太田圓三らが技術とデザインの両立に腐心した成果であり、東京大学工学部1号館に架橋当時の永代橋のレプリカモデルが存在する。

 この記事によれば、賢治が永代橋を見た1926(大正15)年6月には、1897年に架橋された古い橋と、1926年12月に竣工予定の両方があったと思われます。 (写真:「歴史散歩道[第1弾]江戸深川情緒の研究 驚きの「記録写真」たち―80年前の新旧永代橋」より)


(1927(昭和2)年3月の永代橋)

 開通直後の写真ですが、これで見ると3つの橋が写っています。 一番左側が、現在もある1926年の橋、そして中央が1897年の橋(閉鎖)、さらにその右側にあるのが市電用の橋です。

 賢治は、この写真が撮影された前年の6月、この画面を左右に流れる隅田川の下流側(右手)から見ていることになります。 つまり「鉄の弧をした」とあることから、開通前の現在ある新しい橋を背景に、その手前側を走る市電を見ていたことがわかります。

 間近に見て、間もなく架橋100年になろうとは思えない優れたデザインの橋だと思いました。 橋を形作る曲線が見事でした。

 さて、肝心の月食撮影の方ですが、近くのカフェで少し休憩後、本影食の始まる前に現地に戻りました。 先客は一人。 聞いたら隅田川の橋の愛好家で、「月食を見るため」ではないとのこと。 キヤノンのデジタル一眼で撮影されていました。 こちらも機材を取り出し、撮影開始です。


(欠け始めています 2022年11月8日撮影)

 撮影しながら、辺りは人でいっぱいになっていました。 小望遠鏡を持ってきた人、双眼鏡のみの人、ひたすら食べているひと、それぞれ楽しんでいるようでした。

 無事、賢治ゆかりの橋で皆既月食を眺めることができました。


(永代橋と月 2022年11月8日撮影)


(永代橋と月(拡大) 2022年11月8日撮影)


(間もなく天王星食 2022年11月8日20:28撮影)


(間もなく天王星食(拡大) 2022年11月8日20:28撮影)

 300ミリ相当で撮影したものをトリミングしています。 (絞り値f5.6、シャッタースピード1/4秒、ISO800です) 天王星が月に隠れたところで撮影終了。


(撮影風景 2022年11月8日撮影)

 機材を撤収しつつ、皆既食の終りを確認。 これから帰宅です。 月はあっという間に明るくなって、自宅に着く頃にはまぶしいくらいでした。

11月9日(水)
 晴れ。

 昨晩の皆既月食で、にわか天文愛好家になった知人から連絡。 よほど感動したようです。 これから来月はじめにかけて、おうし座で火星が明るくなるとお話しました。

 昨晩の皆既月食、「もし月から地球を見たらどうだろうか?」素朴な疑問かも知れませんが、月では皆既日食が見られます。 月で半影食となっていた地域は部分日食が見える場所で、本影の下では皆既日食となるはずです。 月から地球を見ると、大気に包まれた縁が細く、そして赤味を帯びたリングのよう見えていると思われます。

 では、地球は何座に見えていたのでしょうか。 調べてみました。


(20時(JST)における月から見た地球)

 このシミュレーションは、昨晩20時(JST)、月面の晴れの海(アポロ11号着陸地点)における地球の見え方を示したものです。 地球は、西の空高く、てんびん座に金星と並んで見えていました。 (画面では右上隅)

 月から見える地球は、私たちが普段見慣れている月の直径の約4倍の大きさに見えます。 (太陽のみかけの大きさは地球と同じです。)

 次の図は地球付近を少し拡大してみたものです。


(20時(JST)における月から見た地球(拡大))

 てんびん座α星近くに大きな地球が見え、すぐお隣には金星、さらに東側にはさそり座や銀河(中心部付近)も見えていました。 さらに拡大してみましょう。


(21時30分(JST)における月から見た地球(拡大))

 西空に向かって、時刻も21時30分まで進めてみました。 地球の縁から太陽の光がもれ始めたところです。 その近くにある2つの星はてんびん座α(二重星)です。 月面には大気がないので、突然太陽光が射して、見ていられない状態になると思います。 地球の右上付近には、夜の日本列島も見えています。 (当然ですが)

11月10日(木)
 晴れ。

 就寝前のお茶の時間は、王様の「想像してごらん」でした。 賢治生誕100年の1996(平成9)年発売のアルバムです。 (懐かしい) ジョン・レノンのオリジナル作品から、5曲を直訳日本語の歌詞で歌うというものです。

 1.想像してごらん
   Imagine
 2.精神遊び
   Mind Games
 3.やきもち男
   Jealous Guy
 4.幸せなクリスマス(戦争は終わった)
   Happy Christmas (War Is Over)
 5.愛
   Love

 完全コピーの演奏のせて歌う(やや無理やりの)日本語歌詞に、お笑い的な感覚もありますが、またしんみりとさせられるものもあります。 ライナーを見ると、キーボードは難波弘之、また「幸せなクリスマス」では泉谷しげるも参加されています。

 アルバムのアートワークは、当時発売されていた「イマジン (オリジナル・サウンドトラック)」を、「王様風」にアレンジされたものでした。


(「想像してごらん」アートワーク(表))


(「イマジン」(サントラ盤)アートワーク(表))

 忌野清志郎も同様に日本語歌詞で歌っていましたね。

11月11日(金)
 晴れ。

 賢治の新刊から。


賢治の新刊書籍
旅人まんが 鉄道篇
『旅人まんが 鉄道篇』(ちくま文庫)
山田英生・編
松本零士「銀河鉄道の夜」
筑摩書房

 さまざまな鉄道旅のドラマを集めたアンソロジー。 松本零士「銀河鉄道の夜」が収録されています。 「原作 宮沢賢治」とありますが、少々のエッセンスが盛り込まれている別作品です。 (初出:「希望の友」1971年4月号) 外11篇収録。



 「賢治の図書館」  山田英生・編『旅人まんが 鉄道篇』/松本零士「銀河鉄道の夜」(ちくま文庫)を追加しました。

 収録されている「銀河鉄道の夜」は、『シリーズ昭和の名作漫画 銀河鉄道の夜』/(朝日新聞出版・2008年8月)収録のものと同様です。


(『旅人まんが 鉄道篇』『銀河鉄道の夜』2022年11月11日撮影)

11月12日(土)
 晴れ。

 原稿締切までの合間を見て都内へ。 お天気も良く、外出は快適でした。

 東京駅近くのアーティゾン美術館(旧ブリジストン美術館)に出かけてみました。 開催中の企画展は「パリ・オペラ座 響き合う芸術の殿堂」展でした。 パリでは訪問できなかったオペラ座でしたが、劇場にまつわる歴史と美術を紹介した展示です。 (「アーティゾン美術館」はこちら


(「パリ・オペラ座」展入口 2022年11月12日撮影)

 17世紀に始まったオペラ座の伝統の数々を19世紀〜20世紀初頭を中心に紹介したものです。 有名なマネや、ドガの絵画に交じって、シャガールの絵も置いてあるなど、期待なしで入館したものの、良き時間を過ごすことができました。 また、上野にある美術館とも違って、落ち着いて館内をまわることができました。


(シャガール「オペラ座の人々」 2022年11月12日撮影)

 シャガールでは天井画の習作が良かった。 企画展示の次には常設展。 こちらにも、有名絵画を多数見つけました。

 マルセル・デュシャンやジョセフ・コーネルの作品まで置いてありました。 コーネルの作品には、天体をモチーフにしたものを時々見かけますが、北斗七星(Big Dipper)の固有運動に注目した「《無題(今から5万年後)》」という1960年代のコラージュ作品が印象的でした。


(「今から5万年後」 2022年11月12日撮影)

 実際に恒星の固有運動に基づき検証してみると、「5万年後」では無理で、「10万年後」までやってやっと絵画の形になりました。 何か資料を参照したと思いますが、固有運動の見積もりが半分程度だったことになります。 (参考解説:「ハレー:彗星の予言と恒星の固有運動の発見」はこちら(国立教育政策研究所「天球図でさぐる地球と天体の動き」))


(固有運動による「今から10万年後」)

 モンベル京橋店の近くで昼食。 丸善で書籍購入。 日が短くなって、あっという間に夕方になってしまいました。

 東京駅前の丸ビルでは、ユーミンとコラボ企画のクリスマス・イベント(プロジェクション・マッピングショー)が行われていました。 これもベスト盤発売のプロモーションの一つでしょう。 丸ビルのツリーは、ユーミンの「TIME MACHINE TOUR」のイメージから制作されたものですね。


(丸ビル1階 マルキューブにて 2022年11月12日撮影)


(タイムマシーンツリー 2022年11月12日撮影)

 混雑するビルを出て、裏通りをみれば、もう年末年始のイルミネーションが始まっていました。 いよいよ年末です。


(仲通りのイルミネーション 2022年11月12日撮影)

11月13日(日)
 晴れのち曇りのち雨。

 自宅で所用。 夕方から雨。


(昨日の余韻 2022年11月13日撮影)

 作業の合間に串田孫一について少し調べもの。


(「串田孫一のABC」 2022年11月13日撮影)

 串田孫一(1915〜2005)について関心を持つようになったのは、『北海道の旅』(平凡社ライブラリー)を読んでからのこと。 その後、文芸誌『アルプ』や、『串田孫一集』(筑摩書房)などを読み始めました。 文庫本も多数(最近ではヤマケイ文庫からも)出ていて、重複購入と知りながらも旅先で購入しては愛読しています。

 2018年に雑誌「coyote」で特集「串田孫一のABC」がありました。 (記事「追想の宮沢賢治」も収録) そこに掲げられた「Travel 旅の軌跡」年譜を見て驚きました。 (最初の箇所を引用)

1928年(昭和3年)13歳
4月 上海、南京、蘇州。
九州北部を旅する。
12月 吾妻山五色へ行き、
五色ロッジに滞在

1929年(昭和4年)14歳
3月 吾妻山・青木小屋。
8月 三峰。武甲山。
五色ロッジに滞在

1930年(昭和5年)15歳
7月 烏帽子岳〜三俣蓮華岳〜
槍ヶ岳〜穂高岳〜上高地

 登山記録の始まりは「吾妻山五色」でした。 1928(昭和3)年といえば、まだ吾妻小舎(1934年開業 当日は国鉄が所有)もない時代です。 しかし、当時の吾妻山は山スキーの拠点としてかなり知られていたようです。 五色温泉から入り、吾妻の稜線上に出て、そこから浄土平を経て、高山から福島側の土湯温泉に下りるルートは、かなり知られていたようです。

 串田孫一記録にもあるとおり、戦前(他に1933年にも)度々積雪期に訪れていて、お気に入りのフィールドだったようです。 (入沢康夫さんも積雪期の吾妻に何度か通われたお話をされていました)


(「串田孫一のABC」から 2022年11月13日撮影)

 詩誌「アルビレオ」の記事も新鮮。 本誌の最後は、マーチン×コヨーテ「ギターとともに旅に出る」特別編(串田孫一とは無関係)を読み終えて、今夜のお茶の時間は終了。

11月14日(月)
 晴れ。

 NASAのジェームズ・ウェッブ宇宙望遠鏡(JAMES WEBB SPACE TELESCOPE)は、ファースト・ライト以降も、いくつもの成果を挙げています。 あれほど、その光学性能に圧倒されたハッブル宇宙望遠鏡も、今となってはすっかり過去のものとなってしまいました。 (「JAMES WEBB SPACE TELESCOPE」はこちら(NASA))

 特に、ハッブルと同一天体を撮影して比較されたM16の画像が象徴的です。 撮影機材に加えて、画像処理の技術も別次元に改善されていることがわかります。 以下に、公表されている画像を掲げます。 (Image Credit: NASA, ESA, CSA, STScI)


(The Pillars of Creation (Hubble and Webb Images Side by Side))

 「創造の柱」と名付けられた画像で、左側がハッブル(2014年撮影)、右側がジェームズ・ウェッブ(2022年撮影)によるものです。 素人目にも、映像がシャープで、微細な構造まで分解していることがわかります。 より詳しい解説、高解像度な画像は、以下のサイトからどうぞ。 (「NASA’s Webb Takes Star-Filled Portrait of Pillars of Creation」はこちら(NASA))

 このM16ですが、通称「わし星雲」と呼ばれます。 これは単に英語の通称名Eagle Nebulaを直訳しただけで、散光星雲愛好家には、いっかくじゅう座にあるわし星雲(最近ではカモメ星雲とも)の方がより認知度が高いかも知れません。

 わし「星雲」と呼ばれますが、実際には「散光星雲」と「散開星団」が重なり合って見えるものです。 星座はへび座で、銀河でも星々が密集している場所にあります。


(さそり座、いて座とわし星雲付近))

 双眼鏡があれば、夏の銀河に佇む巨大な散光星雲M8(干潟星雲)を視野に導入して併せてM20(三裂星雲)、そのまま天の川に沿って北に移動させれば、すぐにM17(オメガ星雲、白鳥星雲)が入ってきます。


(銀河中心方向の星雲・星団めぐり))

 そこから、M16(わし星雲)はすぐ近くで、視野5度の双眼鏡でも、M17と同一視野で眺めることができます。 次の写真はESOが撮影したわし星雲です。 (画像はWikipedia掲載のもの)


(わし星雲(ESO Wikipedia))

 この中心部を拡大すると、ハッブルやジェームズ・ウェッブが撮影した「創造の柱」の構造を見つけることができます。


(わし星雲より「創造の柱」付近をトリミング(ESO Wikipedia))

 ジェームズ・ウェッブ宇宙望遠鏡の画像については、今後も時々チェックしながら楽しみたいと思います。

11月15日(火)
 雨のち曇り夜晴れ。

 帰宅途中、東空の火星の(ちょっと違う)明るさに気付きました。 近くのアルデバラン、ベテルギウスなど赤系の星の中でも別格の存在感になっています。 山にでも登って、空気のきれいな場所で見る機会があれば別ですが、街中で突然の明るさに気付いたのです。

 昨日の雨もあがって、空気が澄んでいたからかも知れません。


(おうし座を移動する火星(11月1日〜12月まで))

 しばらくは火星の輝きを楽しむことにしましょう。 12月1日における光度は-1.8等、視直径は17.2秒角です。 この時期をピークに光度、視直径共に下降します。


(火星の光度と視直径の変化)

 抱影の『星三百六十五夜 秋』(中公文庫)の今日は「ペルセウスの曲線」でした。 そろそろ残されたページも数少なくなってきました。

 今日は、宮沢賢治生誕100年で制作・公開された映画「わが心の銀河鉄道 宮沢賢治物語」(東映)の大森一樹監督が亡くなられたというニュースがありました。 評伝ものの映画は、同年には神山征二郎監督で「宮澤賢治 その愛」(松竹)も制作されました。 (「『ゴジラVSビオランテ』『ヒポクラテスたち』大森一樹監督が70歳で死去」はこちら(シネマトゥデイ2022年11月15日))


(「わが心の銀河鉄道 宮沢賢治物語」)

11月16日(水)
 晴れ。

 天文の新刊2冊読了。


(天文新刊2冊 2022年11月16日撮影)

 どちらも寺薗淳也さんの著書で、『宇宙開発の不都合な真実』(彩図社)と『2025年、人類が再び月に降り立つ日−宇宙開発の最前線』(祥伝社新書)です。

 一冊目は、書名『宇宙開発の不都合な真実』から、アル・ゴア元アメリカ合衆国副大統領の『不都合な真実』を思い出してしまうのではないでしょうか。 私もそうでした。 そもそも、宇宙開発が私たちにとってどれほど必要なものか。 大量の化石燃料を爆発させロケットを打ち上げれば、大気中に二酸化炭素や、巨大な金属片をまき散らし、その先にあるのは、宇宙飛行士の満足そうな笑顔と(どちらかと言えば難解な成果だけ)…、その現実を理解し、向かい合った時に見えてくるものは何か。 著者は宇宙開発の第一人者です。 現場からの視点で分析され、語られる数々の事実にも耳を傾けたいものです。

 新書本の『2025年、人類が再び月に降り立つ日−宇宙開発の最前線』は、有人月面探査「アルテミス計画」の(現時点での)全貌について書かれているものです。 有人宇宙開発史的な部分、人類にもたらされる資源や可能性について、どちらかというと網羅的な整理のもと書かたものです。 宇宙開発のための(私たち社会の)心構えのようなまとめになっていました。

11月17日(木)
 晴れ。

 今日は、今から100年前にアインシュタインが神戸港に到着した日です。 ヨーロッパを船便で発ち、長い航海を経て日本上陸の数日前、ノーベル賞受賞の知らせを受取りました。 そのニュースを携えての来日です。 その後、日本各地をめぐる「世紀の科学者」の講演は、大きなニュースとして報道されました。 (「【華やかな神戸】1922年11月、神戸港から来日したアインシュタイン夫妻」はこちら(朝日新聞)、 「アルベルト・アインシュタイン」はこちら(Wikipedia))

 【新】校本賢治全集第16巻(下)補遺・資料 年譜編の1922(大正11)年の年譜記事(一般社会事項)P249に、「一一月一八日 アインシュタイン来日」とありますが、来日は神戸港から上陸した11月17日となります。

11月18日(金)
 晴れ。

 映画「銀河鉄道の父」のプレス発表があり、上映開始予定日、イメージポスターなどの公表がありました。 (映画「銀河鉄道の父」はこちら(公式サイト))

 これまで、商業的に製作された3本の映画について少々。 キャスティングについてはいろいろと気になるところですが、過去の作品とともに簡単にまとめてみました。


(宮沢賢治評伝作品主要登場人物のキャスティング)

 こうしてみると、キャスティングそのものより、「どのような人物とともに賢治を描くか」という点から、作品の方向性がよくわかります。

 福島県の吾妻小舎で御主人の遠藤守雄さんとともに管理人をされていた遠藤雅子さん逝去の連絡がありました。 すでに、9月10日に亡くなられていたとのことで、昨今の事情もあり近親者のみで葬儀を行ったとのお知らせを二階堂晋一さんからいただきました。 白河天体観測所の岡田さんの計らいで、吾妻小舎に初めて宿泊したのが1982年8月のこと。 あれから今年でちょうど40年、本当に長い間のおつきあいでした。 ご冥福をお祈りしたいと思います。


(遠藤さんご夫妻と一切経山噴火口にて 2006年5月7日撮影)

 この写真は、ゴールデンウイーク中に、一切経山山頂までごみ拾いに出かけた時のものです。 (実はもう一つ秘密のミッションもありました) 当時は噴火活動がほとんどなかったため、火口に沿った登山道から山頂に向かいました。 あいにくの霧でしたが、五色沼を見下ろせる場所でお弁当です。 お二人とも、まだまだお元気でお仕事ができた頃の写真でした。


(最後の吾妻小舎泊にて 2020年6月8日撮影)

 吾妻小舎の方は、しばらく管理人不在でしたが、今年また宿泊営業が始まりました。 (現在は冬期の休業中です) (新しい吾妻小屋ウェブサイトはこちら

11月19日(土)
 晴れ。

 午前中、いつもの床屋に出かける。 なんと、今年いっぱいで営業を取りやめるというお話。 ご夫婦で営業のお店で、4歳の時からお世話になっていた場所です。 高齢ということで、店じまいを決心されたとのこと。 感謝。

 山岡光治『明治測量物語 地図をつくった男たち』(角川ソフィア文庫)読了。 著者は、国土地理院の技官としてお仕事をされてきた経歴をもとに、地図にまつわるさまざまな活動をされてきた方です。 本書は、2012年に原書房から同名の単行本として発売されました。 読もうと思いながらも、忙しくてすっかり忘れていたところ、文庫化されての購入でした。

 サブタイトルにもあるとおり「明治測量物語」ということで、賢治の時代にもつながる数々の地図作りの歴史がエピソードを通じて紹介されています。 賢治が地質調査で用いた(国土地理院ではなく)陸地測量部の地形図や測標(賢治的には三角標)も登場します。 個人的な地図趣味の延長として楽しめました。 古い話ではありますが、斉田博的。


(『地図をつくった男たち』 2022年11月19日撮影)

 茨城県、取手の詩人宮崎稔は、高村光太郎と交流があり、花巻への疎開中にも何度か支援を重ねた人物です。 その著書に『みちのくの手紙 −高村光太郎書簡集−』(中央公論社1953・2)がありますが、その「昭和二十二年(1947)」の1月15日付宮崎稔宛書簡があります。 日常の報告(日用品などの充足状況)が大半ですが、最後にちょっとした関心事項がメモ的に書かれていました。 その中にひとことだけ、夜空の報告がありました。

(略)
堀辰雄さんの「風立ちぬ」といふ短編集をもらひました。 愛讀してゐます。
村上菊一郎氏譯の「イギリス君主制」といふ本をもらひました。 中々おもしろいです。
札幌磁社から「フランス詩集」再版が來ました。 小型本です。 今「農民藝術」三號の爲原稿を書きかけてゐます。
足袋、ヅボンの繕ひはひどく手間をとります。
今夜空よく晴れ、美しいオリオン星座が今南中してゐます。 又書きますが、今日はこれだけ。

 最後に、南中するオリオンの話が出ています。 南中時刻は21時30分過ぎ頃でした。 月明かりの影響のない暗い夜空であれば、美しい星空が眺められたことでしょう。


(1947年1月15日21時33分の空(高村荘前))

11月20日(日)
 曇りのち雨。

 午前中の自宅の作業を終えて、午後から都内。 お天気が悪いせいか、人出は少なめの印象。

 日本橋に出て、三越、(賢治ゆかりの丸善)書店とカフェ。 カフェは、くず餅で有名な船橋屋の柚子白玉あんみつとお茶(鉄瓶で出てくる)を注文。 (「船橋屋」はこちら


(柚子白玉あんみつ 2022年11月20日撮影)

 お向いの高島屋(高島屋史料館TOKYO 4階展示室)で開催中の「百貨店展 −夢と憧れの建築史」を見学。 東京だけでなく関西のデパートの歴史を一覧にしたパネルなど、小規模な展示ながら、関心の方向性によってはなかなかの充実度でした。 (「百貨店展 −夢と憧れの建築史」はこちら(高島屋史料館TOKYO))


(日本橋高島屋 百貨店展チラシ)

 日本橋は、宮沢賢治の短歌にも登場しています。

 日本橋この雲のいろ雲のいろ家々の上にかゝるさびしさ。

 これは、1916(大正5)年8月17日消印、保阪嘉内宛書簡(書簡19)に書かれたものです。 賢治は盛岡高等農林学校2年生。 7月30日の夜行列車で上京し、神田区の東京独逸学院で開催された独逸語夏季講習会を受講するために滞在中でした。

 この滞在は、賢治による初の長期間の東京滞在で、嘉内宛書簡にも、日本橋のほか、神保町、ニコライ堂、大使館、三井銀行、万世橋の停車場を登場させています。


(高島屋クリスマスディスプレイ 2022年11月20日撮影)


(高島屋クリスマスツリー 2022年11月20日撮影)

 雨の中、早々に帰宅。

11月21日(月)
 雨のち晴れ。

 このところ、空き時間を利用して何冊もの古い鉄道時刻表をチェックしています。 そんな作業(関心)の延長で、一冊の時刻表を購入してみました。 現在「JTB時刻表」が発売されていますが、その創刊号にあたる「鐵道省運輸局編纂 汽車時刻表 大正十四年四月號」が覆刻版として発売されました。 古書としてその専門のお店に行けば、流通はしていましたが、何より新しくてきれい、(読みやすい)ということでしょうか。


(「「鐵道省運輸局編纂 汽車時刻表」 2022年11月23日撮影)

 カバーを外すと、当時のオリジナルな表紙が出てきます。


(「鐵道省運輸局編纂 汽車時刻表」内表紙 2022年11月23日撮影)

 鉄道博物館(旧交通博物館)で、「時刻表」を用いた調査をされた方ならおわかりと思いますが、古くから流通していた時刻表は「公認汽車汽船旅行案内」というポケットサイズの時刻表でした。 この時刻表、時刻が漢数字で書かれていて、かなり使いにくいものでした。 この覆刻された時刻表は、算用数字が用いられ、ほとんど現在の時刻表に近い様式で、多くの点において使いやすく改良されています。

 ところで、この時刻表の時期は「大正十四年四月號」(1925年4月号)ということで、宮沢賢治の年譜で言えば、花巻農学校での教師生活が最後となる年度の初めに相当していました。

 次の写真は、時刻表より「東北本線、橋場及び鹽竈線」と書かれたページで、橋場駅〜盛岡駅〜一ノ関駅〜岩切駅間を主に、前後の青森駅や上野駅までの接続関係が掲載されています。


「東北本線、橋場及び鹽竈線」(P102) 2022年11月23日撮影)

 時刻表の上部には、索引機能を持った路線図がついています。 次の写真は花巻駅付近を拡大したものです。 花巻駅から台駅(温泉)、大沢駅(温泉)、仙人峠駅方面への接続があることがわかります。 それぞれ、「花巻・臺温泉間」(P200)、「花巻・大澤間(非連帯線)(盛岡電氣工業線)」(P107)、「花巻・仙人峠間(連帯線)(岩手輕便鐵道線)」(P107)となります。


(花巻駅付近の路線図(P102) 2022年11月23日撮影)

 この路線図で見ると、大沢行の電車は、花巻駅の東側(当時の岩手軽便鉄道側)から出ていたことがわかります。 細かくみると、あれこれと個人的な発見が多く、飽きることはありません。

11月22日(火)
 晴れ。

 しばらくぶりで、ポール・マッカートニー『THE LYRICS』を読みました。 今夜は、I'll Follow the Sun(Beatles for Sale)〜I've Got a Feeling(Let It Be)まで。


(『THE LYRICS』を読む 2022年11月23日撮影)

 I'll Follow the Sunは、曲作りのエピソード。 I'll Get Youでは、トライアド・コードだけでの曲作りのお話。 I'm Carryingで運ばれるもの。 それは小包。 1978年発表のアルバムLondon Townでも異色の曲。 I'm Down、In Spite of All the Danger、そしてI've Got a Feelingまで。 この曲はポールの書いたI've Got a Feelingと、ジョンの書いたEvery one Had a Bad Yearが「強制結婚」によって生まれた曲という。 (ポールの最新ツアーでの若き日のジョン・レノンとの共演が話題となった曲)

11月23日(水)
 勤労感謝の日。雨。

 自宅で作業。 薄暗い一日です。

 ユーミンが特集されていた「ギターマガジン」(2022年11月号)など読む。


(「ギターマガジン」を読む 2022年11月23日撮影)

 松任谷由実インタビューの記事で、ピンク・フロイドのギタリスト「デヴィッド・ギルモアが大好き」と書かれていました。 好みとするイギリスのロックバンドではありますが、ギルモアの(あの)ブルース・ギターとユーミンとでは、まったく方向性が全く違うのに、なぜ???と思いながら読み進めました。

 インタビューよりも、演奏に関わってきたさまざまなギタリスト(鈴木茂、吉川忠英、松原正樹、今剛、安藤正容、鳥山雄司…)の記事(インタビュー、楽器、楽曲)が沢山でした。 アルバム「REINCARNATION」発売当時、タイトルナンバー「REINCARNATION」のギターを気に入って夢中でコピーしました。 本誌によれば、演奏はスクエアの(安藤正容)とのこと。 (なるほど!)

11月24日(木)
 晴れ。

 11月下旬となり、来年の天文関係の年鑑類が発売となっていました。 『天文年鑑2023』(誠文堂新光社)、そして『アストロガイド2023』も併せて購入。


(『天文年鑑2022』『天文年鑑2023』 2022年11月24日撮影)

 以下は、来年一年間を見渡しての天文イベントです。

日月食は4/20の部分月食、10/23明け方には部分月食。
惑星食は3/24の金星食(九州南部ほか)、9/21のアンタレス食(賢治祭の開催中)「赤いめだまが出てきた!」
流星は、月明りの条件がほぼ一年おきでかわることから、ペルセウス座流星群○、ふたご座流星群○といった感じです。
・ほかに気を付けておきたいのは、今年発見された彗星、ZTF(ズィティーエフ)彗星 (C/2022 E3)が1月・2月に北天で好条件となります。 (現時点での)予報光度は4等級程度。

 9月のアンタレス食の見え方を簡単にシミュレーションした図を載せておきます。 始まりは、まだ太陽が出ている時間の潜入です。 そして日没後、約1時間になろうとする頃、星々がしだいに現れてきますが、アンタレスの位置にある旧暦8月7日(月齢6.1)の月がアンタレスを隠しています。


(アンタレス食 18時30分)

 花巻では、月の横(明縁側)からアンタレスが現れるのは、19時49分頃。


(アンタレス食(拡大) 19時49分)

 出てくるのはほんの一瞬ですから、小型望遠鏡や双眼鏡で注意深く観察しなければなりません。

11月25日(金)
 晴れ。

 週末が近づいてきました。 今日、11月25日の作品日付を持つ賢治の作品に詩「孤独と風童」(1924年11月25日)があります。

   孤独と風童

 シグナルの、
 赤いあかりもともったし
 プラットフォームは
 Yの字をしたはしらだの
 犬の毛皮を着た農夫だの
 けふもすっかり酸えてしまった
 東へ行くの?
 白いみかげの胃の方へかい
 さう では おいで
 行きがけにねえ
 向ふの
 あの、ぼんやりとした葡萄いろのそらを通って
 大荒沢やあっちはひどい雪ですと
 ぼくが云ったと云っとくれ
 ぢゃさようなら

 これを読むと、もう冬なんだなと、ただ漠然と思います。 「シグナルの、/赤いあかりもともったし」とあることから、夕暮れどきの駅の風景でしょうか。 (風の又三郎を思わせる)東へと向かう「風童」に話しかけるという少し童話的な作品です。 風童に対して、北上線(当時は横黒線)沿線方面にある大荒沢の辺りでは「ひどい雪」となっていることを(誰かに)伝えています。 11月も下旬となれば、本格的な雪の季節へと変わる時期です。

 仕事で行けないけれど、今日は東京で村松健のピアノコンサートがあります。 「KEN PLAYS KEN 村松健ピアノコンサート2022」で、会場はロケーションで有名な豊洲シビックセンターホールです。

 演奏予定曲目が少し事前に知らされていたので、iTunesでセットリストを作成してそれを聴きながらの週末の準備。

 ・思いは海を越えて(富士通CM曲)
 ・光のワルツ(アフラックCM曲)
 ・出会いと別れ、雨上がりの国(テレビ埼玉天気予報)
 ・懐かしい街に帰ろう
 ・やさしい時間
 ・約束の渚
 ・My Spiritual Home
 ・とおり雨
 etc

11月26日(土)
 曇りのち晴れのち曇り。

 今日から久々の岩手です。 いつものように旅のアルバム。 東京駅発の早朝の新幹線に乗り、盛岡駅まで。

 行く途中の新幹線にあった「トランヴェール 2022年11月号」誌の表紙は筑波山と常磐線(特急スーパーひたち)。 宮沢賢治が上野行きの列車に乗車中、洪水の後始末で待たされたという高浜駅のすぐ近くの景色です。 特集は「常陸国。水の旅、川の旅」です。 内容は、土浦駅を起点に、霞ヶ浦や筑波山方面へのサイクリング記事ですが、地学的な楽しみを紹介しています。


(「トランヴェール」誌表紙 2022年11月26日撮影)

 新幹線が北関東に移動するにつれて、雲が切れて、空が見えるようになってきました。

 福島盆地に入ってからは、車窓から見る吾妻の山々はいつものお楽しみ。 一切経山や東吾妻山の積雪は、この時期にしては少なめ。 吾妻小富士にはほとんどなし。 でも、きっとこれからすぐに麓まで真っ白になることでしょう。


(吾妻の山々 2022年11月26日撮影)

 仙台を過ぎれば、晴れ間の中、すぐに盛岡駅に到着。 駅の西側のあるマリオスから(今年も台風の影響で登山ができなかった)岩手山(2,038メートル)を眺めます。 昔有料だった展望室(地上78.3メートル)も今は無料。


(岩手山 2022年11月26日撮影)

 南側の窓から眺めると、手前を流れる北上川の先、きれいな円錐形のたたら山の遠方には早池峰山(1,917メートル)もはっきりと認められました。 天気が良かったので、さらに奥の兜明神嶽の岩峰も確認できました。 三陸側の宮古駅へと続く山田線の路線の方向を俯瞰的に実感することができました。

 北上川の手前には、盛岡駅構内の線路が見えます。 かつて構内にあった転車台は、きれいに撤去されてしまったようですね。


(早池峰山など 2022年11月26日撮影)

 盛岡都心循環バス「でんでんむし」で、街中に移動します。 時刻表を見ると大幅に減便されていました。 (ついでに運賃も1回120円に値上がり)

 あちこち立寄ったりしながら、クラムボンでお茶の時間。 ブレンドと栗のケーキを注文してみました。


(クラムボンにて 2022年11月26日撮影)

 さらに歩いて、紺屋町番屋(カフェ)へ。 「紺屋町番屋」のリーフレットによれば、1891年の建築で、1813年に消防事務所として改築されたものだそうです。 今年、交流体験施設としてリニューアルされ、カフェやショップが入っています。 中はちょっと人が多めでした。 今も街中のシンボルです。 (「紺屋町番屋」はこちら


(紺屋町番屋 2022年11月26日撮影)

 東山堂書店啄木・賢治青春館などにも立ち寄りつつ、中津川沿いの歩道にある喫茶ふかくさへ。 お店の前にある「ぎんどろ」の巨木の葉はほとんど落ちていましたが、お店のまわりは紅葉バージョンで、いつもとは違った(この季節限定)の雰囲気となっていました。


(喫茶ふかくさ(秋バージョン) 2022年11月26日撮影)

 喫茶ふかくさのお隣は、宮沢賢治が盛岡中学受験時に母親イチと泊まった三島屋旅館のあった場所です。 現在は三島内科医院となっています。


(三島内科医院 2022年11月26日撮影)

 再建が叶った新しい盛岡バスセンターにも行ってみました。 中には明るい飲食店が入っています。 1階には地元の福田パンも入りました。 2階にはベアレンビール、 そして3階にはジャズ喫茶まで。 外観は昔の雰囲気を残しています。 (「盛岡バスセンター」はこちら


(盛岡バスセンター 2022年11月26日撮影)

 ここから東の山王の高台にある盛岡地方気象台(旧盛岡測候所)へ。 (「盛岡地方気象台」はこちら


(盛岡地方気象台 2022年11月26日撮影)

 ここは、かつての盛岡測候所時代に、宮沢賢治も何度か訪れた場所です。 (今月の「緑いろの通信」(2022年11月5日号)の月食の記事でも少し書いたところでした。)

 さらに歩いて、岩手公園櫻山神社とまわります。


(岩手公園 2022年11月26日撮影)


(櫻山神社 2022年11月26日撮影)

 その後、盛岡駅西口近くにある岩手県立図書館へ。 閉館までじっくり滞在。 中に居る間に雨が降りはじめていました。

 県立図書館の4階では、さまざまな企画展示が行われていますが、この時期は「第35回啄木資料展 啄木をとりまく人々」(2022年10月22日〜2023年1月25日)が開催中でした。 見学後に、今年の春行われていた「岩手県立図書館創立100周年展」(2022年8月19日〜5月5日)の展示資料目録をもらってきました。


(図書館の企画展示目録 2022年11月26日撮影)

 次の写真は、最新の盛岡関係のリーフレットです。 コロナ期を経て、多くのリーフレットが刷新されていました。 ホテルでは、荷物整理と、明日の準備。


(盛岡のリーフレット各種 2022年11月26日撮影)

11月27日(日)
 晴れ。

 昨晩の(時には強い)雨もあがっていました。 各駅停車で盛岡駅から花巻駅に移動です。 在来線で、朝日を浴びながら乗車する列車の雰囲気もいいものです。 (新幹線と違い「旅行の気分」が高まります。)

 休日早朝の花巻駅前は静かでした。 西から雲も切れてきました。


(早朝の花巻駅 2022年11月27日撮影)

 駅近くの線路の傍は一面の「すすき」風景が続きます。 「銀河鉄道の夜」にみられる銀河鉄道の車窓風景とも重なりました。 (銀河鉄道沿線は、すすきが非常に多い。)


(花巻すすき駅 2022年11月27日撮影)

「銀河鉄道の夜」すすきコレクション

★「そうだ。おや、あの河原は月夜だろうか。」
 そっちを見ますと、青白く光る銀河の岸に、銀いろの空のすすきが、もうまるでいちめん、風にさらさらさらさら、ゆられてうごいて、波を立てているのでした。

★ ごとごとごとごと、その小さなきれいな汽車は、そらのすすきの風にひるがえる中を、天の川の水や、三角点の青じろい微光の中を、どこまでもどこまでもと、走って行くのでした。

★ 向う岸も、青じろくぽうっと光ってけむり、時々、やっぱりすすきが風にひるがえるらしく、さっとその銀いろがけむって、息でもかけたように見え、また、たくさんのりんどうの花が、草をかくれたり出たりするのは、やさしい狐火のように思われました。
 それもほんのちょっとの間、川と汽車との間は、すすきの列でさえぎられ、白鳥の島は、二度ばかり、うしろの方に見えましたが、じきもうずうっと遠く小さく、絵のようになってしまい、またすすきがざわざわ鳴って、とうとうすっかり見えなくなってしまいました。

★ 川上の方を見ると、すすきのいっぱいに生えている崖の下に、白い岩が、まるで運動場のように平らに川に沿って出ているのでした。そこに小さな五六人の人かげが、何か掘り出すか埋めるかしているらしく、立ったり屈んだり、時々なにかの道具が、ピカッと光ったりしました。

★ 二人は、ぎざぎざの黒いくるみの実を持ちながら、またさっきの方へ近よって行きました。左手の渚には、波がやさしい稲妻のように燃えて寄せ、右手の崖には、いちめん銀や貝殻でこさえたようなすすきの穂がゆれたのです。

★汽車はもう、しずかにうごいていたのです。カムパネルラは、車室の天井を、あちこち見ていました。その一つのあかりに黒い甲虫がとまってその影が大きく天井にうつっていたのです。赤ひげの人は、なにかなつかしそうにわらいながら、ジョバンニやカムパネルラのようすを見ていました。汽車はもうだんだん早くなって、すすきと川と、かわるがわる窓の外から光りました。

★ 二人は眼を挙げ、耳をすましました。ごとごと鳴る汽車のひびきと、すすきの風との間から、ころんころんと水の湧くような音が聞えて来るのでした。

★ すすきがなくなったために、向うの野原から、ぱっとあかりが射して来ました。

★そっちを見ましたが、外はいちめんのうつくしい砂子と白いすすきの波ばかり、あの鳥捕りの広いせなかも尖った帽子も見えませんでした。 「あの人どこへ行ったろう。」カムパネルラもぼんやりそう云っていました。


(すすき鉄道の朝 2022年11月27日撮影)

 銀河鉄道の沿線のすすきは、川や風とセットで描かれます。 以前の記憶ですが、IGRいわて銀河鉄道に乗って、盛岡駅を出て、厨川駅や滝沢駅方面に向かう線路沿いのすすきが実にみごとだったことを思い出しました。 東北の秋の鉄道風景では極めて日常的な存在のようです。

 さて、花巻駅すぐ前のLit work placeというカフェ(地ビールレストラン)に入ってみました。 ここは昔からあった土産物店が閉業して別の飲食店として開業した場所です。 時刻はまだ7時半、早朝から開いていたのでここで朝食です。 (「Lit work place」はこちら

 自家製ベーグルを選んで、コーヒーも注文。 ベーグルには野菜をつけることも可能です。 2階にある席へと移動してゆっくりとお茶の時間。


(Lit work placeから 2022年11月27日撮影)

 食事を終えて藤木大明神前から早朝の市内を見下してみました。 すると背後からは突然の風が・・・。 沢山の枯葉を飛ばして、空を埋め尽くしました。 (私自身も枯れ葉まみれ!) 風の又三郎の悪戯でしょうか。


(枯れ葉の舞う花巻の街 2022年11月27日撮影)

 今日は、宮沢賢治の妹、宮沢トシの命日、1922年11月27日からちょうど100年目にあたります。

 当時出来事を『【新】校本宮澤賢治全集』の年譜で改めてふり返ってみます。 (1922(大正11)年11月の記事から関連個所を以下に抜粋)

一一月一九日(日) 下根子桜の別宅で療養中の妹トシを豊沢町の実家へもどす。

一一月二七日(月) みぞれのふる寒い朝、トシの脈搏甚だしく結滞し、急遽主治医藤井謙藏の来診を求める。 医師より命旦夕に迫るをしらされ、蒼然として最愛の妹を見守る。 この一日の緊張したありさまは〈永訣の朝〉〈松の針〉〈無声慟哭〉にえがかれている。
 いよいよ末期に近づいたとき、トシの耳もとでお題目を叫び、トシは二度うなずくようにして午後八時三〇分逝く。 享年二四歳。 押入れに首をつっこんで慟哭する。
 なお、この日の夕方、青森・北海道方面へ巡教にむかう国柱会教職長滝智大の花巻経過に際して、賢治は関徳弥とともに花巻駅頭へ出て、出迎え、面会する。
一一月二八日(火) 弔問客でごった返し、お通夜の食事を出すのに家族は追われた。 宮沢家には下に浄土真宗の、二階に日蓮宗(国柱会)の仏壇があり、賢治はその御曼陀羅に祈りつづける。
一一月二九日(水)寒い風の吹く日、鍛冶町安浄寺で葬儀が行われる。 花巻高女生徒二年以上が門前の両側に整列し、校長の追悼のことばがあった。 賢治は宗旨がちがうため出ず、柩を火葬場へ送り出すとき、町角からあらわれて人びとと共に手をかけて運んだ。 火葬場は同じく鍛冶町(現在は材木町)にある地蔵寺となりの池のそばにあり、うすぐらく陰気な上に、道はじめじめとわるく祖母の梅津セツは着物にゴム靴というありさま、その上火葬場が火事で焼けていたため、野天で焼く始末であった。 薪や萱を山のように積んだ。 安浄寺の僧侶がかんたんな回向をしたあと、賢治は柩の焼け終るまでりんりんと法華経をよみつづけ、そこにいた人びとにおそろしいような、ふるえるような感動を与えた。 遺骨は二つに分けるといい、自分の持ってきた丸い小さな鑵に入れた。

 上記本文中、11月27日の記事「享年二四歳。」に係る「注記」を以下に引用します。

 トシが病臥したのは、宮沢家が大正八年に買いとった隣りの佐藤友八家(本巻補遺・伝記資料篇一八三頁「宮沢家復原図」参照)で、八畳、七畳半の粗末な建物、これに廊下を通じて主家とゆききした。 あるときは雨がもって大さわぎしたし、すきま風になやまされるので七畳半の病室(校本全集年譜では「八畳」を病室とし、「七畳半」をつきそいが使用したとしていたが、前出の「宮沢家復原図」に付された森荘已池の覚え書き他により、七・五畳を病室、八畳をつきそいが使用と記述を訂正する)は一年を通じて屏風を立て、蚊帳をつるありさま、その上、窓が小さく、暗く陰気で病人の気の晴れることはない。 母の看病疲れで七月下根子桜の別宅へ移ってほっとしたトシも、寒さや道の悪さ、食糧運搬の不自由などから、一一月一九日再びこの病室へもどるときは「あっちへいくとおらぁ死ぬんちゃ。寒くて暗くて厭な家だもな」とつぶやいたが、予想どおり一週間後に死を迎えたのである。

 二七日朝からみぞれ。 八畳に寝泊りしているつきそいの細川キヨが炭火をまっ赤におこし、火鉢にうつして部屋をあたため、藤本看護婦が蚊帳に入って脈をはかる。 トシの脈は一〇秒に一二、三打つ。 キヨがだれよりも先に二階にいる賢治へしらせ、賢治はすぐ仲町の藤井謙藏医師へ電話、まもなく羽織袴の医師の来診があって危険がしらされた。 家中が緊張し、やせて、白くとがったおとがいにも黒い長い髪のまとわりつくトシを見守っている。 トシはみぞれを兄にとってきてもらってたべ、そえられた松の針で激しく頬を刺し、「ああいい、さっぱりした、まるで林のながさ来たよだ」とよろこぶ。

 トシは幼少から父の自慢の子であった。 新しい婦人の生き方にも関心深かった父は、母校の教諭にもなった娘を誇らしく思っていた。 その愛娘がながい闘病生活にあえぎ、いま死へ向かおうとするのを見ては、哀れで言うすべもなく、思わず「とし子、ずいぶん病気ばかりしてひどかったな。こんど生まれてくるときは、また人になんぞ生まれてくるなよ」となぐさめた。 トシは「こんど生まれてくるたて、こんどはこたにわりやのごとばかりで、くるしまなあよに生まれてくる」と答える。 また母は愛情の籠ったことばで娘をなぐさめる。

 夜、母の手で食事をしたあと、突然耳がごうと鳴って聞えなくなり、呼吸がとまり、脈がうたなくなる。 呼び立てられて賢治は走ってゆき、なにかを索めるように空しくうごく目を見、耳もとへ口を寄せ、南無妙法蓮華経と力いっぱい叫ぶ。 トシは二へんうなづくように息をして彼岸へ旅立った。 八時半である。 賢治は押入れをあけて頭をつっこみ、おうおう泣き、母はトシの足元のふとんに泣きくずれ、シゲとクニは抱きあって泣いた。 岩田ヤスが「泣かさるんだ、泣かさるんだ」(泣くのはもっともだ、泣いた方がいいんだ)といい、母は「ヤスさん、トシさんをおよめさんにしないでくやしい」と号泣した。 やがて賢治はひざにトシの頭をのせ、乱れもつれた黒髪を火箸でゴシゴシ梳いた。

 重いふとんも青暗い蚊帳も早くとってやりたく、人びとはいそがしく働きはじめた。 そして女たちは経かたびらを縫う。 そのあけがた、針の手をおいてうとうとしたシゲは、落葉ばかりのさびしい野原をゆくゆめを見る。 自分の歩くところだけ、草花がむらがって、むこうから髪を長くたらした姉が音もなく近づいてくる。 そして「黄色な花コ、おらもとるべがな」ときれいな声で言った。

 なお、本項は校本全集年譜の記述による。 森『肖像』(森荘已池『宮沢賢治の肖像』のこと)一五五頁、二四八頁他に、近親者からの聞き書きをあわせて堀尾青史が構成したものとみられる。

 上記記述に基づけば、次の「宮沢家復原図(一階平面図)」の赤く着色した7.5畳がトシのいた場所となります。 すぐ南側には、松の木がありました。


(宮沢家復原図(一階平面図))

 栗原敦監修・宮澤明裕編『宮沢賢治妹・岩田シゲ回想録屋根の上が好きな兄と私』(蒼丘書林)の「姉の死」には、次の描写があります。

 大正十一年の十一月二十七日、花巻はみぞれでした。
 急いで病室を出て、賢さんについて、私も下駄をはいて台所口から庭に出ました。
 ビチョビチョと降る雨雪にぬれる兄に傘をさしかけながら、そこに並べてあるみかげの土台石にのって緑の松の葉に積もった雨雪を両手で大事に取るのを茶椀に受けて、そして松の小枝も折って、病室に入りました。
 空気が動けばとし子姉さんはすぐにせき込むのです。 少しでも空気の動くのを防ごうとかやを吊り、屏風を回してという具合でした。

 図面を見ながら読むと、状況が良くわかります。 また、従来の文章では理解のできなかった「かや」を吊った意味が説明されていました。

 さらに、年譜にも記述がありますが、詩「永訣の朝」「松の針」「無声慟哭」(1922.11.27)から100年。 それぞれ引用しておきます。

   永訣の朝

 けふのうちに
 とほくへいつてしまふわたくしのいもうとよ
 みぞれがふつておもてはへんにあかるいのだ
    (あめゆじゆとてちてけんじや)
 うすあかくいつそう陰惨な雲から
 みぞれはびちよびちよふつてくる
    (あめゆじゆとてちてけんじや)
 青い蓴菜のもやうのついた
 これらふたつのかけた陶椀に
 おまへがたべるあめゆきをとらうとして
 わたくしはまがつたてつぱうだまのやうに
 このくらいみぞれのなかに飛びだした
    (あめゆじゆとてちてけんじや)
 蒼鉛いろの暗い雲から
 みぞれはびちよびちよ沈んでくる
 ああとし子
 死ぬといふいまごろになつて
 わたくしをいつしやうあかるくするために
 こんなさつぱりした雪のひとわんを
 おまへはわたくしにたのんだのだ
 ありがたうわたくしのけなげないもうとよ
 わたくしもまつすぐにすすんでいくから
    (あめゆじゆとてちてけんじや)
 はげしいはげしい熱やあへぎのあひだから
 おまへはわたくしにたのんだのだ
  銀河や太陽 気圏などとよばれたせかいの
 そらからおちた雪のさいごのひとわんを……
 ……ふたきれのみかげせきざいに
 みぞれはさびしくたまつてゐる
 わたくしはそのうへにあぶなくたち
 雪と水とのまつしろな二相系をたもち
 すきとほるつめたい雫にみちた
 このつややかな松のえだから
 わたくしのやさしいいもうとの
 さいごのたべものをもらつていかう
 わたしたちがいつしよにそだつてきたあひだ
 みなれたちやわんのこの藍のもやうにも
 もうけふおまへはわかれてしまふ
 (Ora Orade Shitori egumo)
 ほんたうにけふおまへはわかれてしまふ
 あああのとざされた病室の
 くらいびやうぶやかやのなかに
 やさしくあをじろく燃えてゐる
 わたくしのけなげないもうとよ
 この雪はどこをえらばうにも
 あんまりどこもまつしろなのだ
 あんなおそろしいみだれたそらから
 このうつくしい雪がきたのだ
    (うまれでくるたて
     こんどはこたにわりやのごとばかりで
     くるしまなあよにうまれてくる)
 おまへがたべるこのふたわんのゆきに
 わたくしはいまこころからいのる
 どうかこれが天上のアイスクリームになつて
 おまへとみんなとに聖い資糧をもたらすやうに
 わたくしのすべてのさいはひをかけてねがふ
            《一九二二、一一、二七》

   松の針

   さつきのみぞれをとつてきた
   あのきれいな松のえだだよ
 おお おまへはまるでとびつくやうに
 そのみどりの葉にあつい頬をあてる
 そんな植物性の青い針のなかに
 はげしく頬を刺させることは
 むさぼるやうにさへすることは
 どんなにわたくしたちをおどろかすことか
 そんなにまでもおまへは林へ行きたかつたのだ
 おまへがあんなにねつに燃され
 あせやいたみでもだえてゐるとき
 わたくしは日のてるとこでたのしくはたらいたり
 ほかのひとのことをかんがへながら森をあるいてゐた
    《ああいい さつぱりした
     まるで林のながさ来たよだ》
 鳥のやうに栗鼠のやうに
 おまへは林をしたつてゐた
 どんなにわたくしがうらやましかつたらう
 ああけふのうちにとほくへさらうとするいもうとよ
 ほんたうにおまへはひとりでいかうとするか
 わたくしにいつしよに行けとたのんでくれ
 泣いてわたくしにさう言つてくれ
   おまへの頬の けれども
   なんといふけふのうつくしさよ
   わたくしは緑のかやのうへにも
   この新鮮な松のえだをおかう
   いまに雫もおちるだらうし
   そら
   さはやかな
   terpentineの匂もするだらう
            《一九二二、一一、二七》

   無声慟哭

 こんなにみんなにみまもられながら
 おまへはまだここでくるしまなければならないか
 ああ巨きな信のちからからことさらにはなれ
 また純粋やちひさな徳性のかずをうしなひ
 わたくしが青ぐらい修羅をあるいてゐるとき
 おまへはじぶんにさだめられたみちを
 ひとりさびしく往かうとするか
 信仰を一つにするたつたひとりのみちづれのわたくしが
 あかるくつめたい精進のみちからかなしくつかれてゐて
 毒草や蛍光菌のくらい野原をただよふとき
 おまへはひとりどこへ行かうとするのだ
   (おら おかないふうしてらべ)
 何といふあきらめたやうな悲痛なわらひやうをしながら
 またわたくしのどんなちひさな表情も
 けつして見遁さないやうにしながら
 おまへはけなげに母に訊くのだ
   (うんにや ずゐぶん立派だぢやい
    けふはほんとに立派だぢやい)
 ほんたうにさうだ
 髪だつていつそうくろいし
 まるでこどもの苹果の頬だ
 どうかきれいな頬をして
 あたらしく天にうまれてくれ
   《それでもからだくさえがべ?》
   《うんにや いつかう》
 ほんたうにそんなことはない
 かへつてここはなつののはらの
 ちひさな白い花の匂でいつぱいだから
 ただわたくしはそれをいま言へないのだ
    (わたくしは修羅をあるいてゐるのだから)
 わたくしのかなしさうな眼をしてゐるのは
 わたくしのふたつのこころをみつめてゐるためだ
 ああそんなに
 かなしく眼をそらしてはいけない
            《一九二二、一一、二七》

 今日はその特別な一日ということで、トシに関連する場所を辿ることにしました。 (岩手への新幹線では、山根さんの『宮沢賢治 妹トシの拓いた道 −『銀河鉄道の夜》へ向かって』(朝文社)の何度目かの再読)

 はじめに、トシが学び、後に教員としても通った花巻高等女学校跡に行ってみました。 当時は、花巻駅から東の遠野方面へと続く岩手軽便鉄道の線路(現在は普通の道路)に沿って幸橋を渡り、右手にあった岩手軽便鉄道本社(現在は空き地)を過ぎてすぐの場所です。 花巻生涯学園都市会館(まなび学園)の敷地となっています。


(花巻高等女学校跡(現まなび学園)2022年11月27日撮影)

 付近には、岩手軽便鉄道本社や、賢治が家出上京を経てその年末に教員として就職した岩手県稗貫郡立稗貫農学校もありました。 Google地図の現代の航空写真に当時或いは現在の施設名を記入してみました。


(岩手県稗貫郡立稗貫農学校跡付近地図[賢治の時代](Google地図から作成))


(岩手県稗貫郡立稗貫農学校跡付近地図[現在](Google地図から作成))

 賢治がここにあった岩手県稗貫郡立稗貫農学校に勤めたのは、1921(大正10)年12月〜1923(大正12)年3月までで、同年4月以降は(現 花巻文化会館の地に)移転して岩手県立花巻農学校での勤務となります。

 農学校の跡地には、佐藤隆房の花巻共立病院が1923(大正12)年12月14日に開院します。 その後、1938(昭和13)年に「花巻共立病院」から「花巻病院」へ、さらに1956(昭和31)年には「花巻病院」から「総合花巻病院」へとと改称されます。 (日付は佐藤隆房『自叙伝 醫は心に存する』による)

 総合花巻病院の建物は、最近まで現地にありましたが、市内御田屋町に移転、開院(2020年3月)したため、すでにここは更地となっています。 建物がないことで、付近の地形がよくわかります。 遠くには、花巻市立花巻小学校の校舎が見えます。 まるで別の場所のようです。


(稗貫農学校・総合花巻病院跡 2022年11月27日撮影)

 道路を挟んで反対側は岩手軽便鉄道の鳥谷ヶ崎駅跡となります。 花巻を出て、最初の停車駅です。 現在は、小友木材店となります。 (「小友木材店」はこちら


(鳥谷ヶ崎駅跡 2022年11月27日撮影)

 ここから、上町方面へと向かいます。 写真の通りは「女学校通り」と呼ばれていました。 賢治やトシも日々歩いていたことでしょう。


(女学校通り 2022年11月27日撮影)

 女学校通りの突き当りを左に曲がれば、花巻市役所となります。 その手前には大堰川の橋があり、賢治や高村光太郎も通ったとされるうなぎ料理の店、新ばしがあります。 新ばしについては、板谷栄城『素顔の宮沢賢治』(平凡社)に次の記述があります。

 (略) また関徳弥も「新橋という料理店で藤原嘉藤治氏と飲食をともにした時に、賢治は酒も煙草ものまなかったが、新鮮な果物など人一倍食べた。 労働が激しかったせいか食事もどちらかといえば量の多い方で、やぶやのそばを食べたり、新橋のウナギを食べたりする時は相好をくずした。」


(新ばし 2022年11月27日撮影)

 コロナの影響か「誠に勝手ながら 予約のみ営業をさせていただきます 新ばし」の張り紙が出ていました。 以前に鰻を食べたことがありますが、美味しかった記憶があります。

 花巻市役所前の交差点にある阿部クリーニング店は、賢治とも交流あった斎藤宗次郎の新聞店(書籍取扱い)求康堂跡です。 写真の建物の左寄りが店舗跡となります。 花巻市役所の少し先には賢治の通った花巻川口尋常高等小学校跡などがあります。


(求康堂跡(現阿部クリーニング) 2022年11月27日撮影)

 この交差点から南へ続く広い坂道は舘坂で、下った場所が上町となります。 舘坂は拡張工事が行われるまでは、狭くて場所によりやや急な坂道でした。

 舘坂を下りると、右手には花城桜マンションがあります。 次写真、右奥の高層階のマンションです。 その下には、白金豚で有名な源喜屋があります。

 坂道の途中にはかつて志村写真館がありました。 次写真では画面の左側付近です。 賢治が椅子に座っている有名な写真は、この場所で1924(大正13)年1月14日に撮影されました。


(花城桜マンション付近 2022年11月27日撮影)

 坂道を下りきった場所が上町です。 角には、今では有名観光地になってしまったマルカン大食堂でも有名なマルカンビルがあります。

 この交差点を左に進み、次の岩手銀行花巻支店の信号を右に進むと豊沢町の賢治の家となります。 この交差点前には、かつてトシの主治医だった藤井謙蔵の医院や、賢治の肥料相談所などがありました。


(藤井謙蔵の医院や、賢治の肥料相談所付近 2022年11月27日撮影)

 この交差点のランドマークは、ロートレックのイラストと、ハンプティ・ダンプティ(「鏡の国のアリス」ほか)の壁画がユニークな三田商店です。 ここまで来れば、豊沢町の賢治の家はすぐ目の前です。


(三田商店の壁画 2022年11月27日撮影)

 豊沢町に到着しました。 時刻は「午後」ではないですが、8時半。 100年を経て、今日はすっかり晴れて、穏やかな一日となっていました。 ひとり「蒼鉛いろの暗い雲から/みぞれはびちよびちよ沈んでくる」といった風景を想像してみました。

 当時は道幅も狭かったでしょうし、ぬかるみもあったでしょう。 そう、あれこれと考えると想像では追いつかないレベルに思われました。


(宮沢賢治自宅前 2022年11月27日撮影)

 入口前には、賢治ファンが訪れていました。 豊沢町ポケットパークの「賢治の生家」案内板の影が、賢治のシルエットになって、賢治の家の方角を指していました。


(シルエットの賢治 2022年11月27日撮影)

 続いて、トシの葬儀の行われた真宗大谷派寺院安浄寺方面へと歩いてみました。 途中には高村光太郎ゆかりの浄土宗寺院松庵寺があります。


(松庵寺 2022年11月27日撮影)

 東京、花巻と二度の戦禍を受けた高村光太郎は昭和20年、太田、山口山の麓に(現花巻市太田第3地割)杉皮茸、障子一重の粗末な山小屋に移り、7年間にわたる独居生活を送りました。

 “山林孤棲”六十三歳の光太郎を包む山口山の自然は温かなものばかりでなく、吹雪の夜は寝ている顔や布団に雪がかかり、また夏の夜は、蚊やブヨに悩まされました。自ら「愚劣」「暗愚」と呼び、深い反省の中から真と美に行きぬこうと、こころを斧鑿する厳しい生活でした。 花巻での農耕自炊の七年を支えたものは、地元の人々の土から掘りおこした野菜のような心と、離れることのない妻智恵子への思慕でした。 光太郎は智恵子の命日10月5日に、ここ松庵寺を訪れていました。 (松庵寺門前の「高村光太郎ゆかりの寺」案内板より)

 通りを歩いていると、賢治の俳号をとった風耿(ふうこう)という居酒屋の前に出ました。 ここは、北海道の斎藤征義さんや、イーハトーブ館の岩田さんに誘われて立ち寄った居酒屋です。 花巻の裏通りには懐かしい思い出が点在しています。 向いには餃子の夜来香(イエライシャン)もありました。 (実に懐かしい)


(風耿 2022年11月27日撮影)

 少し歩くと安浄寺に到着しました 宮沢家の以前の菩提寺は、ここ安浄寺でした。 年譜によれば、トシの死後の翌々日11月29日に、ここで葬儀が行われたのです。 賢治の年譜に「正面の通りには、花巻高女生徒二年以上が門前の両側に整列し、校長の追悼のことばがあった。」と記されています。


(安浄寺 2022年11月27日撮影)

 場所は賢治の母方(宮沢イチ)の実家(宮沢商店)の裏手に位置しています。 ここは、例年、時期を決めて賢治の産湯の井戸として公開も行われています。


(宮沢商店前 2022年11月27日撮影)

宮澤賢治の母イチの実家(賢治誕生の家)

 宮澤賢治は、明治29年(1896年)8月27日稗貫郡花巻川口町大字里川口(現花巻市豊沢町)で生まれたことになっています。 しかし実際は、母イチの実家、ここ鍛冶町の宮澤善治家(宮善、現在宮澤商店)で誕生したのでした。 それは当時は産院がなく、長子は母親の実家に戻って出産するのが常であったのです。

 賢治の母方の祖父善治は、温厚篤実の人。 意思強く聡明で、勤勉、努力家でした。 砂糖、小麦粉、雑貨、荒物、灯油などや当時専売品であったタバコ・塩を扱い質素倹約、商売熱心で両親や子供たちなど家中相和し、力を合わせて仕事に励み繁盛いたしました。

 イチはその長女で、父善治や母サメのすぐれた気質をそっくりうけついだ慈悲ぶかく上品であり、また、明るいユーモアをもち笑顔を絶やさぬ人としても伝えられ「日本の母」と評する人もいる程でした。

 第二次世界大戦中の昭和20年8月10日、花巻は空襲を受けましたが、幸いにも当宮澤家は戦災を免れました。 当時の建物や蔵、井戸、池などが今も残っており、賢治が生活した明治、大正、昭和初期の風情が感じられます。 (宮沢商店前案内板より)


(「昭和12年頃の宮澤商店」(案内板の写真より))

 宮沢商店前の道を西へ進んで、東北本線の線路の反対側に出て、少し坂を登れば地蔵寺の前に出ます。


(地蔵寺 2022年11月27日撮影)

 トシが亡くなった時、この「地蔵寺のとなりの池のそば」辺りに火葬場があったということですが、具体的にはよくわかりませんでした。 ただ、地形的に見て、地蔵寺の南側の駐車場が辺りがそれらしく思われました。 年譜では「火葬場が火事で焼けていたため、野天で焼く始末であった。」とありました。 なんと酷い状況でしょうか。 恐らくこの辺りで火葬されたのでしょう。


(地蔵寺付近の駐車場 2022年11月27日撮影)

 ここから、花巻駅方面へと少し歩いて材木町の西公園で休憩。 移築された郡役所の建物(現 花巻市市民の家)があります。 この建物は賢治が亡くなったあと、草野心平、尾形亀之助らが集い、賢治の追悼行事(「宮沢賢治追悼講演会」1933(昭和8)年11月23日)が行われた場所です。 花巻電車の車両は、今日もカゴの中。


(花巻市市民の家 2022年11月27日撮影)

 さらに花巻農学校のあった場所に建てられた花巻文化会館方面へと歩きます。 途中、花巻中学校の北側には、詩「雲の信号」に出てくる四本杉があった場所として「四本杉跡」を記した案内板のある石柱が建てられています。 その傍にあった二階建ての螺旋階段つきのアパートを目印に歩いていたら、取り壊されて更地になっていて、気付かずに通り過ぎてしまいました。


(四本杉跡 2022年11月27日撮影)


(かつてのアパート Googleストリートビュー2022年6月)

   雲の信号

 あゝいゝな せいせいするな
 風が吹くし
 農具はぴかぴか光つてゐるし
 山はぼんやり
 岩頸だつて岩鐘だつて
 みんな時間のないころのゆめをみてゐるのだ
   そのとき雲の信号は
   もう青白い春の
   禁慾のそら高く掲げられてゐた
 山はぼんやり
 きつと四本杉には
 今夜は雁もおりてくる

 古い航空写真(国土地理院 1976年9月7日撮影)を見ると、四本杉がまだ残されているのを確認することができました。 ちょうど取り壊されたアパートの敷地に杉が並んでいたようです。


(航空写真による四本杉)

 花巻中学校西側の賢治詩碑もちょっと確認して、花巻文化会館方面へと急ぎます。

 白金豚の高源のレストランポパイの前を通過して、ぎんどろ公園(花巻文化会館)のある敷地到着です。 公園の緑地は、もう枯葉でいっぱいになっていました。 先ほど引用した詩「雲の信号」の冒頭のフレーズを繰り返したくなるようないいお天気でした。


(ぎんどろ公園 2022年11月27日撮影)

 付近は、賢治が勤務した花巻農学校の跡地とされていますが、敷地と校舎の位置関係が不明瞭でしたので、調べてみました。 先ずは、ここに農学校の校舎があった頃の航空写真(国土地理院)を利用します。 1948(昭和23)年当時のものですが、もちろん賢治の勤務していた時期も、農学校以外は田畑しかない場所でした。


(花巻農学校周辺写真 1948年5月15日撮影)

 この航空写真に、「花巻農学校校舎建築設計略図」及び「花巻農学校寄宿舎略図」(『【新】校本宮澤賢治全集第16巻(下)補遺・資料篇』収録(以下、「第16巻資料」と略記))をもとにして校舎建物位置を着色したのが次の図です。 (併せて、耕地整理された北側の水田を緑色に着色してみました。水田は、耕地整理されていない境界線が曖昧な個所は個人農家所有のものと判断して記載を試みたもので、あくまでも推定です)


(花巻農学校建物(着色) 1948年5月15日撮影)

 この図のレイヤーにGoogle地図をマッチングさせて、着色した部分だけを重ねてみました。 下側の横長の建物が校舎(2階建)、上側の横長が寄宿舎(平屋)です。


(現代の地図に花巻農学校建物を明示した図)

 地図中の「★1」は、レストラン・ポパイの駐車場の「花巻農学校実習田跡」の石柱が建てられている場所でした。 「★2」は、「第16巻資料」において「〔写真三八〕〔大正十二年三月三十日〕、花巻農学校新校舎と教職員」とされている校舎の新築落成式当日に撮影された写真の撮影場所と思われます。


(〔写真三八〕「第16巻資料」より(賢治は右から3人目))

 次に向かうのは、賢治やトシのお墓がある日蓮宗身照寺です。 ぎんどろ公園から身照寺へと続くなだらかな直線の道は、かつて花巻農学校の正門へと続く道でもありました。


(身照寺宮沢家墓所 2022年11月27日撮影)

 身照寺の本堂裏手にある宮沢家の墓所へ。 命日にお参りすることができました。 トシの遺骨は、賢治や父政次郎らにより、国柱会にも分骨されていますが、宮沢家の墓所にも埋葬されています。 墓石の背後の植え込みがきれいになっていました。

 国柱会に分骨されたトシの遺骨は、1928(昭和3)年4月に落慶式が行われた妙宗大霊廟(当時東京市一ノ江)に合同安置されています。

 身照寺はしだれ桜が有名ですが、その由来が書かれた立て看板がありました。

身照寺 しだれ桜

 しだれ桜で有名な山梨県の日蓮宗総本山身延山久遠寺様にある桜の姉妹桜です。 身延山久遠寺並びに身照寺に開かれた南部家によってお手植えされた桜です。

 春の開花には、薄紅色の花が華麗に、そして優雅に枝垂れ一面に咲き誇ります。 その姿はとてもきれいで見事な桜です。 開花の頃御来寺の上、ご覧下さい。


(身照寺本堂としだれ桜 2022年11月27日撮影)

 ちょうど今月初め、久遠寺に行ってきたところで、桜の由来も含め、ちょっと嬉しくなりました。 お参りのあとは、「宮沢賢治ゆかりの梨の木」など見ながら、東北本線の線路の上を渡って再び市街地へ。

 途中、花巻電鉄「西花巻駅」跡地や、花巻電鉄廃線跡も確認しながらの移動です。 廃線跡は独特のカーブ(天文誌「星ナビ」の川口さん力説)が道路となったもので、末広町にあるものです。 賢治最中本舗末廣の裏手を通り、花巻駅の東側に通じていました。 廃線案内本でもあまり紹介されることはありません。


(花巻電鉄廃線跡 2022年11月27日撮影)

 そこから吹張町(ふっぱりちょう)の交差点へ。 吹張ポケットパークを通り抜けて銀河橋を渡り、専念寺の横から再び上町へ。

 精養軒跡や、いくつかの裏通りを訪ねながら、茶寮かだん(旧橋本家別邸)前まで歩いてみました。 (「茶寮かだん」はこちら


(旧橋本家別邸前 2022年11月27日撮影)

 朝からずっと歩いて、疲れてきたところでマルカン大食堂(相変わらず大混雑)に入り、夜来香の餃子とタンメンを注文しました。 次の移動のバスの時間まで、食堂の窓から今日歩いてきたルートを少し再確認しながら休憩です。


(餃子 2022年11月27日撮影)

 次には上町バス停から、新花巻駅方面へのバスに乗車しました。 (総合花巻病院経由なので、進行方向が予想外の方角になって一瞬焦りました) 北上川に架かる朝日橋では、イギリス海岸方面をチェック。


(朝日橋から 2022年11月27日撮影)

 宮沢賢治童話村の前、宮沢賢治記念館口のバス停で下車して、(階段を登り)宮沢賢治記念館を短時間で見学。 続いてポランの広場(花壇)を下りて宮沢賢治イーハトーブ館へ。 受付ではどなたか知らない方がお仕事をされていました。 (珍しい!)


(イーハトーブ館企画展示 2022年11月27日撮影)

 企画展示室は「イラスト展 ひかるの世界」が開催中です。 (「イラスト展「ひかるの世界」を開催します」はこちら(宮沢賢治学会イーハトーブセンター))

 宮沢賢治イーハトーブ館を出て、白鳥の停車場宮沢賢治童話村花巻市博物館とまわりました。


(童話村「月夜のでんしんばしら」 2022年11月27日撮影)

 新花巻駅まで徒歩移動。 新幹線で盛岡駅に一度戻ってから、東京駅行きの新幹線に乗車しました。 一泊ながら、非常にたくさん歩いた岩手行となりました。

 東京駅では、運良く御用列車を目撃。 (ただそれだけのことですが)

11月28日(月)
 晴れ。

 今日からは平日。

 花巻小景として1枚。 ぎんどろ公園にあった小さな碑です。


(「曾てこの地に…」 2022年11月27日撮影)

 写真は「曾てこの地に花巻農学校ありき」という堀籠文之進の碑です。 堀籠文之進(ほりごめ ぶんのしん)は、花巻農学校時代の賢治の同僚です。

11月29日(火)
 晴れのち夜雨。

 雨が降ると冷え込みます。 賢治の新刊から。


賢治の書籍
季刊 アンソロジスト
「季刊 アンソロジスト」
2022年夏季号
岡田基生
修羅のなぎさ
宮沢賢治のイギリス海岸
田畑書店

 聞きなれない雑誌でしたが「文化を編み換えるカルティベイト・マガジン」とありました。 コンテンツのうち、【スケザネ図書室】において「特集・理系と文系の狭間に生まれる文学」として、蔦屋書店コンシェルジュの岡田基生氏による「修羅のなぎさ −宮沢賢治のイギリス海岸」が掲載されています。 賢治に限らず、面白い記事がいろいろとありました。 メインの特集は「●いつ読んでも新しい●太宰治の短編小説」です。



 「賢治の図書館」  「季刊 アンソロジスト」2022年夏季号/岡田基生/修羅のなぎさ −宮沢賢治のイギリス海岸/(田畑書店)を追加しました。

11月30日(水)
 晴れ。

 抱影の『星三百六十五夜 秋』(中公文庫)の11月30日は「秋」の巻最終日となります。 お題は「雨降り星」ということで、おうし座のヒアデス星団(中国の星宿で「畢」)のことと即座に反応してしまいました。 「畢」に「アメフリ」をあてて読ませることに関して、抱影なりの解釈が書かれています。

 天界では、ヒアデス星団を見上げると、「雨降り」どころではなく、明るくなった火星が「火事」のように輝く日々となりました。 来月早々に今シーズンの最大光度となる火星を(晴れれば)日々眺めて楽しんでいます。

 来月8日(満月)の晩の火星の位置を示したものです。 日々移動する火星(-1.9等)は、おうし座の角の間から飛び出すところです。


(2022年12月8日20時の火星)

 今月は、複数の作業を並行で行ったため、予想以上に更新が遅れてしまいました。 来月分も引き続き作業を進めております。



- お願い from Office Kenji -


緑いろの通信

このページは、「賢治の事務所」ページにいらしていただいた方への、不定期刊行誌です。
ご感想、ご意見などありましたらお気軽にどうぞ。

 電子メールはこちらへ
ご感想などありましたらどうぞ



メインページへ

宮沢賢治のページへ

☆星のページへ

△山のページへ

Copyright (C)1996-2022 Atsuo Kakurai. All rights reserved.