月相 | 解 説 |
---|---|
|
「異途への出発」は1925年1月5日の日付をもつ作品です。
この晩の時間の設定ですが、薄明も終了した時間として18時以降が適当でしょう。
仮に20時として月齢を計算すると10.3となります。
この夜の月は「おうし座」のすばるのやや下側、西よりに位置していました。 1998年の夜空では、1月8日(木)の夜が一番近いようです。 月の位置はほぼ同じ、8日の同時刻における月齢も9.8と、かなり一致しています。 作品に付された日付が、詩の原風景であるならば、賢治の見た夜空とほぼ同じと見てもよいでしょう。 違うのは、賢治の見た1925年には、うお座に0.4等の火星が輝いていたことぐらいです。 |
月相 | 解 説 |
---|---|
|
「暁弯への嫉妬」は1925年1月8日の日付をもつ作品です。
詩集の中では、前記の「異途への出発」と同じ旅行中に書かれた作品です。
時間の設定ですが、この作品の先駆的位置付けの「発動機船 第二」を参考にしてみると、その中に登場する恒星、シリウス(αCMa)が昇り、月が海を照らす時間として20時として予想してみました。
その時間の月齢は、13.3です。
月は「ふたご座」の足元付近、「オリオン座」に位置しています。 1998年の夜空では、1月11日(日)の夜が一番近いようです。 月の位置はややずれますが、ほぼ同じと考えてもよいでしょう。 8日の同時刻における月齢も12.7と、かなり一致しています。 余談となりますが、翌9日には「おうし座」のアルデバラン(αTau)が月によって隠される掩蔽が起こり、全国的に観測できます。 |
月相 | 解 説 |
---|---|
|
「冬」は1925年2月5日の日付をもつ作品です。
「八時の電車がきれいなあかりをいっぱいのせて」から、夜20時を原風景の時間としました。
この時間の月齢は11.9となります。
月は「ふたご座」の足元付近に位置しています。 1998年の夜空では、2月8日(日)の夜が一番近いようです。 月の位置はややずれますが、ほぼ同じと考えてもよいでしょう。 8日の同時刻における月齢も11.2と、かなり一致しています。 |
月相 | 解 説 |
---|---|
|
「空明と傷痍」は1924年2月20日の日付をもつ作品です。
時間の設定を20時とすると、月齢は15.4となります。
満月の晩でした。
この晩の夜半過ぎ、皆既月食が起こっていますが、賢治の詩では取り上げられていません。
月は「しし座」のレグルス(αLeo)のすぐ傍に輝いていました。
1998年の夜空では、2月12日(木)の夜が一番近いようです。 月の位置はややずれますが、ほぼ同じと考えてもよいでしょう。 12日の同時刻における月齢も15.2と、かなり一致しています。 但し、今年の晩には月食は起こりません。 |
月相 | 解 説 |
---|---|
|
「〔鈍い月あかりの雪の上に〕」は1927年3月15日の日付をもつ作品です。
時間は月が南中時刻を過ぎた22時としてみました。
その時間の月齢は11.7となります。
月は「しし座」の「ししの大鎌」と呼ばれる並びのすぐ西側に位置していました。
「おうし座」には火星が輝いていました。
1998年の夜空では、3月10日(火)の夜が一番近いようです。 月の位置はややずれますが、ほぼ同じと考えてもよいでしょう。 10日の同時刻における月齢も11.8と、かなり一致しています。 しかしながら、火星は「うお座」にありました。 |
月相 | 解 説 |
---|---|
|
「そのとき嫁いだ妹に云ふ」「〔はつれて軋る手袋と〕」は共に1925年4月2日の日付をもつ作品です。
(同じ日付に「発電所」という作品もあります)
2つの作品とも、時間を特定するには不十分ですが、「そのとき嫁いだ妹に云ふ」に「十三もある昴の星を」と、すばるの記載がありますから、まだ夜半前(すばるの沈む時間は22時ごろになりますから、それ以前)であることがわかります。
仮に20時として月齢を計算すると、8.9となります。
月やすばるは西の方角に集中していますから、賢治の視点もそちらに注目していたようです。
すばると「おうし座」のアルデバラン(αTau)のほぼ中間には火星が見えていました。
1998年の夜空では、4月5日(日)の晩が一番近いようです。 12日の同時刻における月齢も8.3と、ほぼ同じです。 賢治の見ていたであろう月の位置は、「ふたご座」のポルックス(βGem)の傍でしたが、この日の月は、やや「かに座」寄りの位置にあります。 |
月相 | 解 説 |
---|---|
|
「〔どろの木の下から〕」は1924年4月19日の日付をもつ作品です。
盛岡の東側に位置する外山高原への夜行徒歩中に「スケッチ」された作品です。
「月光」「月夜」という言葉しかありませんので、時刻を特定する決め手の言葉はありません。
仮に20時として月齢を計算すると、15.2となります。
この晩、注目すべきことは、土星と接近していて、角距離が1°15'ほどになっていました。
1998年の夜空では、4月12日(日)の晩が一番近いようです。 12日の同時刻における月齢も15.3と、ほぼ同じです。 直接的な月の表現はありませんが、「〔いま来た角に〕」も同じ月夜と思われます。 |
月相 | 解 説 |
---|---|
|
「有明」は1924年4月20日の日付をもつ作品です。
「有明」とは、月のある明け方をさします。
詩の表現「東もけむりだしたので」から、薄明が始まったこと。
そして「月は崇厳なパンの実にかはり」から大気の影響でやや黄色味を帯びた色になったことを表現しています。
時間は4時30分ごろでしょうか。
その時間の月齢は15.3となります。
また、同じ日付を持つ作品「〔東の雲ははやくも蜜のいろに燃え〕」も、ほぼ同時刻と考えられますが、時間的には後になると思われます。
時間特定の手がかりは、「あなたはいまにはかにくらくなられます」の部分で、月が大気の影響を受け減光したか、青空に消えかかる様子を観察したとすれば、4時30分以降、5時20分頃までに限定されるでしょう。
1998年の夜空では、4月13日(月)の夜明けが一番近いようです。 但し、詩の月齢の日が20日、今年の同月齢の日が13日ということで、同時刻における空の明るさが暗くなります。 月の位置はややずれますが、ほぼ同じと考えてもよいでしょう。 今年の13日の同時刻における月齢も15.7と、かなり一致しています。 |
月相 | 解 説 |
---|---|
|
「有明」は1922年4月13日の日付をもつ作品です。
賢治の詩に「有明」とタイトルされたものは2作品あり、春と修羅の「有明」、春と修羅第二集の「有明」とそれぞれ区別しなければなりません。
時間的には、前者の方が遅い時間となります。
この作品では「青ぞらにとけのこる月は」と表現しています。
時間は、日の出(5時2分)からしばらく経過した5時20分ごろとしてみました。
その時間の月齢は15.3となります。
月は「おとめ座」のスピカ(αVir)すぐ傍に位置していました。
しかしながら、この時間では恒星は一つも見えません。
1998年の夜空では、4月13日(月)の夜明けが一番近いようです。 賢治の見た日とまったく同じ13日というのも偶然でしょうか。 月の位置はややずれますが、ほぼ同じと考えてもよいでしょう。 今年の13日の同時刻における月齢も15.7と、かなり一致しています。 月の沈む方位角、高度もほぼ一致しています。 |
月相 | 解 説 |
---|---|
|
「〔つめたい風はそらで吹き〕」は1925年5月10日の日付をもつ作品です。
森佐一と共に、5月10日から5月11日にかけて岩手山への夜歩き登山をしながら創作された作品です。
この晩の月の出は20時半ごろ、ですからそれ以降の時間と言えます。
21時における月齢は17.4。
満月を過ぎてはいますが、まだ明るい月です。
惑星としては、「てんびん座」に0.2等の土星が輝いていました。
1998年の夜空では、5月13日(水)の夜が一番近いようです。 13日の同時刻における月齢も17.0と、かなり一致しています。 詩「春谷暁臥」で、前夜の月が回想されますが、それもこの月と同様です。 賢治が見たと同様に、岩手山麓で見てみたいものです。 |
月相 | 解 説 |
---|---|
|
「牛」は1924年5月22日の日付をもつ作品です。
賢治の年譜などによれば、21日の苫小牧の夜の情景を、翌日(同一夜のうちに作品化したかも)の日付で描いた作品です。
この晩の月の出の時間は、21時25分になりますから、それ以降の時間にスケッチされたものでしょう。
22時における月齢は17.6となります。
月の横「へびつかい座」には-2.6等で木星が輝いていました。
1998年の夜空では、5月14日(木)の夜が一番近いようです。 月の位置はややずれますが、ほぼ同じと考えてもよいでしょう。 14日の同時刻における月齢も18.1と、かなり一致しています。 となりに木星が見当たらないのが寂しいです。 賢治の見た位置に木星が来るのは、今度は2007年5月まで待たなければなりません。 |
月相 | 解 説 |
---|---|
|
「風林」は1923年6月3日の日付をもつ作品です。
賢治が生徒達と岩手山麓で過ごした夜が描かれています。
この晩の月の出時間を見る22時半頃となりますから、かなり遅い時間に「スケッチ」されたものでしょう。
23時で月齢を算出すると18.7となります。
「てんびん座」に輝く木星に妹トシさんの姿を想い、夜空を見上げていたでしょう。
1998年の夜空では、6月14日(日)の夜が一番近いようです。 13日の同時刻における月齢は19.8と、ほぼ一致しています。 「てんびん座」に木星が見えれば文句なしですが、それは2006年6月14日まで待たなければなりません。 この晩でしたら、賢治の見た夜空とほぼ同じ雰囲気を味わうことができるはずです。 また、この詩の翌日の日付を持つ作品「白い鳥」で、前夜の月のようすが「(ゆふべは柏ばやしの月あかりのなか...)」と回想されますが、それもこの月と同様です。 |
月相 | 解 説 |
---|---|
|
「林学生」は1924年6月22日の日付をもつ作品です。
6月21日(土)〜22日(日)の週末を利用しての教え子たちとの岩手山登山の様子が描かれています。
詩の日付は22日ですが、月の出の時間は21日の22時半ごろとなります。
23時における月齢は19.0となります。
1998年の夜空では、6月15日(日)の夜が一番近いようです。 但し、15日の同時刻における月齢は22.8となってしまいます。 これは月の位置や月の出の時刻を勘案すると、15日の方が近いためです。 |
月相 | 解 説 |
---|---|
|
「薤露青」は1924年7月17日の日付をもつ作品です。
花巻を流れる北上川の河原で見た宵の空の風景です。
薄明中の空に東南東から月が昇ります。
20時で月齢を算出すると15.2となります。
1998年の夜空では、7月10日(金)の夜が一番近いようです。 10日の同時刻における月齢は16.3と、若干異なりますが、月の出の時刻などを勘案すれば適切でしょう。 賢治が詩で表現した「この星の夜の大河の欄干はもう朽ちた/わたくしはまた西のわづかな薄明の残りや/うすい血紅瑪瑙をのぞみ...」とある光景を見に行きたいほどです。 |
月相 | 解 説 |
---|---|
|
「〔北いっぱいの星ぞらに〕」は1924年8月17日の日付をもつ作品です。
北上山地、早池峰山へ深夜の徒歩中に「スケッチ」された作品です。
「月はあかるく右手の谷に南中し」や「橙いろと緑との/花粉ぐらゐの小さな星が/互いにさゝやきかはすがやうに/黒い露岩の向ふに沈み」あるいは「月はいたやの梢にくだけ」など星に関する記述も多く、またそれらは時刻を特定する手がかりにもなります。
月の南中時間にヒントを得ると、午前1時10分ごろ、つまり日は変わって、翌18日になっていることがわかります。
8月18日の午前1時として月齢を算出すると15.9となります。
この年、1924年は火星の大接近の年でもありました。
月の右下15°の位置には-2.9等で火星も輝いていました。
1998年の夜空では、8月10日(月)が一番近いようです。 10日の同時刻における月齢は17.1と、若干異なりますが、月の南中の時刻などを勘案すればこの晩が適切でしょう。 (8月10日の午前1時ですのでお間違いなく。) 残念なことは、火星は同時に見ることはできません。 月の左側に木星があります。 夏の代表的な流星群、ペルセウス座流星群もそろそろ観察の好機になる時期です。 |
月相 | 解 説 |
---|---|
|
「青森挽歌」は1923年8月1日の日付をもつ作品です。
賢治が教え子の就職のため、また亡くなった妹トシへとの通信を求めてのサハリンへの鉄道旅行の様子が描かれています。
時刻を3時30分頃とすれば、月齢は17.7、満月を数日過ぎたところで、賢治の表現した「半月の噴いた瓦斯でいつぱいだ」にはあまり一致しません。
1998年の夜空では、8月12日(水)が一番近いようです。 12日の同時刻における月齢は19.2と、若干異なりますが、月の位置を勘案すればこの日の夜明け方が適切でしょう。 月のすぐ右側には木星が出ています。 夏の代表的な流星群、ペルセウス座流星群の極大日にあたりますから、数多くの人が眺める夜空となることでしょう。 青森へ向かう夜行列車の車窓から「賢治月夜」を見る旅なんていうのもいいかも知れません。 |
月相 | 解 説 |
---|---|
|
「河原坊(山脚の黎明)」は1925年8月11日の日付をもつ作品です。
8月10日〜11日かけ、早池峰山へ深夜の徒歩中に「スケッチ」された作品です。
詩の後半で、空が夜明けの薄明中となる様子が描かれていますから、3時以降、日の出前までの時間帯であることがわかります。
この時間の月齢は20.9、ちょうど半月の形をしています。
1998年の夜空では、8月14日(金)が一番近いようです。 14日の同時刻における月齢は21.2と、ほぼ一致しています。 (8月14日の午前3時すぎですのでお間違いなく。) 若干異なりますが、月の南中の時刻などを勘案すればこの晩が適切でしょう。 夏の代表的な流星群、ペルセウス座流星群もちょうど極大日すぎの時期です。 |
月相 | 解 説 |
---|---|
|
「原体剣舞連」は1922年8月31日の日付をもつ作品です。
この詩は、賢治が1922年8月30日〜31日にかけ種山が原方面に地質調査に出かけ、下山途中で見た剣舞の踊りを見たことがもとになっています。
「こんや異装のげん月のした」とあるようにほぼ「弦月」の晩です。
20時における月齢は8.6です。
1998年の夜空では、9月1日(火)が一番近いようです。 1日の同時刻における月齢は10.4と、若干異なりますが、月の南中の時刻などを勘案すればこの晩が適切でしょう。 月齢以外の違いは、賢治が見ていた空には「へびつかい座」付近に火星があったことと、'98年の空には東天に木星が出ていることでしょうか。 |
月相 | 解 説 |
---|---|
|
「風景とオルゴール」「風の偏倚」「〔昴〕」は1922年9月18日の日付をもつ作品です。
農学校の生徒たちと岩手山登山をし、山頂近くで夜明けを迎えるころの様子をスケッチした作品です。
詩の中で、「いまなん時です/三時四十分?/ちやうど1時間/いや四十分ありますから...」とあるとおり、時間が記されています。
午前3時40分とすれば、月齢は25.9となります。
1998年の夜空では、9月17日(木)の夜が一番近いようです。 17日の同時刻における月齢は25.7と、ほぼ一致します。 9月16日に登山し、17日に夜明けを迎えるように計画して岩手山に登山すれば、賢治の見た原風景を楽しむことができるはずです。 但し、今年の場合には月のすぐ下に火星も見えますのでご注意を! |
月相 | 解 説 |
---|---|
|
「風景とオルゴール」「風の偏倚」「〔昴〕」は1923年9月16日の日付をもつ作品です。
これらの作品は、花巻の西方、花巻電気軌道沿いの松倉山方面へ出かけた時に創作された4編のうちの3つです。
いずれも、月が登場します。
詩によって時間が変遷していますが、「風景とオルゴール」から薄明終了前の19時として月齢を計算すると、5.5となり、詩に記された「紫磨銀彩に尖つて光る六日の月」とよく一致します。
1998年の夜空では、9月27日(日)の夜が一番近いようです。 27日の同時刻における月齢は6.7と、若干異なりますが、月の位置なども勘案すれば、この日の晩が一番合っているといえます。 月齢以外の違いは、賢治が見ていた空には「へびつかい座」付近に火星があったことと、98年の空には東天に木星が出ていることでしょうか。 「風景とオルゴール」で「そこから見当のつかない大きな青い星がうかぶ」の星の正体と思われる木星も見えますが、場所は大きく異なり「みずがめ座」に位置しています。 薄明の明るさを見れば、'98年9月27日より'99年の9月16日がぴったりとなります。 |
月相 | 解 説 |
---|---|
|
「善鬼呪禁」は1924年10月11日の日付をもつ作品です。
「こんな月夜の夜なかすぎ」という表現があることから、深夜の情景が描かれていることがわかります。
深夜23時における月齢は12.7となり、「十三日のけぶった月のあかりには」とした賢治の表現によく一致します。
1998年の夜空では、10月5日(月)の夜が一番近いようです。 5日の同時刻における月齢は14.9と、若干異なりますが、月の位置を勘案すればこの晩が適切でしょう。 月齢以外の違いは、'98年の空には「うお座」に土星があったことと、「てんびん座」に木星があることで、賢治の見ていた空よりもだいぶにぎやかな感じを受けます。 賢治の見ていた晩に見えた惑星は火星ぐらいでした。 |
月相 | 解 説 |
---|---|
|
「ローマンス(断片)」は1924年10月12日の日付をもつ作品です。
詩の中で月に関する記述は「月のあかりの汞から」しかなく、時間を限定することはできません。
仮に19時として月齢を計算すると、13.6となります。
1998年の夜空では、10月5日(月)の夜が一番近いようです。 5日の同時刻における月齢は14.7と、若干異なりますが、月の位置を勘案すればこの晩が適切でしょう。 |
▲賢治の星の話題ヘ戻る |
メインページへ |
宮沢賢治のページへ |
☆星のページへ |
△山のページへ |