賢治の「犬」と「キメラ」
   

賢治の「犬」と「キメラ」


賢治の詩に登場する「犬」の星座と「キメラ」のかかわり
 賢治の創作した 詩「犬」(春と修羅)及び 詩「〔はつれて軋る手袋と〕」(春と修羅第二集)に、 「キメラ」ということばが用いられています。 「宮澤賢治語彙辞典」(1)を参照してみると、

 キメラ【科】 chimera 遺伝子型の違う組織が結合して同一植物体に混在している現象。 動物の場合モザイクと呼ぶ。 語源は頭が獅子、胴が羊、尾が蛇であるギリシア神話中の怪獣キマイラから、植物学者ウィンクラーがこのように命名した。 詩[犬]では自分に向かって盛んに吠え てくるのに恐れを感じ「それは犬のなかの狼のキメラがこわい」とあり、 詩「〔はつれて軋る手袋と〕」には「春のキメラがしづかに翔ける」 とある。

と説明しています。
 これら二つの詩を創作日付け及び、詩の情景に留意しつつシミュレーションしてみると共通の事項があることに気付きます。 詩の詠まれる時間に、共におおいぬ座(こいぬ座)が見え、賢治の視線の方向にあります。 この事項に留意しつつ詩の創作を考えてみましょう。表にまとめましたので、見て下さい。

詩の風景にみる犬の星座
チャート 解 説 
『犬』(春と修羅)
1922年9月22日4時25分(日の出60分前)の東の空です。 星座からヒントを得て書いたと思われる部分があります。
「なぜ吠えるのだ 二疋とも/吠えてこつちへかけてくる」(東天からおおいぬ座、 こいぬ座が日周運動で昇ってくる様子を示している)
「その薄明の二疋の犬」(薄明の東天におおいぬ座、こいぬ座が見えている)
「犬は薄明に溶解する」(薄明のため、見えている恒星がしだいに減り、 星座はだんだんと「溶解」するように消えてゆく)
星が薄明に消えてゆく様子を「溶ける」としたものは、 詩「暁穹への嫉妬」の下書稿でも 「あの清らかなサファイア風の惑星が/おまへの上の鴇いろをした眩盤に/ひかりたえだえ溶けかかるとき」 という部分に見つけることができます。
実際の詩の中では、賢治が犬に吠えられる様子が犬の具体的な描写とともに描かれて いますから、全て星座を見て創作したというのではなく、賢治の実経験との融合という立場考える方が自然だと思われます。
『〔はつれて軋る手袋と〕』(春と修羅第二集)
1925年4月2日21時の南西の空です。 星座からヒントを得て書いたと思われる部分があります。
「畳んでくらい丘丘を/春のキメラがしづかに翔ける」(賢治は花巻の 東方にある三郎沼方面から、この晩、月をほぼ正面の方角に眺めながら帰花する途中でした。その進行方向にはおおいぬ 座が見えていました。ここでキメラをおおいぬ座(シリウス)に例えると、「丘丘を..しづかに翔ける」という表現に一致するように、 星座は日周運動で地平線に沿って右側へと動いて行きます)

 続いて、キメラと犬との関連ですが、詩「犬」の方では「それは犬の中の狼のキメ ラがこはいのと」と、犬の中に存在する「狼」のキメラに対する恐怖を詠んでいます。すなわち、賢治の中では、キメラの象徴的 存在として、犬が位置付けられていると考えられます。この事柄を裏付けるものとして補足してみましょう。
 まず、おおいぬ座から狼を発想するヒントとして、賢治の天文知識があげられます。 おおいぬ座の1等星シリウスは全天で一番明るい恒星であること(詩「東岩手火山」 では「冬の晩いちばん光って目立つやつです」と記述)、はもとより、 中国では天狼星と呼ばれていたこと(童話「ポランの広場」) を知っていたことに由来するものと思われます。(詩「発動機船 第二」にも「シリウス」として登場) 天狼星(てんろうせい)という名前は、その星の輝きを、天のおおかみの眼の輝きに例えたということに由来しています。 こうした知識が「犬の中の狼」を発想させたのではないでしょうか。
 詩「〔はつれて軋る手袋と〕」では、「春のキメラがしづかに翔ける/ ……眼に象(かたど)って/かなしいその眼に象(かたど)って……」とあります。「狼のキメラ」を持った「シリウス(天狼星)」 は「おおいぬ座の眼」であるとすれば、「……眼に象(かたど)って/かなしいその眼に象(かたど)って……」という意味も 理解できると思われます。
 こうしてみると、少々大胆な発想ですが、

「賢治の眼前の風景」→「おおいぬ座(こいぬ座)」→「シリウス(大犬の眼→天狼星)」→「キメラ」

という発想の流れが、賢治の実体験に重なって、詩の創作に影響を与えたとするのも一考ではないでしょうか。
 また、シリウスという名の語源は、ギリシャ語のセイリオス(「輝くもの、焼焦がすもの」という意味)をローマ文字 に書写したものとされます。ところが、賢治の場合は「おおいぬ座の眼」としてのシリウスを引用しています。 これは、賢治が明るい星を「眼」としてとらえる感性を持っていた(草下英明著「宮沢賢治と星」)とする論考にも関連し、 非常に興味深いことです。事実、「冬のスケッチ」四一では「(大犬の青き眼いまぞきらめきのぞくなれ。)」と このシリウスをはっきりと眼としています。
 「〔はつれて軋る手袋と〕」下書稿(一)の「蝗と月の喪服」では、「……眼に象(かたど)って/泪をたゝえた眼に 象(かたど)って……」という部分があります。 上記の図を参照するとわかるように、すぐそばには「こいぬ座」が見えていて、そのβ星のゴメイサ (Gomeisa:かすかなもの・涙ぐんでいるもの・ないているもの)の意味を知っていたのであれば、 「泪をたゝえた眼」という部分は、そこからの発想であるのかも知れません。 賢治の設計した花壇「Tearful eye」と、この星の関連については、中村節也氏が説明されています。
 なお「キメラ」という語は、散文作品「あけがた」にも「区分キメラ」として使われています。 「キメラ」という言葉そのものは出てきませんが、同じ解釈をしたものとして、詩ノートにある作品 「〔古びた水いろの薄明穹のなかに〕」にも関連した流れがあると思われます。 賢治の作品に登場する「キメラ」を取り上げた書籍としては「宮沢賢治 プリオシン海岸からの報告」(2)や「宮沢賢治ハンドブック」(3)などがありますが、星空や天狼星との関連を指摘した文献はありません。 果たして?

1996,10,15

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(1)原子朗編著「宮澤賢治語彙辞典」東京書籍
(2)入沢康夫著「宮沢賢治 プリオシン海岸からの報告」東京書籍
(3)天沢退二郎編「宮沢賢治ハンドブック」新書館


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