賢治の見た月蝕は?
   

賢治の見た月蝕は?


「月天子」
 草下英明先生の「宮澤賢治と星」(1)には、賢治と星にかかわる多様な考察が載せられていて、賢治の天文観を知るためのよき参考書となります。 この本で「宮澤賢治の作品に現われた星」として「雨ニモマケズ」手帳の『月天子』という作品の解説があります。 『月天子』には、賢治の月に対する知識が詰め込まれています。
 この作品で賢治は、月蝕について「地球の影がそこに映って 滑り去るのをはっきり見た」とその原理ついて言及しています。 そして「三度か」と具体的に自分がその現象を目撃した回数も示しています。 では賢治の見た月蝕はいつのものでしょうか?

賢治の見た月蝕は?
 草下先生も手許に資料がないため省略されていますが、パソコンを駆使して検討してみました。 とは言ってもあまりにも回数が多いので、そのままだとまったく無理です。 私見も交え以下の条件を用意して考察しました。

  • (1) 皆既蝕に限定して予想
  • (2) 賢治が天文に関心を持った盛岡中学入学の1909年4月以降のものを対象
  • (3)「雨ニモマケズ」手帳使用の1932年1月までのものを対象
  • (4) 深夜や明け方よりも夜半前に起きたものを見やすい蝕とする
  • (5) 岩手の天候が悪いことが明らかなものを除外
  • (6) 病気などにより賢治自身が見ることが不可能な状態にあるのが明らかな場合を除外

  •  賢治が誕生してから、花巻、盛岡で観測可能な月蝕は部分蝕12回、皆既蝕14回で計26回あったことになります。 そして、上記の(2)、(3)で指定した期間の皆既蝕は全部で、下の表のとおりとなります。

                                       
     通し番号及び月蝕の年月賢治の年齢蝕の時間帯 賢治の主な状況など 
    No.1 1909年11月27日 12歳 夕 刻 盛岡中学
    No.2 1913年3月22日 16歳 夕 刻 盛岡中学 退寮中(北山清養院)
    No.3 1913年9月15日 17歳 夕 刻 盛岡中学 退寮中(北山徳玄寺)
    No.4 1917年1月8日 20歳 夕 刻 盛岡高等農林 盛岡大雪
    No.5 1920年10月27日 24歳 夕 刻 日連宗に傾倒
    No.6 1924年2月21日 27歳 深 夜 花巻農学校教師(「春と修羅」第二集)
    No.7 1927年12月9日 31歳 深 夜 羅須地人協会
    No.8 1928年6月3日 31歳 夕 刻 羅須地人協会
    No.9 1928年11月27日 32歳 夕 刻 花巻にて病床にある(詩編「疾中」)
    No.10 1931年4月3日 34歳 明け方 県内を石灰販売に歩く
    No.11 1931年9月27日 35歳 明け方 東京神田で病床にある

    (「夕刻」には、宵から夜半前までの蝕を含んでいます。)

    候補の月蝕の回数は11回になります。 天候や賢治の体調を勘案すれば、No.4,9,11の3回は明らかに見ることが難しいと思われますので、残り合計8回分のものが候補にあげられます。 さらに可能性の検討材料として、時間帯別に区分すると次のようになるでしょうか。

      夕刻(夜半前に観測可能)のもの、No.1,2,3,5,8
      深夜にあるもの、No.6,7
      明け方にあるもの、No.10

    夕刻のグループから検討してみましょう。 No.5(1920年10月)については、賢治が日連宗及び国柱会へと深く傾倒していた時期でもあり、積極的に月蝕を見ていないと思われるので除外の対象にしてみます。 従って盛岡中学在籍中のNo.1(1909年11月)No.2(1913年3月)No.3(1913年9月)までと、羅須地人協会で活動したNo.8(1928年6月)が有力と思われます。(No,1〜3では、盛岡中学の時代のNo.1が賢治が星に興味を持ち出した頃にも一致しますから可能性が高いでしょう。 さらにNo.8は、詩『月天子』は1931年10月上旬から1933年初頭までの創作と考えられ、かつ賢治が月蝕の見た回数まで具体的に示していることを勘案すると、近年のものである可能性も高いとも言えます。)
    続いて深夜、明け方のものをみてみましょう。 No.6(1924年2月)のものと、No.7(1927年12月)の深夜の蝕があげられます。 前者は、1924年2月20日の日付を持つ作品「空明と傷痍」のスケッチがされたであろう晩で、その時賢治が月を見ていたことが作品の描写からほぼ明らかになっていることは注目すべきことです。 後者は、詩『月天子』に書かれているように、盛岡測候所の友人と交流があり、望遠鏡で天体を見せてもらったという記録(2)があった年の末ということで、特に関心が高かった時期として、月触を見ていた可能性があるかも知れません。
    唯一明け方の触、No.10(1931年4月)はどうでしょうか。 この時期の年譜をあたってみると、相当勢力的に石灰肥料の営業活動などにあたっています。 早朝の月没帯触まで気がまわらなかったかも知れません。

    以上の検討から、それらしい可能性の高い月蝕の候補は、

      星に興味を持ち出した時期のNo1(1909年11月27日
      詩「空明と傷痍」の日付の深夜のNo.6(1924年2月21日
      盛岡測候所の友人から教えてもらった可能性?No.7(1927年12月9日
      羅須地人協会活動中の夕刻でNo8(1928年6月3日

    の4つでしょうか。 次回花巻で見ることができる皆既月蝕は2000年7月16日(日)に起るものです。 本影蝕は21時少し前から欠け始め、約1時間かけ22時ごろ皆既になります。 欠け終わりは、翌17日(月)の0時、本影蝕終了は1時ごろと約4時間に及ぶ天文ショーとなります。

    余談となりますが、日蝕についても簡単にふれておきましょう。 賢治の生活していた場所(花巻・盛岡・東京など)で見ることのできた日蝕は、1903年3月29日のものから、1929年5月29日のものまで10回あったことになります。 やはり興味深いのは、「賢治が皆既日蝕を見ていたのかどうか」ということでしょうか? 結論からいうと、賢治にその機会は一度もなかったようです。 つまり賢治の詩にもよく出てくる「コロナ」の実物を一度も生涯見ることはなかったわけです。 賢治の見た可能性の最も高い部分日蝕は1918年6月9日のものでしょうか。 盛岡における最大食分は0.8、年譜によればこの日、仙台へ書籍購入に出かけています。

    1996年5月14日にweb上で公開したものに加筆修正

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    (1)草下英明著「宮澤賢治研究業書1 宮澤賢治と星」学芸書林
    (2)堀尾青史著「宮澤賢治年譜」筑摩書房


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