詩「東岩手火山」をめぐる話題(1)
   

詩「東岩手火山」をめぐる話題(1)


詩「東岩手火山」創作の登山はいつ行われたか
 チャートを用いて、シミュレーションの作業をしていくつかの文献をあたっていると、時々食い違いを見つけることがあります。 その典型的な例として詩「東岩手火山」の創作のもととなった登山の日程をみてみましょう。 文献をあたると9月17日〜9月18日にかけ実施された場合と、9月16日〜9月17日にかけ実施されたとする場合の二種類の記述があります。 表にまとめましたので、見て下さい。

詩「東岩手火山」の創作の登山はいつか
登山日程出典文献の記述内容 補足 
1922年
9月17日〜
9月18日
年譜 宮澤賢治伝(1) 十七日「銅線」「滝沢野」。
生徒五、六人をつれて岩手登山。夜満月。
十八日「東岩手火山」。
午前3時ころ頂上で読経。
17日は満月ではない。
1922年
9月17日〜
9月18日
宮澤賢治語彙辞典(2)年譜 (宮沢賢治年譜)
九月十七日〜十八日生徒五、六人と岩手山登山。
(宮沢賢治作品)
十七日[銅線][滝沢野]。
十八日[東岩手火山]。
作品の日は、作品に付されたもの。
1922年
9月16日〜
9月17日
証言宮沢賢治先生(3)p166 九月十六日土曜日、授業が終った午後生徒六〜七人を連れて岩手山登山へと出かけた。
滝沢下車山麓柳沢到着、夕方六時ころから登り始め翌十七日頂上を究め下山の途中、東岩手火山の「焼走り溶岩」を見た。
これが「銅線」「滝沢野」「東岩手火山」の作品となり....。
月日と曜日の関係は一致している。
本文p317,318の藤原氏及び、照井氏の証言に基づくと思われる。
両氏ともこの晩は満月であることを指摘している。(17日は満月ではない。)

 まず、天体暦の立場から検討すると、1922年9月は6日が満月、21日が新月ですので、満月としている記載はすべて誤りであることがわかります。 仮に前年の1921(大正10)年の出来事ととすると、9月は17日(土)が満月であり、土日にかけて登山に行ったとする 話の内容と、ある程度の一致をみることができます。
 賢治の詩の中では「二十五日の月の明りに....」とあるように、旧暦25日の月と観察していますので、17日の早朝だった場合の月齢は24.9、18日の早朝であった場合は25.9となり、よく一致します。 (厳密には異なりますが、いずれも眼視による目測の許容の範囲内と考えられます。) せめて、月のあった星座とか、月が昇った時刻でもわかれば特定できるのですが....。

1996,10,4

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(1)堀尾青史著「年譜 宮澤賢治伝」中公文庫
(2)原子朗編著「宮澤賢治語彙辞典」東京書籍
(3)佐藤成著「証言宮沢賢治先生 イーハトーブ農学校の1580日」農文教


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