「ひるもなほ星見るひと」の『星』とは?
   

「ひるもなほ星見るひと」の『星』とは?


「宮澤賢治と星」から


 賢治の歌の中に「ひるもなほ星見るひと...」と、なにやら意味ありげな言葉で始まる作品があります。


ひるもなほ星見るひとの眼にも似る
さびしきつかれ 早春のたび   


 作品の創作時期が「明治44年の1月より」とされた歌集に収録されていますから、賢治にとって初期の作品です。 草下英明先生の「宮澤賢治と星」(1)では、その星について、一般の恒星ではなく極大光度を迎えた金星が白昼に見えることとの関連を指摘しています。

「ひるもなほ星見るひと」の『星』とは?
 私も以前、高山で白昼に金星を見たことがあります。 昼間でもなお星を見る人の見ている星は金星なのでしょうか? いくつかの可能性をあげ推理してみましょう。

  • (1)極大光度を迎えた金星
  • (2)超新星の出現
  • (3)天文台などでの望遠鏡による星見
  • (4)皆既日蝕中の空で星を見る
  • (5)大彗星の出現

  • と、5つの項目をあげてみました。それぞれについてみてみましょう。

    (1)極大光度を迎えた金星
     この場合が一番一般的な可能性でしょうか。 賢治に身近にも見ることができる人がいたのかも知れません。 昼間の金星は、宵や明け方に見える場合と異なり、光の点としか見ることができません。 ですからよほど鋭眼で注意深い人である場合や、空気のきわめて澄んだ場所であらかじめおおよその位置がわかっているような時ないと容易には確認できません。
     この詩を詠んだ頃では、1910(明治44)年の3月から4月頃にかけての時期が金星の光度や太陽からの離角の点で好条件であったと推測できます。

    (2)超新星の出現
     超新星は、星の末期に大爆発を起こし、ものすごい明るさで輝き、時には白昼でも見えるような光度にまで達する現象です。 一般に言う新星の大規模なものです。 日本では藤原定家の「明月記」にある「客星(彗星や新星などふだん見慣れない星をさす)」の記述が、後年日本のアマチュア天文家射場保昭(いばやすあき)氏の天文誌への寄稿により欧米の研究者らの目にとまり、現在のM1(かに星雲)の元の姿であることが判明しています。
     賢治の時代にもこのような天文現象があったのでしょうか? 記録によれば、この歌が詠まれた時代にもいくつかの新星が出現しています。

               
     出現の年月 賢治の年齢出現した星座 最大の等級 
     1901年2月 5歳ペルセウス座  0.2等級
     1903年3月 6歳ふたご座  5.0等級
     1910年11月 13歳とかげ座  4.6等級

     しかし、その中で一番明るいものでも0.2等と、白昼に見るのはまず困難と言えます。 従って超新星でもないようです。
     余談ですが、1901年の新星は、横浜在住のアマチュア天文家井上四郎氏が独立して発見したもので、昼間は見えないにせよ0.2等級ですから、相当明るい新星だったはずです。 ペルセウス座のほぼ中央に出現していました。

    (3)天文台などでの望遠鏡による星見
     賢治はたびたび天文台などを訪問し、望遠鏡などで天体観察をしているようです。 望遠鏡を使えば昼間でも明るい惑星や1等星などを見ることができます。
     もし「望遠鏡を用いて観測している人」について詠んでいたとすると、盛岡測候所か水沢緯度観測所などの施設の望遠鏡を用いていることになります。
     盛岡測候所については、この歌が詠まれた明治44年(1911年)にはまだ開所されていませんでした。 盛岡測候所は1923年9月に開所されています。 水沢緯度観測所は、1899年に「水沢臨時緯度観測所」としてすでに設置されいます。 賢治はここを訪れているのでしょうか? 水沢の観測所は賢治の作品、詩「晴天恣意」や童話「土神と狐」、「風野又三郎」などにも登場します。 しかしまだ14歳であった賢治が訪問していたかどうかは確認するすべもありません。 上記の作品群の制作された年代を勘案すると、この作品の時期よりもかなり時間が経過してからとも考えられます。

    (4)皆既日蝕中の空で星を見る
     皆既日蝕中に星が見えることは大変良く知られていることです。 賢治の時代で起きた花巻、盛岡で観測可能な日蝕 では皆既蝕帯が通過するものは残念ながら一つもありません。 強いてあげれば、賢治の生まれた年、1896年8月9日に北海道東方で皆既蝕が起こり、国内外の観測者が多数布陣したという記録があります。 その時にでも「昼間でも星が見えた」というような報道がされたことに起因するものでしょうか? しかし当時の記録によるとその多くが雲に阻まれ、一部の写真家の記録を除き観測できなかったとのことですから、「星を見る」のも当然不可能なはずです。 また、時間的にも賢治がそのことを詠むのも不自然といえます。

    大彗星の出現
     大彗星のの場合はどうでしょうか? 賢治の時代は大彗星の大量訪問時期とも一致しています。 この歌は、明治44年(1911年)に詠まれていますが、その前年1910年1月に、「1月の大彗星(Great January Comet)」が現われています。 ほとんどの彗星は昼間見ることは不可能とされていますが、この「1月の大彗星」は別名「真昼の彗星(Daylight Comet)」とも呼ばれ、頭部が著しく輝き白昼でも見ることができたと言われます。 もしこの彗星が昼間観察できたとすると、明るい核の部分だけが星のように見えていて、それを見ている人を「ひるもなほ星見るひと」として詠んだとも考えられるのではないでしょうか。

    結論は?
     結論は、一般論は「(1)極大光度を迎えた金星」説、個人的な希望として「(5)大彗星の出現(1月の大彗星)」説をあげたいと思います。

    追加
     (3)天文台などでの望遠鏡による星見に関して、賢治の詩「晴天恣意」の中に、「ひるの十四の星も截り」と白昼の星について言及している部分があります。 この詩は、春と修羅第二集に収録され1924年3月25日の日付があります。 ここでいう昼の星とは、賢治または緯度観測所の観測者実際に観測しているわけではなく、「昼間も星ぼしが天頂儀視野の蜘蛛線上を通り過ぎている」ということを 推測していることのようです。

    1996,5,14

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    (1)草下英明著「宮澤賢治研究業書1 宮澤賢治と星」学芸書林


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