私はこどものときから いろいろな雑誌や新聞で 幾つもの月の写真を見た その表面はでこぼこの火口で覆われ またそこに日が射してゐるのもはっきり見た 後そこが大へんつめたいこと 空気のないことなども習った また私は三度かそれの蝕を見た 地球の影がそこに映って 滑り去るのをはっきり見た 次にはそれがたぶんは地球をはなれたもので 最後に稲作の気候のことで知り合ひになった 盛岡測候所の私の友だちは ---ミリ径の小さな望遠鏡で その天体を見せてくれた 亦その軌道や運転が 簡単な公式に従ふことを教へてくれた しかもおゝ わたくしがその天体を月天子と称しうやまふことに 遂に何等の障りもない もしそれは人とは人のからだのことであると さういふならば誤りあるやふに さりとて人は からだと心であるといふならば これも誤りであるやうに さりとて人は心であるといふならば また誤りであるやうに しかればわたくしが月を月天子と称するとも これは単なる擬人でない
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賢治の体験した月蝕は?
草下先生も手許に資料がないため省略されていますが、あえて挑戦してみました。
とは言ってもあまりにも回数が多いので、そのままだとまったく無理で、以下の条件を用意して考察しました。
賢治が誕生してから、花巻、盛岡で観測可能な月蝕は部分蝕12回、皆既蝕14回で計26回あったことになります。 そして、上記の(2)、(3)で指定した期間の皆既蝕は全部で、下の表のとおりとなります。
通し番号及び月蝕の年月 | 賢治の年齢 | 蝕の時間帯 | 賢治の主な状況など |
---|---|---|---|
No.1 1909年11月27日 | 12歳 | 夕 刻 | 盛岡中学 |
No.2 1913年3月22日 | 16歳 | 夕 刻 | 盛岡中学 退寮中(北山清養院) |
No.3 1913年9月15日 | 17歳 | 夕 刻 | 盛岡中学 退寮中(北山徳玄寺) |
No.4 1917年1月8日 | 20歳 | 夕 刻 | 盛岡高等農林 盛岡大雪 |
No.5 1920年10月27日 | 24歳 | 夕 刻 | 日連宗に傾倒 |
No.6 1924年2月21日 | 27歳 | 深 夜 | 花巻農学校教師(「春と修羅」第二集) |
No.7 1927年12月9日 | 31歳 | 深 夜 | 羅須地人協会 |
No.8 1928年6月3日 | 31歳 | 夕 刻 | 羅須地人協会 |
No.9 1928年11月27日 | 32歳 | 夕 刻 | 花巻にて病床にある(詩編「疾中」) |
No.10 1931年4月3日 | 34歳 | 明け方 | 県内を石灰販売に歩く |
No.11 1931年9月27日 | 35歳 | 明け方 | 東京神田で病床にある |
候補の回数は11回になります。
No.4,9,11の3回は明らかに見ることが難しいと思われますので、合計8回分のものが候補にあげられます。
さらに可能性の検討材料として、時間帯別に区分すると次のようになるでしょうか。
夕刻(夜半前に観測可能)なものが、No.1,2,3,5,8,
深夜にあるもの、No.6,7
明け方にあるもの、No.10
夕刻のグループから検討してみましょう。
No.5については、賢治が日連宗及び国柱会へと深く傾倒していた時期でもあり、積極的に月蝕を見ていないと思われるので除外の対象にします。
従って盛岡中学在籍中のNo.1〜3までと、羅須地人協会で活動したNo.8が有力と思われます。
詩「月天子」は1931年10月上旬から1933年初頭までの創作と考えられ、なおかつ賢治が月蝕の見た回数まで具体的に示していることを勘案すると、少なくとも近年のものである可能性が高いと言えます。
よって、No.8が有力候補。
そしてNo,1〜3でしょうか。
盛岡中学の時代では、No.1が賢治が星に興味を持ち出した頃にも一致しますから可能性が高いでしょう。
番外編では、1924年2月21日のものと、1927年12月深夜の蝕があげられます。
前者は、1924年2月20日の作品「空明と傷痍」が20日の夜に書かれたものらしく、賢治がその晩月を見ていたことがほぼ明らかになっていること。
後者は、「月天子」に書かれているように、その夏からたびたび水沢緯度観測所や盛岡測候所の友人に望遠鏡で天体を覗かせてもらった記録があるということで、特に関心が高かった時期として、見ていた可能性があるかも知れません。
なにぶん不確定な要素からの考察ですので、今後も調査してみたいと思います。
(1)草下英明著「宮澤賢治研究業書1 宮澤賢治と星」学芸書林
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