「〔もうはたらくな〕」の創作 1927(昭和2)年8月20日
   

「〔もうはたらくな〕」の創作
1927(昭和2)年8月20日




『春と修羅』第三集の中に「〔もうはたらくな〕」と題された詩があります。 この詩は、『春と修羅』第三集で1927年8月20日の日付を持つ4編のうちの一つで、 他に「〔和風は河谷いっぱいに吹く〕」「〔二時がこんなに暗いのは〕」「〔何をやっても間に合はない〕」 があります。

『春と修羅』第三集 一〇八八 『〔もうはたらくな〕』より抜粋
もうはたらくな       
レーキを投げろ       
この半月の曇天と      
今朝のはげしい雷雨のために 
おれが肥料を設計し     
責任のあるみんなの稲が   
次から次と倒れたのだ    
稲が次々倒れたのだ     
働くことの卑怯なときが   
工場ばかりにあるのでない  
ことにむちゃくちゃはたらいて
不安をまぎらかさうとする、 
卑しいことだ        

以下略

この詩のなかに「この半月の曇天と」という表現がでてきます。 この表現の解釈にあたって次の三つを検討してみました。

(1)「半月」が雲間に見えている、あるいは雲を通して見えている曇天  
(2)雲の分布が天球において「半月」状になった曇天          
(3)天体の月ではなく、「この半月(はんつき)の曇天と」とし期間を示す

まず(1)についてみるため、この朝の天文暦を調べると、

月の出  22時17分(19日)
薄明開始  3時12分     
日の出   4時50分     
月南中   5時24分     
月の入  12時41分     

となります。シミュレーションした画面は、午前4時30分(日の出20分前)の空を表示させてみましたが、 月が出ています。この時間の月齢は22.1で、ちょうど下弦の月となりますから「半月」については問題は ないと思われます。 詠まれた時間帯を推測すると「この半月の曇天と/今朝のはげしい雷雨のために」とありますから、 時間の経過は、「はげしい雷雨」→「この半月の曇天」と推測することができます。 また下書稿(一)では「夜明けの雨が」、下書稿(二)では「夜明けの雷雨が」とありますから、 朝方で比較的早い時間に雷雨があったことがうかがえます。 雷雨のあった実際の時間帯としては、薄明開始後(3時半ごろ)から日の出前後の時間(5時ごろ)でしょうか。 雷雨が比較的短時間で終われば雲間から月を見ることも可能だったかも知れません。
(2)についてみると、実際に月が見える必要はありませんから、 時間的に経過していたとしても問題はないはずです。 詩の後半部分に、「さあ、一ぺん帰って/測候所に電話をかけ」とあります。 測候所に電話ができる時間ですから、常識的に考えても、夜明け近くの前者の時間よりはこちらの方が現実味を 帯びるとも思われます。
しかしながら、佐藤泰平氏「『春と修羅』(第一集・第二集・第三 集)の〈気象スケッチ〉と気象記録」によると、 この日岩手(盛岡、水沢)の気象の記録では、朝から夕方 までずっと雲量10という記録があり、雲の分布が天球において「半月」状となった時間はなかったと思われ ます。「新校本宮澤賢治全集」によると、 この詩の創作過程には下書稿(一)、下書稿(二)、下書稿(三)(以上「詩ノート」に記載)があり、 下書稿(四)が本文として取り扱われています。この「半月の曇天」は下書稿(四)のみに出てくる言葉で、創作の 経過において後から書き加えられたものです。賢治自身による創作の風景だったのでしょうか。
(3)本文をきちんと読めば明らかに、「はんつき」間続いた曇りの天候と、 今朝のはげしい雷雨によってもたらされたと結果として「責任のあるみんなの稲が/次から次と倒れたのだ」とするのが自然でしょう。


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