「異途への出発」の創作 1925(大正14)年1月5日
   

「異途への出発」の創作
1925(大正14)年1月5日




『春と修羅』第二集の中に「異途への出発」と題された詩があります。 この詩は1925年の初頭(1月5日〜1月9日)に三陸沿岸方面(陸中八木、久慈、安家、普代、宮古、釜石、仙人峠)に旅行した際に 詠まれた詩で、5日付けの「異途への出発」の他には 6日「暁穹への嫉妬」、 7日「〔水平線と夕日を浴びた雲〕〔断片〕」、 8日「発動機船〔断片〕」「旅程幻想」「発動機船一、二、三」、 9日「峠」などがあります。

『春と修羅』第二集 三三八 『異途への出発』
月の惑みと                
巨きな雪の盤とのなかに          
あてなくひとり下り立てば         
あしもとは軋り              
寒冷でまっくろな空虚は          
がらんと額に臨んでゐる          
   ……楽手たちは蒼ざめて死に     
     嬰児は水いろのもやにうまれた……
尖った青い燐光が             
いちめんそこらの雪を縫って        
せはしく浮いたり沈んだり         
しんしんと風を集積する          
   ……ああアカシヤの黒い列……    
みんなに義理をかいてまで         
こんや旅だつこのみちも          
じつはたゞしいものでなく         
誰のためにもならないのだと        
いままでにしろわかってゐて        
それでどうにもならないのだ        
   ……底びかりする水晶天の      
     一ひらの白い裂罅のあと……   
雪が一そうまたたいて           
そこらを海よりさびしくする        

旅の最初に、列車から降り立った時の情景でしょうか、月夜の風景が 詠まれています。「寒冷でまっくろな空虚は」ともありますから、薄明の時間も過ぎ月の明りだけが頼りの時間です。 シミュレートした画面は18時の南東の空のものです。月齢10.2(18時)の月が輝いていました。 この晩の薄明終了はおよそ18時ですから、この時間以降に賢治は駅に降り立っていたことでしょう。
また、この晩の月の出没時間は、

月の出  13時11分    
月南中  20時06分    
月の入  03時09分(7日)

となっています。20時すぎの南中時の月の高度で、およそ64度ありますから、やや見上げる程度の高さでしょうか。 辺りを十分照らし出していたことでしょう。
「……底びかりする水晶天の 一ひらの白い裂罅のあと……」冷えきった夜空を水晶天と 詠んでいますが、次に続く「一ひらの白い裂罅(ひび)のあと……」の描写は何を示すのでしょうか? 水晶天のひびあととは、 賢治の眼前を流星が飛んだものでしょうか?この時期は「しぶんぎ座(りゅう座ι)流星群」の極大の時期ともほぼ一致します。 安易に流星と決めるのは軽率ですが、詩の流れとしても自然に解釈できそうな気がします。


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