「〔東の雲ははやくも蜜のいろに燃え〕」の創作 1924(大正13)年4月20日
   

「〔東の雲ははやくも蜜のいろに燃え〕」の創作
1924(大正13)年4月20日




『春と修羅』第二集の中に「〔東の雲ははやくも蜜のいろに燃え〕」と題された詩があります。 この詩は、4月19日から4月20日にかけて外山高原への夜歩きをしながら創作された4編のうちの一つです。 「〔どろの木の下から〕」及び 「〔いま来た角に〕」が19日、 そして「有明」とこの「〔東の雲ははやくも蜜のいろに燃え〕」が20日の作となります。

『春と修羅』第二集 七四 『〔東の雲ははやくも蜜のいろに燃え〕』より抜粋
東の雲ははやくも蜜のいろに燃え         
丘はかれ草もまだらの雪も            
あえかにうかびはじめまして           
おぼろにつめたいあなたのよるは         
もうこの山地[のどかの谷からも]去らうとします 
ひとばんわたくしがふりかえりふりかえり来れば  
巻雲のなかやあるひはけぶる青ぞらを       
しづかにわたってゐらせられ           
また四更ともおぼしいころは           
やゝにみだれた中ぞらの             
二つの雲の炭素棒のあひだに           
古びた黄金の弧光のやうに            
ふしぎな御座を示されました           

   中 略   

おゝ天子                    
あなたはいまにはかにくらくなられます      

宮澤賢治全集(校異編)によると下書き稿(一)では「普香天子」、つまり「明星天子(金星)」という という題名がつけられていました。しかし賢治は「普香天子」という語を「月天子(月)」として用いていました。
1924年4月20日の「東の雲ははやくも蜜のいろに燃え」となる時間、つまり薄明が始まり、 東の空が黄金の蜜の色に変わろうとする時間をシミュレートしてみました。この時月は西南西の空、地平線近くにいます。
宮澤賢治全集(校異編)の原稿をあたると、すでに削除された部分ですが、「西域風によそはれ /陀羅尼をなさる十六日のお月さま」のうち、「十六」を消して「十八」に書き改めている箇所が見当たりました。いったい この部分にはどういう意味があるのでしょうか?賢治が月齢18の月に託したものは何だったのでしょうか?
「巻雲のなかやあるひはけぶる青ぞらを/しづかにわたってゐらせられ」とは、月が日周運動で 東の空からやがて南中し、夜明けのこの時間に西の空低く移動した様子を示しているようです。
この詩が書かれた夜、月齢はほぼ16です(ほとんど満月ともいえる形です)が、仮に18とするこ とで月の欠け具合も大きくなります。そしてこの夜明け近くの時間にも高度20度以上と高くなります。そうすることでより 崇高な月の姿を表現したかったのでしょうか。
詩の最後に、「あなたはいまにはかにくらくなられます」という部分がありますが、一晩の月の 最後、夜明けが近づき今まさに地平線近くの大気の中に沈んでゆこうとする様子を読み込んだのでしょう。


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