「牛」の創作 1924(大正13)年5月22日
   

「牛」の創作
1924(大正13)年5月21日




『春と修羅』の中に「牛」と題された詩があります。 この詩は賢治が花巻農学校の生徒達と北海道に修学旅行に行った時に詠まれた歌です。

『春と修羅』第二集 一二六 『牛』
一ぴきのエーシャ牛が       
草と地露に角をこすってあそんでゐる
うしろではパルプ工場の火照りが  
夜なかの雲を焦がしてゐるし    
低い砂丘の向ふでは        
海がどんどん叩いてゐる      
しかもじつに掬っても呑めさうな  
黄銅いろの月あかりなので     
牛はやっぱり機嫌よく       
こんどは角で柵を叩いてあそんでゐる

この時の賢治たちの旅のスケジュールは次のとおりでした。 この詩「牛」の日付は1924年5月22日となっています。賢治関連の研究書及び年譜からすると 賢治はこの日の朝、苫小牧の製紙工場を見学。その後白老の酋長宅などを訪問し、15:00に白老を発ち、16時には室蘭、 さらに市内見学ののち17時発の定期船で青森へと移動しています。従って詩の内容から察すると、5月21日の夜の様子を22日として 書き留めたことが考えられます。
1924年5月21日の月の出の頃、場所は苫小牧としてシミュレートしてみました。賢治たち一行は 20時すぎの列車で苫小牧入りをしていますので、その後海岸の砂丘へ出て詠んだ詩のようです。実際の時間はどうでしょうか?  この日の月の出は21時30分頃ですから、宿に入り、夕食後に外出して夜空を見上げるには出来すぎの時間といえるでしょう。 詩「函館港春夜風景」が月齢に関して大幅な脚色を加えていることを考えると、 こちらはだいぶ忠実に詠んでいるかも知れません。 そして月の色を「黄銅いろ」としている点も、月の出後の間もない時間帯を示しているとすれば、 21時30分から22時頃にこの詩の風景が賢治の前に展開していたと考えられます。この日の月齢は18で、満月後3日ほどたった月です。
また、「宮澤賢治全集校異編」によると、下書稿や「海鳴り」と題された初期形には 賢治の心理状態も含めた細かい状況が描かれ、月の描写として「まさしくさっきの黄いろな下弦の月だけれども」という部分などがあります。
この詩について天文学の立場から考証するならば、

賢治たちが苫小牧の宿についてしばらくした時間に月が昇っていること           
東から姿を現わした月が大気減光により「黄銅いろ」になっていること           
異稿「海鳴り」に登場する「……月の歪形 月の歪形……」は大気の影響によると思われること
異稿「海鳴り」に登場する「黄いろな下弦の月」が月齢に見合うこと            

など、賢治の見ていた情景に全て合致します。 これらのことから、実際風景に創作のヒントを得ている可能性がかなり高いと思われます。また、月の右上で明るく輝いているのは木星です。


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